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August 28, 2003

再び産経抄

本日また、あまりの反響の多さからか(これって、みなさんのおかげですよね)、産経抄子が次のようなブルシットを書いておったです。

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十八日付小欄で「ジェンダーフリー(性差解消)というばかげた風潮」について書いたところ、たくさんの反響をいただいた。それには感謝いたしますが、不思議なことがある。これは十八日付コラムなのに、二十四日を過ぎてから一斉にメールが殺到した。

 ▼察するに何かの組織や団体があって、「けしからんコラムがある。やっつけよ」という指示が出たのかもしれない。日常の読者ではないようである。まじめなご意見には耳を傾けたが、多くは「だれが書いているのか」「お前は馬鹿だ」といった悪口雑言Wだった。

 ▼小欄は“はっきりものをいうコラム”を目指しているが、このメール攻勢には自分と少しでも異なる論は封じてしまう圧力、あるいは恫喝(どうかつ)のようなものが感じられた。いつかの特定歴史教科書の不採択を要求するファクス攻撃と似ているかもしれない。

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「察するに何かの組織や団体があって」

これはおそらく団体でも組織でもありません。
草の根の同性愛者たちが、あるいは性同一性障害者たちが、次から次へと知り合いにメールを送って、つまりは「これってちょっとおかしくない? どうやったら反論できるの?」とさまざまに声を掛け合って産経新聞社に送り届けた抗議のメールです。
なぜそうだとわかるのかというと、わたしのところにも、別々の人から、5通ものメールが、べつべつの意見を書いて、べつべつに怒りかつ悲しんで、どうすればよいのかと問い合わせてきたからです。

産経抄子は、この国で、組織も団体も持てずに、隠れざるを得ない人々がいまだいることを想像できないのです。かれらはネットを通じてのみ他者を知っている。いや、それは誇張に過ぎるかもしれません。都会のLGBT(性的少数者)たちはすでにもっとおおっぴらになりましたから。しかし、田舎にはその百倍の人々が隠れています。その彼らを代弁するためにも、一人一人が産経にメールを送った、それが正確なところでしょう。

次の段で抄子はこう書きます
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▼ついでながらメールという機能には、人が感情を爆発させる何かがあるらしい。「ハンドルを握ると人が変わる」などというが、メールに向かうとやはり人が変わるという。手紙では決してそういうことにはならない不思議な作用が働くようなのである。
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このいかりは、決してメールだから筆が走ったのではない。
彼らは真に怒り、真に憤っていた。
産経抄子はメールのせいにしていますが、それは彼のふたたびの誤謬です。
かれらは「自分と少しでも異なる論は封じてしまう圧力、あるいは恫喝(どうかつ)のようなものが感じられた」からこそ、その産経抄子の論理に怒った。それは、論を封じ込まれても生き延びられる産経抄子とは違い、彼ら一人一人の、命の問題ですから。

最後の段を引用します。
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▼批判の多くに小欄が同性愛を否定しているとあったが、よく読んでいただきたい。けっして否定なぞしていない、それを「過剰に強調」する風潮を戒めているのである。過激なフェミニズムには反対する。何度でも繰り返して書くが、「行き過ぎたジェンダーフリーは国を危うくさせる」。

そうでしょうか。
彼は18日付でこう書いています。
「そういう人たちは両性具有とか同性愛を過剰に強調し、男女間の性愛と同列に扱う。男女間の性愛をことさらに「異性間情愛」と呼んだりしている。こうなるとなにが正常なのか」

これはつまり、「同性愛は異常である」と言っていることです。異常なことを、否定しているのではないか、自分たちは否定されているのではないか、そう思っても、当然な書き方ではないでしょうか。「よく読ん」だら、そういうことだ。それ以外のどんな読解が可能でしょう。

「行き過ぎたジェンダーフリーは国を危うくさせる」。それはそうです。行き過ぎたものにはすべて、害があるでしょう。それはしかしジェンダーフリーのせいではない。それは「行き過ぎ」のせいです。

そういうことをわからないから、産経抄子は「バカだ」と悪口雑言をいわれるのではありません。
そういうことをわからないまま、人を傷つけるから「バカだ」なのです。

ほらまた予定調和的に、この書き物は「バカだ」で終わります。
ふむ。

August 21, 2003

ジェンダーフリー

産経抄っていう、産経新聞の天声人語みたいなコラムが18日付でつぎのような文章を載せましたんねん。

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  ジェンダーフリー(性差解消)という名のばかげた風潮は、とどまるところを知らない。東京の港区が男女共同参画政策の一つとして区の刊行物八千部を全職員に配った。その刊行物で「ちょっと待った! そのイラスト」と、いろいろ注文をつけていたという。

 ▼たとえば保育園の送り迎えの風景で、女性だけが描かれているイラストは「固定観念にとらわれている」からダメ。父親もカバンを持って登園する絵にされた。また女性の晴れ着だけの成人式風景は男性を加えたものに改められた。

 ▼先日、同じ東京の大田区で「変わりゆく社会と女男」「女男が自分らしく働く環境」などと表記した運動のことを書いた。日教組が「男女混合名簿」という名称を「女男混合名簿」と変えよと提唱したこともある。男女はいけない、女男ならよろしい…と。

 ▼そういう人たちは両性具有とか同性愛を過剰に強調し、男女間の性愛と同列に扱う。男女間の性愛をことさらに「異性間情愛」と呼んだりしている。こうなるとなにが正常なのか、判断する常識を人びとから、とくに子供から奪っていくことになる。

 ▼先に“ばかげた風潮”と書いたが、決して軽視することはできない。男らしさ・女らしさを否定するジェンダーフリー教育の弊害は、国を危うくすることになりかねないからだ。日本の伝統や文化も無視されていくことになる。そのうち“夏らしさ”といった季節感も否定されてしまうだろう。

 ▼日曜の楽しみの一つは産経俳・歌壇に目を通すことだが、きのうの俳句に「ピアスして少年無口青嵐」、短歌に「日に焼けて人力車曳く女子(をみなご)の胸当て黒き鎌倉の谷戸」というのがあった。これは前記のイデオロギーとは無縁の時代風景らしい。

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産経抄ってのはおバカさんで有名なんだけど、例の性同一性障害者の戸籍変更の法案の辺りから、こういう反動的なのが目立つようになってきてはいるんだよね。とうとう、鈍い日本の「異性愛情交男性」諸氏もやっと気づきはじめて、おいおい、こりゃ、なんなんだ、いままで何もきいてなかったぞ、とステゴザウルスよろしくおっぽを踏まれてから5秒後にチクッと感じたんだろうなあ。でも、こういうのってもう20年前の言説でさ、こいつらはPCとかも知らないんだわね。

 ▼たとえば保育園の送り迎えの風景で、女性だけが描かれているイラストは「固定
観念にとらわれている」からダメ。父親もカバンを持って登園する絵にされた。また
女性の晴れ着だけの成人式風景は男性を加えたものに改められた。

これは、「ダメ」とか「された」、とか、被害者意識もろだしで、そういうところが彼にとっていやなだけで、別にその事実自体はなんでもないんじゃない? ってレベルでしょ。

 ▼先日、同じ東京の大田区で「変わりゆく社会と女男」「女男が自分らしく働く環
境」などと表記した運動のことを書いた。日教組が「男女混合名簿」という名称を
「女男混合名簿」と変えよと提唱したこともある。男女はいけない、女男ならよろし
い…と。

これはhistoryをhertoryに変えた、とかいう、ジェンダーの意識化の最初にかならずおきる問題で、こういうのは淘汰されて落ち着くところに落ち着くんだから騒ぐ必要なしって、保守派ならそのくらいはいつもの論法なのにね、こういう時に限って過敏になって、なにそれ、「女々しい」んじゃなくって、だわ。

 ▼そういう人たちは両性具有とか同性愛を過剰に強調し、男女間の性愛と同列に扱
う。男女間の性愛をことさらに「異性間情愛」と呼んだりしている。こうなるとなに
が正常なのか、判断する常識を人びとから、とくに子供から奪っていくことになる。

「ことさらに」って、異性間情愛の何がいけないのでしょうね。
ちなみに、「常識」は判断しない。「常識」は、判断なし、思考なしに、自動的に結論が決まっているのです。
そういう「判断しない常識」というのに、再考を促そうというものなんだから、当然のことでしょうに。
おまけにこのおやじ、「子供」なんてのをここで人質に出すなよなあ。おめえみたいなのが子供の判断を奪ってるんだからさ。
またまたおまけに、「両性具有」って何よ? このひと、こうは書いても、ぜったいインターセックスのひとたちのことを念頭に置いてるわけじゃないね。古い辞書って、バイセクシュアルを「両性具有」って訳語を振ってることがあるんだけど、そのレベルでしょう、きっと。100円賭けてもいい。このおじさん、「両性具有」の意味、知らないぜ。

 ▼先に“ばかげた風潮”と書いたが、決して軽視することはできない。男らしさ・
女らしさを否定するジェンダーフリー教育の弊害は、国を危うくすることになりかね
ないからだ。日本の伝統や文化も無視されていくことになる。そのうち“夏らしさ”
といった季節感も否定されてしまうだろう。

どうして「夏らしさ」に飛んじゃうのかなあ。
すごいなあ。
「ばかげた風潮」を云々する前に、自分の「ばかさ加減」を考えた方がよいわね。
「ジェンダーフリー教育の弊害」がなくても、もうとっくにこの国は危ういんだわさ。
だから変えようっていうのにさ。

ああ、またバカとか言っちゃった。
まあね、「デイリー・ブルシット」のコラムだから、しょうがないのかも。
とほほ。人格者になりたいよん。

August 04, 2003

反省

最近ね、なんかやけに腹を立てているんだわね。というか、何かを書こうとすると、どうしても腹の立つことを徹底的にやっつけたくなってしまうわけさ。するとね、いきおい文章を書き殴るということになる。さするとまた、やけに「バカ」とか「頭が悪い」とか、そういうことばかり書き連ねることになる。

よくないね。
たとえ私的な文章でも、そのトーンはやがて私生活を覆うようになるもん。

30歳になったときにね、こういう事態を予測していたフシがありましてね、「このままではオレは憤ってばかりいるじいさまになってしまうだろう」と感じて、ならばそれを先取りしていまのうちに怒っていれば穏やかな老後が暮らせるかもしれないと、75歳の怒っている男を主人公にした1000枚の小説を構想したんだけど、200枚で挫折しました。このまま書いていたら3000枚になってしまいそうだと気づいて、めまいがして書き進めなくなった。

題名はね、『クーパーの蝶』というの。かっこいいでしょ。この「クーパーの蝶」の意味自体が1つの大きな謎なわけで、そんでもっていろいろあって人類は滅びるべきだってのが結論の小説。あのころ、だれもそんなこと言ってなかったけど、その数年後にそういう概念が台頭してきて、なるほどね、考えることというのは世界同時多発するもんなんだねえと知った次第。いつかまた、どこかにしまっちゃったそれを引っ張り出してきて(ほら、あのときはまだコンピュータでもワープロでもなく手書きだったわけで)中断した部分からの続きを書きつなごうと思うような日が来るんだろうか。

August 01, 2003

バチカン

まったくね、同性間結婚を「限りなく不道徳」と呼んだもんだ。

みなさん、これは憶えておいたほうがよい。
あいつらはかつてナチスを賞賛し、ユダヤ狩りを黙認し、ハンセン氏病患者を原罪者と呼んで排斥することを恥じなかった連中だ。そういう連中に「不道徳」と名指しされるほど道徳的なことがあるだろうかね。
私たちはそのことに胸を張るべきだ。破廉恥を恥じない人間たちに最も忌み嫌われる存在こそ、破廉恥さとは逆の価値観を有しているのだと。

自分の罪深さを棚に上げて、だれか他者を「sinner(原罪者)」と指弾する者の顔は、つねにナチのそれに酷似する。彼らが生み出しているのは、かつてもいまも排除と憎悪の論理でしかない。

おお、神よ、彼らを憐れみたまえ。
そして、神よ、その少しを、あなた自身のために遺しておきたまえ。
そうすることができるなら、神よ、私はあなたを赦してやるだろう。
そうすることができないなら、神よ、だからこそまた、私はあなたを深く哀れんで、それでもきっと赦してやることになるだろう。
なぜなら、私は排除ではなく受容を、憎悪ではなく愛を、あなたにも与えるだろうからだ。

ま、そういうことだね。