世界の中心で平和を叫んだ獣
地下鉄に乗るたびに文春文庫で出てる吉本隆明と大塚英志の対談集「だいたいでいいじゃない」を読んでるんですけどね、で、大塚英志が「サブカルチャーがナショナリズムに崩れていく、あるいは志向していく」ことの方向性を小林よしのりが象徴していた事実を指摘しているんです。あるいは「ナショナリズムがサブカルチャー化している」ことをサッカーの応援で振られる日の丸に見て取るとかね。
どうも、巷ではすでにこの日本の選挙、どうも自民党の安泰は変わらないというふうに(新聞社裏情報ですが)聞こえてきてます。
先の謂いですが、大塚くんいわく、「「政治」とはまったく関係ないつもりでやってきたこのジャンル(サブカルチャーのことです=筆者注;そういえば、大塚ってのは漫画評論や原作から出てきた人だそうです)が一気にナショナリズムみたいなものに向かっていったように見えます」。そしてそれを「サブカルチャーの右傾化とか保守化ではなくナショナリズムの質的変化ではないでしょうか」と反語しているわけ。続けて「すでにそれをナショナリズムと呼んでいいかどうかわからないという状況の中にいま君が代、国歌の問題があるんじゃないでしょうか」
彼の目の付け所はとてもよいと思います。ですが、腰が弱いというか、そのあとでさらに向こう側に寄り添って解釈しようとするから方向性があいまいになるんですよ、この人。引用した部分でいえば、「ナショナリズムの質的変化」とか「ナショナリズムと呼んでいいのか」とかの部分です。
方向性など、主体的な選択でよいのです。つねに権力の磁場が働いているこの世界で、権力にすくい取られないようにするにはつねに主体的で臨機応変な自己の選択を主体的に選択することしかありません。なぜなら、サブカルチャーは権力を獲得したことがなかったけれど、ナショナリズムはつねに権力とともにあったからです。そういうことであるにもかかわらず、ナショナリズムが変容したのかもしれないとサブカルチャーと同じ次元で交換可能に言ってしまうのは、あまりにナイーブな(=子供っぽい)、あるいは奇をてらった言い方でしかありません。
物事を日本だけで考えるからこんな渋谷少年少女の現象的なものだけを取り上げて悩んだり嬉々としてひけらかしたりできるのです。そうして渋谷少年少女たちには倫理など通用しないと言ってのける連中まで出てきてしまう。それは知の怠慢であり、傲慢です。渋谷少年少女たちは、イラクの爆弾一発で変わります。いやいや、爆弾落とせばいいと言ってるわけではないですよ。ただし、そういう変化の可能性をすでに内包してしまっている存在としてあるわけですわ。もっと簡単に交通事故で友だちが無防備に死んだりすることだけでも変わるでしょう。それはなぜかというと、そういうときに彼らは言葉を持ち始めるからです。そうして、言葉とはつねに、いつも落としどころを模索するように志向するものなのですよ。落としどころとは何か。それはね、じーんとするところですよ。寂しいとか悲しいとか、そういうものから派生するところです。けっして楽しいところからは言葉は出ないし、帰っても行かない。楽しいときは言葉は要らないの。どうでもいいときも言葉は要らない。でも、そういうところでは人生は進んでいかないのよ。そういう事実を見ないで、この倫理の空洞はかつてないことだと面白がっていてもしょうがないでしょ。現場の生き物は、おそらく、そういう立ちすくむ知を嗤うだけだ。くたばれ、ですよ。そんなもの。ファック・イットっすよ。
わたしゃあね、28年前にTVゲーム文化が始まったときにさ、宇宙でいろんな連中が集まって、さ、あなたがあなたであることを見せてください、とみんなに言われたときに、わたしの十八番はこれですって、インベーダーゲームで100万点を取って見せて、さあ、どうするんだって、思いました。あるいはこの時代のぼくらは、老人ホームに入ってよれよれになったあるとき、木漏れ日の車寄せに停車したトラックの荷台から年代物のやはりインベーダーゲームのまさにあのテーブル型のゲームマシンが降ろされるのを見て、懐かしさにいっぱいになって涙を見せながらも50年返しの条件反射で親指と人差し指をはやくもぴくぴくさせてしまっているのか、ってね。
そりゃね、小咄としては面白いが、そういうところではひとは生きてけない。そういうのを見て面白がっている知の小売人がいるなら、もっと別のものを売ってほしいと思いますよね。あるいは、宇宙人たちのまっただなかで、愛を叫ぶことだって、独りよがりだが、所詮は独りよがりなんだから、好きな、自分でかっこよいと勝手に選択した独りよがりの愛を叫べばいいんですよ。
しかし、それにしても吉本隆明のボケぶりはどうしようもないです。このひと、この本の中で「精神的エイズ」だとかって、ワケのワカランことをとうとうと話し出す。おまけにテメエがいちばん男の論理を振りかざしていたくせに、急に江藤淳がいちばんの男性・父性だとか言い出す。彼の若いときに私は彼の書くものを読んで「まいった」と思いましたが、いまふたたび「まいったね」と思っています。