テロテロとバカみたいに
ちょっと物言い、よろしいか。
というか、いつも物言いなんだがね。
自衛隊のイラク派遣が閣議決定しましたね。
そんでもって、「テロが相次ぐイラクに自衛隊を派遣するための重装備」というのが、当然のように言われていますが、ちょっとお待ち下さい。イラクで起こっているのは、あれは「テロ」じゃないですよ。あれは、国軍の残党が、いままだ“侵略軍”に対してゲリラ戦として戦っているわけです。戦闘、戦争ですよ。じじつ、米国は戦闘終結という変な宣言はしたが、戦争終結はしていない。つまり、ほんとに戦争です。戦争「状態」とか、そういう言葉でごまかすべきでもない。
それを流行語のようにテロ、テロと呼べばいいってもんじゃないでしょう。
というより、そう呼ぶと見誤たる。あなた、ヴェトナム戦争時のゲリラ戦を、だれがテロといいますか?
これはつまり、「戦地に自衛隊を派遣する」と明確に認識しなくてはならない。
これは、歴史を見ても、だれがどう考えても、米国という“侵略軍”勢に加わる、ということです。
わたしはイラク復興に出かけていくことは、必要なことだと思います。
しかしそれには、戦争が終わっていなければならない。
戦争が終わって、それでもテロが続くという状態はあるでしょう。
しかし、現在のイラクは、それではないのです。
憲法がどうだとかいう以上に、その憲法の背景にあった基本精神にのっとって、戦争にはぜったいに加担できない。いま苦しんでいるイラク市民には酷だが、日本の「人的な直接関与」は待ってもらわねばならない。なぜならいま関与しないことで、さらに別の意味で、次元で、分野で、関与できるところが拡大する可能性もあるから、そうやって補償することを必ず検討するということで、いまは忍んでいただかなければならない。
そうしたうえで、戦争が終結した段階で、サンダーバードよろしく国際救援隊として、あるいは「世界の警察」に対峙する概念としての国際的な「世界の消防」国家を標榜して、堂々と出かけていくのです。そのときには、「テロ」で殺されても撤退なぞしないぞと強く示しながら。だって、そのときは、殺す方が悪いと明示されているから。
しかし、いまは、殺す方にも義がある。なぜなら、戦争だからです。義と義との戦いに、武力は行使しない、行使しても始まらない、武力を使っても何の解決にもならない、というのが、我々日本の、痛く辛く、しかし貴重な結論だったんじゃあありませんか。
「危険だからといって派遣しないわけにはいかない」という小泉は、コンテキストのねつ造です。
危険だから派遣しないのではない。戦争だから派遣しないのです。戦争でなければ、危険であっても派遣する。そんなことは当然です。
どうしてそんな自明のことが、日本という国ではわかられていないのでしょうか。
この程度の論理が通用しないって、ちょっとひどすぎやしないか?