新年の挨拶もしないまま、すでに中旬を超えんとして、この間、ニューヨークは連日マイナス15度以下の厳寒が続いておりました。
ぼくのね、ボーイフレンドが日本に帰っちまうのさ。ビザの関係で。そんでもって、しばらく心機能停止にして、日々を送っているのである。いやさ、つらいわな。まあね、単身赴任と思えばいいんだけどね。ぐすん。
とはいえ、さてさて、2004年一発目のブルシットは毎日新聞大阪社会部のエイズ企画「告知されて」だす。こんど、毎日とお仕事することになるかもしれないんでちょっと迷ったが(ウソ)、どかんと問題点をつきましょう。というか、連載はもう去年の12月に始まってたんだけど、気づかなかったの。でもまあ問題は問題、ということで、また、はい。
*****連載初回の記事っす******
見出しは「道子さん、幸せ一転」
「HIVは不特定多数の人との性行為で感染する。そんな誤りを載せるのはやめてください」
エイズウイルス(HIV)感染者の取材を始めてしばらくたったころ、投書してきた30代の女性に会うことができた。「援助交際」「風俗」「同性愛」……。HIVやエイズを、こんな言葉でくくっていた記者の考えを女性は否定した。
何気なく見ていたテレビに、骨髄バンクのCMが流れた。傍らでは生まれて間もない子どもが寝息を立てている。
「この子のおかげですべてが変わった。生まれながらに病気がちの子どもを持つ親はどんな気持ちなのか。自分に出来ることってなんだろう」
幸せの絶頂にいた道子さん(仮名)はそう思い、骨髄バンクへ登録に行った。同じ日、軽い気持ちで血液検査を受けた。呼び出しの電話は、3日後だった。医師は「HIVに感染しています」と切り出し、専門病院の紹介状を手渡した。
「まさか」「どういうこと?」「何かの間違いじゃない」。胸の鼓動は高鳴り、それからの記憶は途切れた。エイズという病名は、もちろん知っていたが、ごく限られた人の病気というイメージしかなかった。自分とエイズが、どうしても結びつかなかった。
映画でもテレビドラマでも、感染者は死んでいく。死の恐怖と絶望感だけが押し寄せてきた。紹介された病院の待合室でも涙があふれた。
夫と知り合ったのは3年前。年下で、明るく背の高いスポーツマン。快活でおおらかなところにひかれた。結婚生活は絵に描いたように幸せだった。子どもが生まれ乳首に吸い付かれた時、この子のために生きているという幸せを感じた。その直後の告知だった。
普通分娩(ぶんべん)で血まみれになって生まれてきたわが子。母乳が顔いっぱいにかかったこともある。高熱が出て慌てたこともあった。
幸せを思い出すたびに逆に胸が締め付けられ、母である自分を責めた。「どうぞ、子どもに感染していませんように」。神様にすがりつきたい気持ちだった。感染の心当たりは一人しかいない。
「もしも子どもに感染していたら……絶対許さない」。あれほど愛し、信頼していた夫だった。
*************************以上です。
なんか、あたしゃとても違和感を感じましたが、どうですか?
どうしてなのか。少し難しいことを書くけど、まあ付き合ってね。
第2段落で記者はこう書いてるわけ。
「援助交際」「風俗」「同性愛」……。HIVやエイズを、こんな言葉でくくっていた記者の考えを女性は否定した。
女性の否定の言葉は冒頭にありますね。
「HIVは不特定多数の人との性行為で感染する。そんな誤りを載せるのはやめてください」
このふたつの文章から、この記事はまず、「記者」の偏見を浮かび上がらせます。
その偏見とは「HIVは不特定多数の人との性行為で感染する」というものですね。これはたしかに「誤り」です。
ただし、ここで言外に非難されているものがあるの。それは何か。
「不特定多数の人との性行為」っす。そうしてその例として「「援助交際」「風俗」「同性愛」……。」という名称が与えられます。冒頭の女性の言葉は、この「記者の考え」を否定しているのですが、しかし、ここで描かれているのは「「援助交際」「風俗」「同性愛」……。」に対する偏見がいけない、ということではありません。それはそのままにして、つまり、「そういう、不特定多数との性行為をする“自業自得の人たち”以外にも、感染することがあるのです」ということを示しているのです。
エイズの啓発活動では、まず、感染者を感染経路で区別しない、というのが大前提となっています。そうでなければ感染予防の訴えはすべての人には届かないし、抗体検査を受けましょうという呼びかけも、感染者差別を前提にしていると受け取られてしまうから。そんな呼びかけに、誰が応えるかいな。そもそも、それがいちばん知られたくないことなんだからさ。
しかも、これもほんとよくあることで、しかもよく見逃しがちなんだけど、「援助交際」「風俗」「同性愛」を一括りにしているってのがだめなのね。
なぜなら「援助交際」「風俗」は売春という社会的・法的に問題のある行為なんだけど、「同性愛」は違うでしょ。これ自体は「問題」ではないもんね。違法でもない(アメリカのソドミー法の違憲判決はこういうところで効くのだ)。同性愛の中での「問題」をあえて挙げなさいと問えば、たしかにおそらく「不特定多数との性行為」ということを挙げる人がいるかもしれん。だがしかし、その「不特定多数との性行為」は「異性愛」であっても「問題」なのであって、同性愛だから「不特定多数との性行為」が問題なのではありませんことよ。そして、同性愛者であってもその種の性行為をしないひとも多数存在する。すると、これは「同性愛」のそもそもの属性ではないということになる。そして、ここが肝心なのですが、「同性愛」は不特定多数との性行為をしがちだ、と直接にも間接的にも記述することが、新たな誤解と新たな差別・偏見を生むことにつながってしまうのですね。しかも、当の同性愛者たち自身さえもが、情報の行き届かないクローゼットの社会ではその誤解と偏見に自らはまっていくかもしれない。これも大きいのよ。
もう一度書きましょ。「「援助交際」「風俗」「同性愛」……。HIVやエイズを、こんな言葉でくくっていた記者の考えを女性は否定した。」という記述はしかし、この「考え」を否定してはいながら、この三つを同列に扱うこと自体を誤りだとは言っていない。つまり、「そのこと自体は正しいながら、別の経路もあり得るのだ」ということを言っているのにすぎない、ということなのです。おわかり? これが違和感の正体だったのよ。
日本とアメリカは事情が確かに違うもんね。でもさ、「不特定多数の人と性行為をしなくてもHIVに感染することがある」ということを記事で知らしめるために、別の誰か(社会的グループ、しかも弱者である性的少数者)を足蹴にして啓蒙するような記述は誤りなの。一つの足蹴は、次の足蹴をも内包しています。そういうタイプの思考方法なのです。違う書き方を、つまりは、違う考え方を探るべきなのです。エイズへのそもそもの偏見を見極めるには、その手前にある様々な偏見に対しても敏感でなければなりません。それを模索せずに安易な書き方をして、「同性愛」者たちを不心得者のようにして例示するのは、エイズへの戦いで常に第一線を担ってきた同性愛者たちへの、大変な不敬ってなもんよ。そんなことをしても書かねばならないエイズ記事など存在しないわ。
この「告知されて」は、初回から書き方を間違いました。エイズ問題は、現在の人権問題に対する深い理解と共感がなくては書けません。これはおそらくは若い筆者の責任であるというより、デスクの監督不行き届きでしょうね。悲しいことです。だから、ということでもないでしょうけど、この連載、安易なドラマタイズばかりで、なにかいっこうに共感が湧かんのですわ。
エイズ記事、最近、少ないから書かれないよりはマシだわっていう意見もあろうけど、でもね、新聞を作る側としては、売り物なんだからね、書くならちゃんと書かねばプロじゃねえわなあ、とまあ、こんなふうに思ってしまうわけで。はい。
ほんじゃまた。