蛇にピアスのホモフォビア
いま「蛇ピア」読んでみました。文芸春秋、こっちの紀ノ国屋書店で買ったら14.50ドルもするんだよ。ちょっと取り過ぎだよねえ、倍以上だなんて。
ところでその「蛇ピア」ですが、読み始めて、また新たな地平を指し示してくれるのかなあ、なんて期待させる感じでしたんですけどね、なんだか読み進むうちに字面とはぜんぜん違ってずいぶんとまた古風な作品だわなあーと思えてきちゃうのですよ。ピアスだの入れ墨だのと日本の若者にとっての道具立てがじつに“ナウイ”だけで、あの主人公の女の子も、じつに古風な反抗の仕方と古風な人の愛し方をしていて、なるほど、この子(作者)はいい子なんだなあ、と思えちゃいました。だいたい、いい子じゃないとこういう小説は書かない。ほんとうに怖い女の子は『パルタイ』なんていう題の小説を書くもんです。
小説としてどうか。
わたしは、買わないなあ。前述のとおり、ぜんぜん新しくない、というのが一つ。おまけに作り過ぎで、伏線も幼くて、思惑が透けて見えてしまう。
それに、こんなの書いて賞を穫らせたら、欧米では必ずボイコット運動が起きます。作家はもちろんですが、選考委員会にも抗議が行くでしょう。何かと言うとね(ネタバレですから読んでいない人はゴメンです)こういうホモフォビックなものを無自覚に書けてしまう作家は、たとえ幼いのだとしてもまずはダメなんだよって言ってやらねばならんのだと思うわけですよ。クィアを犯人に仕立てあげちゃいけないというのではありません。しかし、もうこの時代、そうしたいならばそういう綿密な知的な詰めの作業が必要なのですよ。70年代じゃないんだからね。変質者が殺人を犯すのは当然だろうってな無自覚を拠り所にして表現なんかできないっしょ。両性愛者を犯人に仕立て上げたいならば、それはもうどこから攻められても対処できるような、確信犯的な伏線の積み上げが必要なわけです。ガキの作文じゃないんだからね、もう。権力なんだもん。
肛門にキュウリ突っ込んで首つり自殺するのと、チンポコの尿道口にお香のスティック入れられたまま殺されるのと、その二つはまるで違う。こんなにも文学は後退してしまってよろしんでしょうか? そういうことに気づかない、あるいは気づいていても問題としない芥川賞の選考委員会ってのは、なんじゃらほい? 詠美ちゃんも龍ちゃんも、おまけにわが尊敬する池澤夏樹先生も、どうしちゃったんでしょうね。些末なことなのかしら? 違うんですよ、それは。