死ねというのと同じ
ゲイ団体などが長く支援してきたシェイダさんの難民認定裁判で、先日、東京地裁の市村陽典裁判長がシェイダさんに「死刑」に等しい判決を下した。
ぼくは鳥肌が立った。
朝日のサイトから引用する。
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「同性愛は死刑」とイラン人の難民申請、東京地裁退ける
「同性愛者の自分が強制送還されると本国で死刑になる」と言って、イラン人男性(40)が、政府に強制退去処分の取り消しなどを求めた訴訟の判決が25日、東京地裁であった。市村陽典裁判長は「公然と同性間の性行為をしない限り刑事訴追される危険性は相当低く、迫害を受ける恐れがあるとは言えない」と述べて本国への送還を適法と判断し、原告側の請求を棄却した。
同性愛者を難民と認めるかについて初の司法判断となった。原告側の代理人は、欧米では、自国での同性愛者に対する迫害を理由に難民と受け入れる例が相次いでいるのに、人権を無視した判決だとして控訴する方針を明らかにした。
判決によるとイラン人男性は91年に来日。そのまま不法残留し、00年に出入国管理法違反容疑で逮捕された。このあと強制退去処分の手続きが始まったため、難民認定を申請したが認められなかった。
市村裁判長は、イラン刑法では男性同士が性行為を行い、それが4人以上の目撃証言で裏付けられると死刑になるとし、最近も2件の死刑が報道されたことを認定した。
しかし、男性が来日前は同性愛者であることを隠して普通の生活を送っていたことを踏まえ「訴追の危険を避けつつ暮らすことはできる」と指摘。「自分が望む性表現が許されないことをもって難民条約にいう迫害にはあたらない」と判断し、原告側の主張を退けた。
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朝日のこの記事からしかいまのところ判決文はわからないが、様々な所与の環境をすべて認定した上での本国送還。市村裁判長の認識になにが欠落していたのか。それは、「自分が望む性表現が許されないことをもって難民条約にいう迫害にはあたらない」という文言からは判断するに、同性愛を「望んだり望まなかったりできる性表現」でしかないと思っていることの誤謬なのだと思う。市村さん、あんた、異性愛者にも同じことを言えるのか? 女が好きなことを、表現しさえしなければいいんだと、ほんとうにそう思っているのか?
「公然と同性間の性行為をしない限り刑事訴追される危険性は相当低く」というのは、とても法律の勉強をした者とは思えない無知だ。米国でのソドミー法の例をとるまでもなく、ソドミー法というのは一般に、「同性愛」という頭の中のことを裁けないがために、その“次善”の策として、同性間性行為を裁こうというものである。頭の中を裁けるものならやつらはほんとうはこの愛を裁きたいのだ。だからオスカー・ワイルドは裁判でその愛を名前で呼ぶことを避けたのである。あえてその名を呼ぶことをしない愛(The love that dare not speak its name)、とはそういうことなのだ。
そうしてソドミー法はその刑罰の対象である性行為をはるかに突き抜けて、その人間全体を否定するように機能するのである。そこにあるのは神への罪である。大文字のSINだ。このsinnerに対して、迫害がないと、市村さん、あんた、よく言えたな。刑法の処罰を逃れられるだと? 逃れてそこにあるのは、法ですらないリンチである。私刑である。それ以上の迫害を、たったひとつの例でよい、歴史上、挙げられるものなら揚げてみよ。「4人以上の目撃証言」など、それをねつ造することこそが神への忠誠だと叫び上げるような社会に送り返すというのは、コロシアムでライオンの前に引きずり出される奴隷たちへの処遇と同じだ。そうして彼らを殺したのは私ではなくライオンだと言い張るのである。市村さん、あんた、その後でピラトよろしく手をすすぐのか?
こんなに腹立たしく、こんなに情けなく、こんなにも身の毛のよだつ判決をぼくは久しく知らない。「イランには同性愛者への死刑がない」というのではないのである。そういう種類の無知蒙昧ではない。「最近も2件の死刑が報道されたことを認定した」上での、確信犯的な無知の選択だ。アムネスティなど先進的国際社会がすでに明確に認定している事実への敢えての無視である。もし頭の中を裁けるのなら、わたしは市村さん、あんたのその無知と怠慢と、そうしてその無知と怠慢をどうにもしようとしないあんたの持続的な努力とを、この手でぎたぎたに引き裂いてやりたい。