« February 2004 | Main | April 2004 »

March 20, 2004

俳句など載せてる場合ではなかった

なんか、八女市でまた「わざわざ」なことが起きてたみたいね。

西日本新聞から引用する
****
八女市議会 同性愛差別禁止の条例案 委員会が文言一部削除 (西日本新聞 2004/03/16)

 性同一性障害や同性愛などを理由にした差別を禁じた福岡県八女市の「男女共同参画のまちづくり条例」案について、同市議会総務文教委員会(川口誠二委員長)は十五日、条文から「その他性に関する事項を理由とする差別をしてはならない」とする文言を削除する修正案をまとめた。「条例が同性愛などを擁護、助長し、性道徳の乱れにつながりかねない」とする反対意見を踏まえた対応だが、「条例の目指す理想が後退した」と残念がる関係者もいる。

 条例案の素案は、市長の諮問機関「市男女共同参画推進審議会」が昨年一月に答申。その際は「その他性に関する事項」の部分を「性的指向」と表現していた。

 しかし、それは同性愛を示唆していると指摘する市民団体などが「同性愛者の教師が条例を根拠に、同性愛賛美を児童に押しつける事態も考えられる」などと反対を表明。市側は表現を「その他性に関する事項」と改め、「同性や異性、両性などすべての性的指向のほか、先天的に性別が不明確な人などを含む概念」と説明していた。

 委員会では「同性愛者などの人権は守るべきだ」との意見では一致したが、「『その他性に関する事項』という部分は拡大解釈され、問題点は解消されない」などの意見が続出。賛成意見はなく、川口委員長は「条例自体に反対する議員もおり、修正して可決しやすい案にした」という。

 素案を答申した審議会の高橋安男委員は「同性愛を含め、さまざまな性的指向のある者に対し根強い偏見があり、それを解消したいとの思いで明文化を目指していたので残念。ただ、『その他』という表現が小児性愛などまで含むと誤解された面もある」と話した。

 性同一性障害については医学的見地から反対意見は出なかった。二十二日の市議会本会議で委員長報告を踏まえ採決の予定。可決されれば、性同一性障害に関する内容を含む条例は全国四番目、九州では宮崎県都城市に次ぐ制定となる。
*****

毎日新聞は次のごとし

*****
「男女共同参画」条例案 同性愛差別禁止を削除−−福岡・八女 (毎日・西部版 2004/03/16)

 性同一性障害や同性愛などに対する差別禁止を盛り込んだ福岡県八女市の「男女共同参画のまちづくり条例」案について、市議会総務文教委員会(川口誠二委員長)は15日、差別禁止対象の「性同一性障害その他性に関する事項」のうち「その他性に関する事項」を条例案から削除することを決めた。「表現があいまいで分かりにくい」というのが理由。22日の最終本会議に修正案が議員提案される。

 条例案は市の男女共同参画推進審議会の答申(1月)を受け、執行部が原案を作成。恋愛感情などが異性か同性、両性のいずれかに向かうことを示す「性的指向」も差別禁止の対象と認め、「性同一性障害または性的指向を理由とする差別をしてはならない」との条文を盛り込んだ。

 ところが「同性愛を助長する」などの抗議が市内外から相次ぎ、市は「性的指向」の表現を「性に関する事項」と直して議会に提案。しかし、その後も「性道徳の崩壊につながる」などの意見が寄せられた。

 川口委員長によると、委員会では「『性に関する事項』は抽象的。ロリコンや痴漢など犯罪も容認すると、拡大解釈される恐れがある」と削除を求める声が続出した。【福岡静哉】

*****

なんだかね、論評するのもうざいなあ。

「委員会では「同性愛者などの人権は守るべきだ」との意見では一致したが」って、西日本に書いてあったが、「拡大解釈」を恐れるんなら、ほんじゃ最初の案文のように「性的指向を理由とする差別をしてはならない」ってのに戻せばいいんじゃないの? なーんにも問題はないっしょ。

削除したってことは、「性的指向を理由とする差別は、してもいい」ってメッセージなんだわね。じゃあ、それを条例に入れちゃえばいいんだわな。

「性同一性障害は医学的に確立した症例なのでこれは病人差別に当たるからしてはならない。しかし、性的指向を理由にする差別は、逆に、同性愛を助長しないためにも積極的に奨励されるべきである」

そんで、これで賛否を問う。
フロイトじゃないけどね、神経症を患っている人たちには、その神経症の内容を言葉で対象化してやる必要があるんだわ。上記の「訂正条例文」を、じっとみつめて、さあ、そのとおりだと思う人は、そこで初めて治療のトバ口に立つということなんです。

八女市に住む若い子たち、上記報道と、それが可決されたという新聞や地方ニュースを見て、がっかりしたろうなあ。ま、そのがっかりがきみを強くするんだ。ふんばれやな。

March 19, 2004

俳句でもひねるか

ほのあまき春甘藍の葉は透けて

山焼きの天を濁音で行く軍機

ねこに恋われも狂気を持て余す

リラ冷えや終日解けぬ謎ひとつ

ちちの忌の母に七度の山笑ふ

きみの小言何だったっけ春うらら

苦きこともちぎって春のサラダ喰ふ

春愁ふ惰眠のねこを呼び捨てに

春雨じゃショパンの雨じゃ濡れてこか

草の芽は精霊のごと地に満ちて

March 11, 2004

やっぱりそうでした「パッション・オブ・ザ・クライスト」

 メル・ギブソンの「パッション・オブ・ザ・クライスト」を見てきましたよ。観客層が老若男女いろいろとばらけていましてね、ラテン系のおじちゃんとかおばちゃんとか、映画館ではふだんあまり見かけないような感じの人たちも多い。まあね、この人たちは教会に集まる人たちと同じなんでしょうね。

 映画はまさしく、聖書を知らない人には何が何だかわからない作りでした。見ている人はみなさんキリストがどういうふうに死んだかを前もって知っている、背景も押さえている、人物関係も名前も頭に入っている。そういう前提のもとに、物語はゲッセマネの祈りの最中にキリストが捕らえられる場面から唐突に始まります。

 結論を言っちゃえば、そもそもこれは“一般”公開する映画ではないなというのが感想でした。一種の“ホーム・ムービー”なのね。ものすごい内輪映画。すべてが「キリスト者」という仲間内の了解事項に拠りかかって作られていて、それ以外の人のことなど、ギブソンの頭にはなかったのだろうなあと思いました。身内さえわかればいいのです。

 映画の内容は「それ以外の人」であるわたしにはすっかりSM映画でした。寄ってたかるユダヤ人たちが大衆心理として、ローマ人たちが肉体行為として、両面からキリストに対しサディズムの極致を尽くすのです。「聖書に忠実」とかって言いますけど、あーた、あんなにしたら、ありゃ、死ぬよ、普通。なにが「客観的」なものかえ。

 ところが、キリストを信じる人にはこれこそが「パッション=受難」なんですね。彼の受けるすべての傷に意味がある。血の滴り一つ一つが「われらが身代わりの羊」というわけです。宗教ってのはどんなことがあっても負けないよう解釈出来るようになってるんだわ。ずるいっしょ。

 ポルノまがいのサディズムと、陶酔を誘う至高の犠牲−−このとんでもない理解のギャップを、この映画はしかし、いささかも埋めようとはしていませんの。

 宗教的メッセージとは別の次元で、「わからんやつはわからんで結構。とにかくおれたちはこれだ」というこの映画の態度が、わたしにはまるっきりいまの米国の雰囲気を象徴しているような気がしてなりませんでしたね。ほら、昨今のネオコンの米国一国主義がそれに重なるでしょ。それに、あそこでキリストを殺せと叫んでるユダヤ人たちの興奮と陶酔とが、ホモは殺せ、ユダヤは殺せ、イスラムは敵だとすっごい形相で叫び上げるいま現在のキリスト教原理主義者たちの姿に重なってしょうがないんですわ。原理主義者の監督さんはまったく逆のことを言いたかったのでしょうが、そういうのにも気づかないほど入っちゃってたのかしらねえ。

 前回に書いたようにギブソンちゃんもブッシュどんも若いころに酒や遊びでかなり生活がメチャクッてたのをキリスト教で救われたと言っている人たちです。「わからないやつはわからなくて結構」とばかりに有無を言わせない態度というのは、じつはご自身のそんな自信のなさの裏返しですわね。ほんと、予想したとおりの単純さでした。拍子抜けするくらい簡単な図式です。

 世界最大の国家と世界最大の宗教がこれほどまでに自己完結的で排他的に提示される情況ってのは、そもそもこの二人に共通するインセキュアさという個人的な要因なんだわねえ。怖いわあ。