やっぱりそうでした「パッション・オブ・ザ・クライスト」
メル・ギブソンの「パッション・オブ・ザ・クライスト」を見てきましたよ。観客層が老若男女いろいろとばらけていましてね、ラテン系のおじちゃんとかおばちゃんとか、映画館ではふだんあまり見かけないような感じの人たちも多い。まあね、この人たちは教会に集まる人たちと同じなんでしょうね。
映画はまさしく、聖書を知らない人には何が何だかわからない作りでした。見ている人はみなさんキリストがどういうふうに死んだかを前もって知っている、背景も押さえている、人物関係も名前も頭に入っている。そういう前提のもとに、物語はゲッセマネの祈りの最中にキリストが捕らえられる場面から唐突に始まります。
結論を言っちゃえば、そもそもこれは“一般”公開する映画ではないなというのが感想でした。一種の“ホーム・ムービー”なのね。ものすごい内輪映画。すべてが「キリスト者」という仲間内の了解事項に拠りかかって作られていて、それ以外の人のことなど、ギブソンの頭にはなかったのだろうなあと思いました。身内さえわかればいいのです。
映画の内容は「それ以外の人」であるわたしにはすっかりSM映画でした。寄ってたかるユダヤ人たちが大衆心理として、ローマ人たちが肉体行為として、両面からキリストに対しサディズムの極致を尽くすのです。「聖書に忠実」とかって言いますけど、あーた、あんなにしたら、ありゃ、死ぬよ、普通。なにが「客観的」なものかえ。
ところが、キリストを信じる人にはこれこそが「パッション=受難」なんですね。彼の受けるすべての傷に意味がある。血の滴り一つ一つが「われらが身代わりの羊」というわけです。宗教ってのはどんなことがあっても負けないよう解釈出来るようになってるんだわ。ずるいっしょ。
ポルノまがいのサディズムと、陶酔を誘う至高の犠牲−−このとんでもない理解のギャップを、この映画はしかし、いささかも埋めようとはしていませんの。
宗教的メッセージとは別の次元で、「わからんやつはわからんで結構。とにかくおれたちはこれだ」というこの映画の態度が、わたしにはまるっきりいまの米国の雰囲気を象徴しているような気がしてなりませんでしたね。ほら、昨今のネオコンの米国一国主義がそれに重なるでしょ。それに、あそこでキリストを殺せと叫んでるユダヤ人たちの興奮と陶酔とが、ホモは殺せ、ユダヤは殺せ、イスラムは敵だとすっごい形相で叫び上げるいま現在のキリスト教原理主義者たちの姿に重なってしょうがないんですわ。原理主義者の監督さんはまったく逆のことを言いたかったのでしょうが、そういうのにも気づかないほど入っちゃってたのかしらねえ。
前回に書いたようにギブソンちゃんもブッシュどんも若いころに酒や遊びでかなり生活がメチャクッてたのをキリスト教で救われたと言っている人たちです。「わからないやつはわからなくて結構」とばかりに有無を言わせない態度というのは、じつはご自身のそんな自信のなさの裏返しですわね。ほんと、予想したとおりの単純さでした。拍子抜けするくらい簡単な図式です。
世界最大の国家と世界最大の宗教がこれほどまでに自己完結的で排他的に提示される情況ってのは、そもそもこの二人に共通するインセキュアさという個人的な要因なんだわねえ。怖いわあ。