昨夕、NYに帰宅しました。今回、初めてノースウエストに乗ったんだけど、ありゃ、すごいね。フライトアテンダントのおばさんたちなんか、自分の家でお洗濯してる最中にちょっと駆けつけたって感じの仕事ぶり。髪は輪ゴムでひっつめただけ、化粧はしてない、かろうじて制服ゴトキものは着ているが、何日続けて着ているのってな感じ。うーん、この割り切り方は見事というか見物というか。
えー、先日の二丁目での同性婚に関するお話会はけっこう人が集まって楽しかったね。お集りの皆さん、ありがとうござんした。その日の昼まで缶詰めだったものだからぜんぜん用意が悪くてちょっと恐縮。わしも上記ノースウエストのお洗濯おばさんみたいだったかも。
さてと、日本にいるときにどっかの新聞で、イラクの人質3人の実家に嫌がらせ電話が殺到しているという報道を見ました。それと、あの女性のホームページもひどい書き込みで閉鎖に追いやられたとか。そういうのはどこの国でもあることなのでそれ自体はそういうもんかなと思うけど、でも、この「量」はどこの国にもあるものではありません。
わたし、「よってたかって」というのがいちばん嫌です。人間のさもしさと卑しさと、それに対する自覚のなさとが重なって、本来そこにある以上の、さらにものすごく邪悪なものが新たにそこに生まれます。どんなに嫌なものでも、それに対してそれに見合う権力以上に大きな力でよってたかって責めて(攻めて)いったら、わたしはそれに対する「嫌さ」よりも、寄ってたかってそうすることの「嫌さ」のほうが嫌です。というか、「寄ってたかって」という言葉自体、力の差を前提としているのだから、そもそも「嫌さ」をあらかじめ含んでいるわけだけどね。
イラクの人質のことをいえば、「(復興支援は国がやっているのに)自分で進んでそういう危険なところに行ったのだから自業自得だ」というのが嫌がらせを言う人たちの背景になっている意見のようです。というか、こういうのってなんでもそうなんだけど、まず結論が先に出てくるのね。この場合で言えば「こいつら、自業自得じゃん」ってうの。そんでもって、そこから理由を考えていろいろ後付けする。もちろん、「なんでこんなこと(わざわざイラクなんかに行ってボランティア活動なんか)するのか、わけわからない」っていうのとか、「そういうのって自己満足でしょ」とか、「善行とかって、偽善じゃないの」とか、「難しいこと考えて自分でみんな背負っちゃってるような気になってるのって、勝手にやれば」とかっていう心象がまずあるわけ。それから、理由付けが行われる。そういう手順なのね、往々にして。
まあ、それはそれでわからなくもない。しかしさ、じつは「日本」っていう国のイメージは、「国」「外務省」がやっている以上に、外国の人にとってはこうした民間外交の善意(あるいは悪意)によって形作られていることが多いのです。外務省ってね、外国に大使館とか領事館とかおいていますが、あんまり仕事しないの。というか、一般レベルで言うとほとんど仕事してない。一般の人々に日本を発信するということは、ほとんどがNGOとかの民間外交が担っているわけです。それ以外にも、留学生とか、企業の駐在員とかね。そういうところでの個人的なつながりが外国人にとっての日本を形作っている。ですから、イラクでも、自衛隊が行けばいいというもんではなくて、その周辺にいろんなレベルでの民間の日本人がいて初めて「日本」という国家像ができてくるわけ。それは、日本でアメリカのこととか考えても同じでしょ。アメリカ大使館の活動なんか知らないけど、二丁目の外人バーならわかる、ってこと。
それをさ、「よけいなことしやがって、それで人質になってるんだから自業自得」ってのはさ、批判のスジ、外してるのよ。よけいなこと、なんかじゃなく、むしろ彼らこそが「日本」なの。それを助けずして、誰を助けるの? 自国民を見殺しにする国家は、はっきりいって、国家であることの体を成さないのです。「日本」を見殺しにする日本「政府」って、何よ、ということなのです。
この倒錯にのっかって、嫌がらせ電話をかけたりするなよなあ。それって、二重の意味でビョーキです。