青少年健全育成
東京で、エッチな本の包装陳列が始まったそうですね。東京都の青少年健全育成条例の新規定らしいですが、ああいうのって、隠されるからよけいに劣情を刺激するのです。劣情というのは、呼んで字のごとし、劣していると思うから密やかで暗いところを好むわけで、その密やかさと暗さを助長したら、もっと劣情しちゃうんじゃないか。そういうことを(というかそういうことだけは)、あの太陽の季節おやじはわかってるはずじゃなかったのでしょうか。
立ち読みできたらもっと刺激する、という説もありますが、そうでしょうか。
立ち読みで興奮しちゃうような輩は、封印されてた方がもっと興奮するんじゃないでしょうか。いや、もっと妄想を膨らませる。立ち読みして、なんだこんなもんかね、と思ってそれでおしまいだった連中も、こんどは隠されているから「こなくそ」とばかりにもっとむらむらしちゃうんじゃないかしらん。
これって、クローゼットのメカニズムと同じなのです。
どうすりゃいいか?
エロいものにフタ、でだめなことは一応、万人の共通認識でしょう。
臭いものは元から絶たなきゃだめ、式で行くと、エロイもの自体を追放駆逐することが物事の根本解決にはなりますが、しかし、エロイものと臭いものとを、ミソも糞も一緒に同様に「いけないもの」とする短絡がここにはあります。
エロイもの、あったっていいじゃない。
要は、それでも一応社会通念に照らしてあんまり変なことしないだけの自分のコントロールをできるかってことです。
エロイものはある。あってもかまわない。そんで、そのつぎにどう対応するか、ということを、もし、子供に教えたけりゃ教える。それしかないでしょう。
かつて寺山修司は、「知るのに早すぎるということはない」といいました。
どんなものでも「知るのに早すぎるということはない」。
なぜなら、それはそこに存在するからです。
次は、知ってもだいじょうぶなように早く大人になる、ということしかないのです。
もちろん、知ってもそれを遊べるような子供である、ということも含めて。
政治に、こういう青少年教育とか健全とか倫理とかやらせると、ろくなもんじゃないという好例がここにあります。次の国会ででてくる教育基本法の改正にしても、自民党や公明党なんかに教育なんか語ってほしくないなあという気がします。