永易さん──「にじ」休刊にあたり
おそらく、海外事情を伝えられようと、日本の事情を伝えられようと、あるいは隣家の事情を伝えられようと、自分のリアリティをさえ遮断してしまっているときにはむしろ逆に「痛み」を感じないようにと、自分自身の内部ですら立ち回るのかもしれません。すべてはそうやって遮断されるのです。個人が世界と断絶しているのも、日本が世界と遮断されているという幻想も、みなそういうメカニズムなのでしょう。日本はLGBTだけではなく、社会そのものが巨大な身内のクローゼットのようです。
無反応の理由、というよりも、「無反応」のなりから抜け出さないでいる理由の根っこはわかっているのです。「にじ」に、無反応だったというのではなく、無反応のなりをしているのがいちばん楽だった、ということなのでしょう。カムアウトしないのがいちばん楽であると思うとき、私たちはリアリティを犠牲にせざるを得ない。そしてその犠牲をすらも楽だと思う擬勢が、次のウソを発明するのです。
私は、カムアウトは時と場合による、という謂いをじつは信じていません。処世としてはいろいろな方法もTPOもあるでしょう。しかし、それは時と場合にはよらず、結論として絶対にカムアウトなのです。そうして初めて批評の土壌に出ても行けると思っています。そうしてその場合、カムアウトはべつにセクシュアリティの固定化には関与しません。むしろおっしゃるサムソン高橋さんの変遷こそがカムアウトなのだ、という意味においてのカムアウト。身内のクローゼットからの大きなカムアウト。それは自己の問題だけではなく、他者を認識するという問題でもあるはずです。
「ほとんど反応はありませんでした」とお嘆きなさるな。
私たちはそこから始めたのではなかったか。そこ以下には引き下がりようもなく、また引き下がらぬとの意志的な思いにおいても。
あなたが「にじ」を始めたのは、そうする以外になかったあなたの誠実であり、あなたの切実でもあったと思います。「自分がゲイもの企画をやったり、『にじ』を自媒体で紹介して、「疑われる」のは困る」という人々は、しかし、そういうウソのほうを楽だと感じているのでしょう。ですが、あなたといちばん最初にお会いした14年前にはいなかった軽々とした若者たちが育っているのも確かです。
「当事者である書き手のがわの内面化されたホモフォビアをかえって刺激し,沈黙させるしかなかった」という事情は、日本の(あるいは東京のギョーカイの)事情を知らぬ私には論評しかねますが、私はホモフォビアともう一つ、もっと日常的な、ゲイネスですらクローゼットなりに急速に日常化してしまうような情報消費社会のかったるさが相手なのではないかと思っています。ちょうど、「なべてこの世は事もなし」と呟きつづけた大江健と、風呂に浸かりながらこの平和な日常に負けたのだと思った高橋和巳の呟きの表裏一体さのような。
LGBTのジャーナリストネットワークというのは、おっしゃるように、自分のネタを共有し合うようなものではないでしょう。書き手はつねに、その種の共同作業が苦手なものです。わたしが新聞社を辞めた理由も、じつは共同作業を監督責務とするようなポストになってしまうからでした。
書き手と編集者という共同はありますが。ご紹介したNLGJAもそういうことは行っていません。各自、自分の仕事は自分でやり、この場は若いジャーナリスト志望者へのセミナーやワークショップを行ったり、あるいは講演会を催したりといったことに使っているようです。さらには、LGBT関連の優れたジャーナリズムの業績の顕彰活動。また、LGBT報道への監視ですね。
もうひとつ例に挙げたAGPも多くのワークショップを行っているようです。AGPのように、LGBT関連のジャーナリズムに関するレクチャーやワークショップを開催するのも面白いと思います。ジャーナリズムに限らず、広くマスメディア一般にかんすることでも。
とにかく数を集めたい。そうして、本名は出せなくとも責任をもって、そのネットワークの名前で発言も行っていきたい(ジャーナリズムのネットワークとしては政治的にはニュートラル=不偏不党ではありますが)。
事務局作りとか、そういうロジスティックももちろん必要でしょうが、まずは参加者の数です。永易さん、あなたの目にかなうようなネットワークを作りたいと思います。その際にはぜひお力添えください。
引き続き、このネットワークのリストへお名前をお寄せください。
yuji_kitamaru@mac.com
です。