ひとを裏切るということ
Uちゃんへ。
裏切りというのは、おそらくだれの心の中でもだいたいはマイナス価値の上位に位置するものだろうから、おそらく裏切りを為す人は、だれかが憎くて進んでそうするという確信犯以外は、自分じゃそれを裏切りだとは認識していない、というか、もっと別の理由付けを自動的に貼り付けていてそれ自体は裏切りだとは思わないとか、それはしょうがなかったのだとか思うようになっている、というか、もっと別の大義を意識の中心に置いてその裏切り自体のことは意識に上らせていない、ということなんだろうと思います。だから、裏切られた人はかんたんに、全面的に、裏切られたという事態をいつまでも引きずることになるが、裏切った当の本人のほうはというと、ぜんぜん関係ないところでのうのうというかぬくぬくというかノンシャランというか、ヘッチャラな顔して楽しくやっているんですね。そうじゃないと、ひとなんか裏切れない。不誠実とか、不実とか、不義とかも、きっとそうなんでしょう。みんな、じぶんにはとても甘い。自分にとっての言い訳はいくらでも湧いて出てくるけれど、ひとにとっての感じ方はかんたんにネグレクトできる。そうじゃないと、自己嫌悪で生きていけないからでしょうね。ひどい話だけど、きっとそうやって生きつづけるひとがいるんです。弱いんだろうね。かわいそうに。そうして、そうやってひとを裏切ったことのあるひとは、それを認識しない限り、かならずこれからもなんどもだれかをおなじように裏切るのです。
わたしたちにできることは、でも、そういうひとを哀れんだり怨んだりすることではなくて、忘れることぐらいなのかもしれません。昨日は記憶でしかなく、明日は空想でしかない。そして、今日は記憶の焚き木なのです。たとえ火傷のように熱くても、早く燃やして,灰にするしかないのです。