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February 27, 2005

ホリエモン理論

ホリエモンに関する、とってもよいテキストを見つけました。
例の江川紹子さんのインタビューです。
これ読むと、じつによくわかります。

http://www.egawashoko.com/c006/000119.html

ホリエモン、頭いいし、思い切りもとてもいいけど、ある境界線を通り越すと、というか、あるジャンルからはずれると、「ぼくには興味ない」って思考停止するんですね。というか、そこを突き詰めていくと、ホリエモン理論が崩れる。そしてそこを突き詰める人があまりいないからホリエモン理論が成り立っていける。そういうところに立脚しているんだな。じつはそこを突き詰めることこそが肝心の(面白い)論点なのですが。

数学(経済ニュース)と文学(社会ニュース)の違うところ、それはね、数字はストーリーを記述するだけで作ることをしないが、文字はアプリオリにストーリーを探り求めて次の文字とつながる、つまりストーリーを作り出しながら自己増殖するということなんだ。したがって、彼のいう「市民ニュース記者」を使ったって、文字のあるところにはストーリー(ホリエモンの言うところの恣意性、虚構)が生まれるということ。物語の呪縛から抜け出せないんですよ。それは紙媒体だって、インターネットという媒体だって、言語を思考メディアにしている限りまったく同じなんだ。

そのときにさ、要はどの虚構が現実に拮抗できるだけの結構を持っているかということが問われるんですよね。そこを突き詰めると、かれの「ニュースランキング」構想は破綻します。破綻するから、彼は「どうでもいいっすよ」と言うしかない。

彼はこういいます。「事実を書きながら、そこに思いを込めることが可能じゃないですか。新聞って、みんなそうなんですよ。それって、思い上がりじゃないのっていうことです。」

つまりこれは、新聞だけの話ではないんですよ。文章ってみんなそうなんだ。日記だってそう。そういうの、文学の世界でもなんでも、もう言い尽くされていることで、だから脱構築とか言ってきたわけです。モダンという意味に満ちた世界からポストモダンへと抜けようとしたわけでしょ? ま、脱構築というのもまた、新たなストーリーを(しかし意味の存在に自意識的に)作る行為だ、ということを知りつつね。バルトの言った「零度のエクリチュール」ってのもその模索なんだ。その辺のこと、ホリエモン、知らないと思います。知る必要ない。というか、知ったら、言えなくなるから、あえて、知らなくていいんだって言っているんだろうね。その辺の、感覚、というか、見え方、あるていど、彼、持っているんでしょうね。先を見る目はけっこう鋭い。変なにおいがしたらそこには触れない。ふふ。

てらいとかウソとかって、でも、彼、ないですね。その辺もすごいと思う。背伸びはあるけど、かなり正直で、その正直さもお金の論理という単純さに支えられた若き自信の為せる技なのかもしれません。

彼はやはり当代きっての、というか、当代であるがゆえの、たぐいまれなるトリックスターですよ。この彼を楽しまない手はない。宮沢喜一みたいな引退じいさんはなんか嬉々として楽しがって堀江コメントしてるようですが、そういうのを現役の経済人、政治人がやらないとなあ。 もっと楽しまなくちゃもったいないですよ。

ハイゼンベルクの「不確定性原理」じゃないけど、わたし、この人のおかげでいままでどの位置にあるか不確定だった人々の位置が急に観測できるようになって、とても面白いです。

友だちになりたいかどうかっていう話は、またぜんぜん別ですけどね。

February 24, 2005

片腹痛し

ロイター電で、

ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が22日に出版された自身の新刊の中で、同性婚は「新たな悪魔の思想」の一端であり、知らぬ間に社会を脅かしているとの見方を示した。同著では、同性婚以外にも中絶などの社会問題に触れ、20世紀に行われたユダヤ人などに対する撲滅行為にも匹敵する「合法的根絶行為」と言明。

なんて伝えられていて、まったく、病膏肓に入るとはこのことだと思いました次第。

ローマカトリックは、第二次大戦中、もちろんナチを支持していました。時のローマ法王はピウス12世です。ユダヤ人はカトリックの慈悲を受けない。彼はそう考えていた。同時にあの時代、LGBTたちはそのユダヤ人同様、ヴァチカンの戦況報告室で冷血に画策される虐殺の犠牲者だったわけでもあります。ピウスとは、ニュルンベルクが見逃した戦争犯罪人の名前なのです。

ローマンカトリックがそのことを謝罪したのはつい最近、1997年のことです。それまで頬っかむりをしてきた。それがどうでしょう、ピウスに連なるいまのヨハネ・パウロが、「ユダヤ人などに対する撲滅行為にも匹敵する」などとあたかも100年前からユダヤ人撲滅行為に反対していたかのような口ぶりでしれっとあらたな撲滅行為に加担する。歴史は繰り返す、というのは愚かしい彼のためにあるような成句です。恥を知っているなら、ふつうはそんな比喩は恐れ多くて口が腐ってもいえない。

かたはらいたし、とはこのことです。

いったい、この頑迷なる善意というのは、何に起因しているのでしょう。
こういうのは悪意より始末に悪い。

***
さらに再び

asahi.comから
***
 フジテレビジョンの村上光一社長は24日の定例記者会見で、ライブドアによるニッポン放送株の取得を巡る他の民放各局の報道について「あまりにも、ちょっと狂騒曲的。ニュースはただおもしろおかしくやればいいのではない」と批判した。もっともフジ自身が娯楽路線をとってきただけに「自省を込めて」とも前置きした。
 村上社長は「(他の民放の)報道番組を見ていると、あまりにもちゃらちゃらして『えーっ』と思う例が頻発していた。いかがなものか。(ライブドアに)テレビは公共の電波だと言っている時期だからこそ、きちっとやらなければいけない」と強調した。
***

おいおい、ニュース番組のタイトルからかつて「ニュース」という単語を外してみせたのはどこの局だったっけ? ニュースに効果音入れたりオドロオドロしい音楽をかぶせて視聴率稼ごうとしたのはどこの局だよ。声優使ってドラマ仕立てで報道して視聴者の劣情をあおってきたのはどこのどなたさまですかってんだ。

フジテレビが「公共の電波」っていうのは、日テレが「公共の電波少年」っていうくらいにコントラディクションじゃあありませんかえ? どの口からそんな言葉が出てくるんだろ。まったく、社長ってのはどこまで厚顔にならんとできないもんなのか。この世で一番恥ずかしいことは、恥を知らないということなのだ。

ふむ、「デイリー・ブルシット」のブルシット叩きらしくなってきましたな。

しかし、わたしは罵詈雑言がかなりきつい、ということをある人から指摘された。
叩くときは、けっこう、完膚なきまでに言葉を連ねる、しかも、かなり強烈なグサグサの感じがするらしい。

先日の「怠けもん」発言も、けっこう、本来の標的とは別のところでグサグサ刺された感じがするという人がいるようだし、そういえばその昔、金原ひとみの「蛇にピアス」を叩きのめしたら、思いもかけぬ方向にいたぼせくんから「そういう言い方はない」的な叱責をいただいた。こちとら、ゲイの視点からあえてだれも触れないでいる蛇ピアのぬぐい去り難いホモフォビアを指摘しただけだと思っていたんだが。反省。

悪口は自分に返ってくる、って、なんてったっけ? なんか、成句があったような気がするけど。

くわばらくわばら。

February 19, 2005

シェイダさん

イラン人難民の「シェイダ」さんのことはもうご存じの方も多いでしょう。
その彼の最近の状況について、東京新聞の「こちら特報部」が今日20日付の紙面で詳報しています。
以下のURL上でも記事が読めます。

http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20050220/mng_____tokuho__000.shtml(すでにリンク切れになってます。残念)

わたしも背景情報などを提供しています。
それらを田原さんという記者がさらに自分で取材してまとめたものです。
なかなかしっかりした記事です。まず、読んでみてください。
そうして、読んでなにか感じるものがあったら、 東京新聞にその旨を伝えるのもいいと思います。

わたしは、日本の難民行政を見ていると、いつも大昔の高校生のころに読んだ太宰治の短篇「地球儀」という話を思い出してしまいます。細部はほとんど忘れてしまいましたが、結末は、なんとも言いようのない無念さに囚われます。そんな無念さを、現実のこの日本でふたたび残してはいけないと思うのです。

読んでの感想は
outou1@tokyo-np.co.jp
にメールで送れます。

この田原さんという記者は、じつに見識豊かな、おまけにたいへん筆も立つ(つまりはそれだけよく物事を考え抜いているということですね)記者です。ぜひ、東京新聞に(組織票ではなく)個々人でフィードバックをしてあげてください。 新聞社とかテレビ局って、こういう読者・視聴者の声にかなり敏感なのです。そうすることで、読者の関心が高いことがわかったら、また記事になります。それがシェイダさんを、第2、第3のシェイダさんをもいかばかりかは支えることにつながると信じたい。

このほかに「読者投稿コーナー」というのもありますね。
いわゆる、投書の欄です。「読者の声」として紙面に載るかもしれないやつです。

どうか、あなたの声を聞かせてあげてください。

February 14, 2005

蛇足─アメリカ文化、日本文化

(先に02/05、02/12を読んでね。その続きなのだ)

さて、そうやって考えていくと、日米あるいは日欧米間の方法論の相違というのは、つまりは「怠け心」を奮起させて、やっぱやんなきゃだめかなあ、って思わせるための方法論の違いなんですね。「運動でなにをやるか、どうやるか」ではなく、もっと基本の基本、スタート地点に立つための方法論、あるいは立たせるための方法論の違い。

「運動」っていう言葉自体、翻訳語、翻訳概念ですからして「運動」そのものってのはそもそも端からすでに欧米型なんであって。ただしそれはちょっとしたアレンジやアイディアで日本“的”に持っていくことは可能だし、現にそういうふうなことはけっこう成功してもきた。日本文化って大陸や半島の影響を受けていたころからそうでしたから。

さて、そこでただし問題は、その「運動」なり「ムーヴメント」に到達する以前の、「怠けないでコミットしようよ」っていうことを、どう折伏するか、どう納得させるか、どう奮起させるか、ということなのでしょう。そこを、アメリカとかではキリスト教なり聖書の倫理観なり、あるいは社会契約みたいなものといった共通意識で一気にピョ〜ンと越えることも可能なんだけれど、そのような共通意識が(幸か不幸か)希薄ないまの日本の社会では、まずそこから始めなくてはならない。その大きなひと手間、それが苦労の原因の1つなんだなあ、ということなのです。そうしてそれこそが「日本的」の意味するところなのだということです。 そんな共通意識の、決定的な不在。

そこをはっきりさせるために「怠けもん」というキーワードは必要なのではないかと思うわけでした。

「アメリカアメリカアメリカアメリカ」ってみんな一言でいってますけど、知ってのとおりいろんなアメリカがあって、最近はブッシュの体現するようなアメリカを指すことが多いけどさ、ゲイプライドを成功させるようなアメリカ、同性婚を木で鼻をくくったように議論にも乗せたくないアメリカ、それに涙を流して抗議しようとする人たちのアメリカもあるでしょ。そうした種々様々な人間かつ社会のダイナミズムはどこから来ているのかなあ。

わたしはキリスト教なり宗教なりというのは唾棄したい人間ですが、だが、それを信じて慈善活動を続ける善意のアメリカ人というのはなかなか唾棄できない。たとえその善意がじつに恣意的な善意であったにしても、そのクリスチャニティーっていうものの実体性を、虚構性を含めて、その存在性を、日本の空洞部分に比較してよい意味でも悪い意味でもすげえもんだなあと思うのです。

底支え、というか、前回エントリーの「とー」さんのコメントで相応するものとしての「儒教・仏教的倫理観とか美意識」とかいう基盤部分が、そういうもんは共同幻想だと知っている上での知的なある人間社会の共通意識が、必要だなあって思うけど、まあ、共通意識ばかりが先走るとブッシュ・アメリカになっちまうわけで、そこをひとつひとつ検証しながらその都度作り上げていくというのはかなり大切な作業なんだと一方で信じてもいるのですけど、さて、そこで最初にも言った「怠けもん」の原則がふたたびノソノソと顔を出し作用して、そういうものを「ひとつひとつ検証しながらその都度作り上げていく」ということなどしないもんだ、という堂々巡りになるわけなんですよね。で、そこで思考停止。だれかやるでしょう症候群の千年寝太郎。

まあ、かんたんにはっきり言ってしまうとね、あなたの思っているとおり、「この国、何か、すごく間違ってるわ」状態なんだなあ。

教育なんだよね。学校教育ばかりか、社会教育までもが慎太郎的空疎に煽動されていて、そこをどう変えていくか。それを変えればどんなところでも10年以内で変わるのだ。

February 12, 2005

補足─アメリカ文化、日本文化

2月5日の“「日本とアメリカは違う」という物言い”に関しての付け足しなんですけどね。「アメリカ式のゲイリブは日本では根付かないのではないか」という命題について、ずっとむかしから、まあ、そりゃそうだろうけど、でも、どこまではパクれて、どこらからパクれなくなるのかなとつらつら考えているうちに、和の文化だとか、論破と納得の文化の違いだとか、ディベートの論理だとか、そういう文化論って、どこまで本当なんだろうかなあって思い至ります。

けっきょく、人間って、ほぼ共通して、面倒くさいことはできればやりたくない、という意識を持ってるでしょ。怠けもんなんですね。それがキーなんじゃないか。

そういうの、日本の「文化」なんていう立派なもんじゃなくて、「雰囲気」みたいなものって、とどのつまり「怠けもん」ってことじゃないのか。国会も地方議会も、話すの面倒だから議論しないってだけじゃないのって。そんでいままでは怠けていてもどうにかうまくやってこれた。それは戦後のお父さんやお母さんたちが築き上げてくれたものを食い潰すことでやってきたんですね。

だから、初期設定としての怠けもんでもよかったの。蓄積された文化/社会資本があったから。

で、アメリカって何が違うかっていうと、「怠けてちゃダメ」っていう、なんていうんでしょう、嫌いな言葉だけど「倫理」ってのが共通認識としてある。そういう、アンチ「怠けもん」の論理って、日本にないんじゃないか? キリスト教もないですしね。

アメリカには議論で勝つのに3つの決め言葉があります。
It is not fair.  それは公平ではない
It is not justice.  それは正義ではない
It is not good for children.  それは将来の子供たちに禍根を残す

この三つをいわれると、相手は怒ります。そんなことはない、とかって反論します。犯罪人だってこの三つには逆らえない。言い訳はするけど。

対して、日本でこういう共通認識ってあるのかしら、と思うわけ。共通認識なんて、ろくなもんじゃねえ、という考え方もしっかりと知的に押さえつつ、それでもコミュニティとして力を維持していけるような共通認識。

私たちの“世代”というのは、大昔の高校生のときに「かっこいいってことは、なんてかっこわるいことなんだろう」とか、「きみは空を行け、ぼくは地を這う」だとか、「愛と友情の連帯」だとか、そういうフォークシンガーや漫画家たちの“名言”を倫理めいた教訓譚の代わりに肝に銘じたことがあったんだけど、もちろんそんなのは行き渡らないですわね。学生運動はそうして終焉した。

そんで現在、アメリカ型ゲイリブが方法論として日本ではうまく行かない理由は、「日本の私たちは怠けもんだから」ってだけの話じゃないんでしょうかって思うわけ。

文化論みたいな難しいこというけど、そんなご立派なものじゃなくてほんとはものすごく単純なことじゃないの? 社会へのコミットメントに関して、怠けていてなーんにも考えてこなかったし、考えるの面倒だと思っててもだいじょうぶだからなんじゃないですか? じゃあ、日本に合う運動って、つまりは怠けもんでもできるような運動とはどういうものがあり得るか、ってことではないのか?

ねえよ、そんなの。
そこで、アメリカ式は合わない、ってのは、単なる怠慢の言い訳なのではないか、って思っちゃったりするわけなのです。ま、もちろん違う要素もありますけどね。

「怠けもん」ってのは、それは固有で決定的な「文化」なんかじゃなくて、教育で6年あれば変えられることでもあると思います。明治の教養人は議論をしたし、大正リベラリズムなんて時代もあったんですから。

問題はさ、怠けないでコミットしましょうってことなんではないか。そんで、ブッシュみたいな単純なひどい側面が出てきたら困っちゃうけど、それこそそこで日本の「和」の文化がフェイルセーフの機能を果たしてくれるはずだと信じつつ。

February 08, 2005

宮部みゆき「理由」

地下鉄に乗ったときだけちんたら読みつないでいた宮部みゆきの「理由」を読了。

感想は、おしゃべりな女だなあ、ってだけ。すっげえいろんなことがものすごくたくさん書いてあるんだけど、たいして意味ないおしゃべりに過ぎないようなエピソードばかり。冒頭のシーンはかなりぞくぞくしたけどね、あとはどんどんだらだらしていく。犯人はわかるし、犯人探しじゃないとしたらつまりこれは人間の様々な「理由」を書いているってことなのかしら? でもそれにしちゃ簡単に思いつくようなサイドストーリーをこれでもかってくらいの分量で詰め込んで、つまりは努力賞とか敢闘賞みたいな話なの、直木賞って?

ドキュメンタリータッチ、とあるが、あくまでドキュメンタリータッチを目指した小説であって、そのドキュメンタリータッチに失敗した小説ですな。どこを読んでも小説だもん。ノンフィクションの切実さはどこにもない。何が違うのかね? ノンフィクションって、インタビューアーの手の届かない部分、見聞きする範囲を超えた部分を、どうにかして埋めようという作業をするわけ。それは小説家のように、どこでもドアみたいな想像力とは違う、つまりは神の目とは違う人間の目の限界を知った書き方にならざるを得ない。そこから得られる切迫感というか、現実感なのだ。なのに、宮部みゆきちゃんは、このドキュドラマで、ほとんど小説家のように細部を知っちゃっているわけよ。で、嘘っぱちとなる。うそだと知っているから小説なのに、これはうそじゃないよ、という姿勢で書きはじめたらそりゃウソでしょ。

結果、100枚くらいで書けるんじゃないの、この小説?って思いました。それだったら大した話になったかもなあ。

わたし、インタビューの恐さというかすごさというか、長年やってきましたんで知ってるつもりなんです。多くのインタビューイーは、私の想像の及ばない答えを持っています。たかがこんな話だから、適当にこんな話を聞けばだいたいこんな答えが返ってくるだろうと思ってインタビューをやっては大間違い。他人って、すごいもんですよ。自分でもそれがすごいことだとは知らないすごい話を持っているんだ。それをいかに聞き出すか、ともに気づくか探し出すかが、インタビューの醍醐味です。

そんで、この「理由」には、「インタビュー」で明かされるそんな啓示が、一つもないの。それがたんなる「おしゃべりな小説」っていう一番の「理由」だと思います。

宮部みゆきって、読んだことないけど、時代物の人情もののほうがいいのかもな、って、このおしゃべり具合を見てて思いました。

February 07, 2005

ショーケンと堤義明

しかし、どう見ても微罪だな、こりゃ。警視庁も、こういうのはマスコミ受けをねらってやってるだけだ。お灸をすえてやる、みたいな、そういうもんですな。起訴まで行くのかしら?

それよりもなによりも、東京地検も警視庁も、どうして堤義明を逮捕しないんでしょうかね。
あれはどこからどう見てもインサイダー取引の証券取締法違反だけじゃなく、西武・コクドの特別背任、業務上横領、脱税等々、経済事犯のオンパレードです。アメリカなら即逮捕だな。なぜなら、これは経済の民主制度に対する大罪だからです。しかも堤の場合はあまりにもあからさまだし、あまりにも直接的な関与だ。なのに、検挙までにあまりにも時間がかかりすぎている。1カ月前に東京に行ったときにその辺を聞いたら、捜査に慎重を期している、ってな話だったが、経済事犯って、すぐに身柄を押さえないとどんどん書類なんか処分されちまうんだ。司法当局、何考えてんだか。

February 06, 2005

スーパーボウル

いまハーフタイムショーやってます。去年のジャネットの乳首パッチポロリ“事件”に懲りて、今年はポール・マッカートニーだってさ。「胸ポロリをしないように気をつける」とかって、彼が言うのはご愛嬌としても、しかしなんでいまさらビートルズかね。

「ゲットバック」とか、007の「Live and Let Die(だっけ?)」だとか「Hey Jude」だとかですよ。わたしはまるで共和党大会でも見ているような気がしてきました。かつては先進的な曲だったものが、いまでは無難な曲として全米放送される。改めてアメリカの保守化をひしひしと感じます。なんたって、生きのいい連中はぜんぶケリー応援で登場していたから、スーパーボウルを見るような血気盛んなスポーツ野郎どもはそういう連中を見たくないだろうという計算もあったに違いない。さらに、ことしの独占放送局は、なんといってもブッシュ大好きFOXテレビなのですから。

かくしてハーフタイムショーは、なんだかまったくエキサイティングじゃない懐メロ大会として終了したのでした。チャンチャン。

士別の武井さん

北海道士別市の青年会議所で、新しい理事長になった武井祐司さんが会議所の新年会で100人の会員に向けてカムアウトしたそうです。北海道新聞の2月5日付け夕刊に載っているというのですが、ぜひ読みたいなあ。どなたか、記事を教えてくれないかしら。

ということでさっそく士別青年会議所のHPに行ってみました。
武井さんの所信が書かれてあります。
さすが、そこらの理事長ご挨拶とはちがう文章でした。
いい人なんだなあ。

このサイトには掲示板もあります。
みなさん、それとなく武井さん応援のコメントを書き込んであげたらどうでしょう。
そういうのもとても大切な意思表明だと思います。
私たちはテレパシストではないのだから、思いはきちんと字にしなくては伝わりませんものね。
(とはいえ、余所者からの組織票みたいに思われるのもなんだから、書き込みはくれぐれも威圧感なきようにさりげなくね)

February 05, 2005

「過激派の判事が」

とまたブッシュ政権および保守派・宗教右翼連中が言いたてるんでしょうね。そうして第二次憲法修正運動のモメンタムに利用しようとする。しかし、そういう妨害・障壁はしょうがない。そうやりながらも進んで行かなくてはならないのだと思います。

というのは、NY州の地方裁判所が4日、5組の同性カップルが自分たちに結婚許可証を発行しないのは違憲だと訴えていた件で、この5組に結婚を認めないのは州憲法違反であるという判決を下したことを指します。

このパタンはすでにハワイでもマサチューセッツでもカリフォルニアでも行われたと同じもので、ニュース自体としてはあまり衝撃はないのかもしれません。しかし、ブッシュの第二期政権でも連邦憲法の修正を目指して結婚を異性間に限るとするという方針が示されての最初の司法判断として、さて、同性婚をめぐる攻防は再び仕切り直しで第2戦(?)あるいは、第3戦かもしれませんが、そういうところに入ったということでしょう。

さて、これが「過激派の判事」という、昨年、ブッシュの指弾した表現でなおも通じるのかどうか。
わたしは短期的にはこれは彼らの保守蒸気機関に石炭をくべるようなことにつながると思います。かっと赤い火がまた起ち上がるでしょう。

しかし、石炭はいつか消えます。その石炭をさっさと消費させなくてはならない。
カナダでは先日、連邦レベルでの同性婚認可の法案がやっと提出されました。ここでも最高裁の判断があってからの、1年以上たってのやっとの法案化です。
これは長期戦なのです。
    *
「日本とアメリカは違う」という物言いを、1980年代末の日本でのゲイムーブメントの最初からずっと聞いています。最初のころはまあそうだと思いました。当たり前の話です。
ただ、いまもそう言いつづけている人は、そういう世界の運動のモメンタムを自分の文化の中で取り入れる努力を怠っている、その言い訳としてしか聞こえていないのに気づいていないのでしょう。

日本とアメリカとは違います。それはあなたと私だって違う。
難しいことを言うと、それは対幻想と共同幻想というレベルと質の違いを含んだ対比ではありますが、そんなことは当然のことで、いまはとりたてて言挙げするほどのことでもないでしょう。私たちは靴を履き、服を着て、西洋便座に座り、ピザを食べています。その中からウォシュレットなんていう世紀の発明ができて、ピザにだってツナマヨなんていうものができている。

そのくせ、お寿司にアボカドが入っているとそんなものは寿司じゃないよね、なんていっている。それは、ゼノフォビアといいます。あるいは、自分たちの国や文化だけが特別だと思いたいことの反動による、他者への侮蔑です。

なにかをやるときには、差異を知りながらも同じことを見つめていなくてはならない。
そうしなければ仲間なんかできないし手をつなぐこともできません。
そろそろ欧米はね、違うんだよ、という、きいたような口はきかないほうがよい。かっこわるいでしょう。そんなのは言われなくともわかっているのですから。そういう輩は、じっさいは怠け者なのです。かまびすしくおしゃべりすることは得意でも、怠け者であることにかわりはありません。

February 02, 2005

ペンギンの同性カップル

こんなニュース、配信されてましたっけ? クリスマスと年末の喧噪で見逃したかな? それとも日本のニュースルームではキワモノとして無視されたか。ま、休みにも入ってるしなあ。

内容は、立教の上田先生ってひとが日本の水族館を調べたら、ペンギン飼育において雄雌比が合わない場合に同性同士のカップルができるみたいってわかったっていうんですな。共同配信の記事では、16の水族館・動物園で20組の同性ペアがいたらしい。

でも、雌雄比が合わないってことだけが原因なんでしょうかね。なかにゃ、そっちの方がすきだってのもいるんじゃないのかしらん。これって、科学的推計というよりも、科学者個人の解釈だからなあ。経験に基づくって言えばかっこいいけどさ。

NYのコニーアイランドの水族館でも有名なオス同士のペンギンのカップルがいてね、これは前にも書いたことがあるんですけど、ペンギンって、鳥の中でもけっこう自意識あるみたいなたたずまいがあるもんね。コニーアイランドの二羽は、お互いに身繕いをしてやったり餌を相手のために取っておいてあげたりするんだよ。

そうそう、上田先生の観察では、オス同士、メス同士のペンギン・カップルではマウンティングの行為も見られたんだってさ。ほほう、おもしろいねえ。

Researchers find gay penguins in Japanese aquariums
Agence France-Presse
Tokyo,?December 25|19:23 IST

Researchers have found a number of same-sex pairs of penguins at aquariums in Japan, with an imbalance between the numbers of male and female birds suspected to be the cause, a report said on Saturday.

A research group led by Keisuke Ueda, professor of behavioural ecology at Rikkyo University in Tokyo, found about 20 same-sex pairs at 16 major aquariums and zoos, Kyodo news agency said.

Penguins in captivity "may be more likely to form same-sex pairs" due to?the?difficulty of finding partners of the opposite sex because breeding facilities in Japan only have an average of 20 birds, the agency quoted Ueda as saying.

It is not known if the frequency of homosexuality is higher than in the wild, where telling the sexes apart is tough, he said.

Many of the gay male pairs and two of the female pairs were seen performing mounting behaviour, it said.

Ueda was not available for comment on the report on Saturday.