補足─アメリカ文化、日本文化
2月5日の“「日本とアメリカは違う」という物言い”に関しての付け足しなんですけどね。「アメリカ式のゲイリブは日本では根付かないのではないか」という命題について、ずっとむかしから、まあ、そりゃそうだろうけど、でも、どこまではパクれて、どこらからパクれなくなるのかなとつらつら考えているうちに、和の文化だとか、論破と納得の文化の違いだとか、ディベートの論理だとか、そういう文化論って、どこまで本当なんだろうかなあって思い至ります。
けっきょく、人間って、ほぼ共通して、面倒くさいことはできればやりたくない、という意識を持ってるでしょ。怠けもんなんですね。それがキーなんじゃないか。
そういうの、日本の「文化」なんていう立派なもんじゃなくて、「雰囲気」みたいなものって、とどのつまり「怠けもん」ってことじゃないのか。国会も地方議会も、話すの面倒だから議論しないってだけじゃないのって。そんでいままでは怠けていてもどうにかうまくやってこれた。それは戦後のお父さんやお母さんたちが築き上げてくれたものを食い潰すことでやってきたんですね。
だから、初期設定としての怠けもんでもよかったの。蓄積された文化/社会資本があったから。
で、アメリカって何が違うかっていうと、「怠けてちゃダメ」っていう、なんていうんでしょう、嫌いな言葉だけど「倫理」ってのが共通認識としてある。そういう、アンチ「怠けもん」の論理って、日本にないんじゃないか? キリスト教もないですしね。
アメリカには議論で勝つのに3つの決め言葉があります。
It is not fair. それは公平ではない
It is not justice. それは正義ではない
It is not good for children. それは将来の子供たちに禍根を残す
この三つをいわれると、相手は怒ります。そんなことはない、とかって反論します。犯罪人だってこの三つには逆らえない。言い訳はするけど。
対して、日本でこういう共通認識ってあるのかしら、と思うわけ。共通認識なんて、ろくなもんじゃねえ、という考え方もしっかりと知的に押さえつつ、それでもコミュニティとして力を維持していけるような共通認識。
私たちの“世代”というのは、大昔の高校生のときに「かっこいいってことは、なんてかっこわるいことなんだろう」とか、「きみは空を行け、ぼくは地を這う」だとか、「愛と友情の連帯」だとか、そういうフォークシンガーや漫画家たちの“名言”を倫理めいた教訓譚の代わりに肝に銘じたことがあったんだけど、もちろんそんなのは行き渡らないですわね。学生運動はそうして終焉した。
そんで現在、アメリカ型ゲイリブが方法論として日本ではうまく行かない理由は、「日本の私たちは怠けもんだから」ってだけの話じゃないんでしょうかって思うわけ。
文化論みたいな難しいこというけど、そんなご立派なものじゃなくてほんとはものすごく単純なことじゃないの? 社会へのコミットメントに関して、怠けていてなーんにも考えてこなかったし、考えるの面倒だと思っててもだいじょうぶだからなんじゃないですか? じゃあ、日本に合う運動って、つまりは怠けもんでもできるような運動とはどういうものがあり得るか、ってことではないのか?
ねえよ、そんなの。
そこで、アメリカ式は合わない、ってのは、単なる怠慢の言い訳なのではないか、って思っちゃったりするわけなのです。ま、もちろん違う要素もありますけどね。
「怠けもん」ってのは、それは固有で決定的な「文化」なんかじゃなくて、教育で6年あれば変えられることでもあると思います。明治の教養人は議論をしたし、大正リベラリズムなんて時代もあったんですから。
問題はさ、怠けないでコミットしましょうってことなんではないか。そんで、ブッシュみたいな単純なひどい側面が出てきたら困っちゃうけど、それこそそこで日本の「和」の文化がフェイルセーフの機能を果たしてくれるはずだと信じつつ。