「過激派の判事が」
とまたブッシュ政権および保守派・宗教右翼連中が言いたてるんでしょうね。そうして第二次憲法修正運動のモメンタムに利用しようとする。しかし、そういう妨害・障壁はしょうがない。そうやりながらも進んで行かなくてはならないのだと思います。
というのは、NY州の地方裁判所が4日、5組の同性カップルが自分たちに結婚許可証を発行しないのは違憲だと訴えていた件で、この5組に結婚を認めないのは州憲法違反であるという判決を下したことを指します。
このパタンはすでにハワイでもマサチューセッツでもカリフォルニアでも行われたと同じもので、ニュース自体としてはあまり衝撃はないのかもしれません。しかし、ブッシュの第二期政権でも連邦憲法の修正を目指して結婚を異性間に限るとするという方針が示されての最初の司法判断として、さて、同性婚をめぐる攻防は再び仕切り直しで第2戦(?)あるいは、第3戦かもしれませんが、そういうところに入ったということでしょう。
さて、これが「過激派の判事」という、昨年、ブッシュの指弾した表現でなおも通じるのかどうか。
わたしは短期的にはこれは彼らの保守蒸気機関に石炭をくべるようなことにつながると思います。かっと赤い火がまた起ち上がるでしょう。
しかし、石炭はいつか消えます。その石炭をさっさと消費させなくてはならない。
カナダでは先日、連邦レベルでの同性婚認可の法案がやっと提出されました。ここでも最高裁の判断があってからの、1年以上たってのやっとの法案化です。
これは長期戦なのです。
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「日本とアメリカは違う」という物言いを、1980年代末の日本でのゲイムーブメントの最初からずっと聞いています。最初のころはまあそうだと思いました。当たり前の話です。
ただ、いまもそう言いつづけている人は、そういう世界の運動のモメンタムを自分の文化の中で取り入れる努力を怠っている、その言い訳としてしか聞こえていないのに気づいていないのでしょう。
日本とアメリカとは違います。それはあなたと私だって違う。
難しいことを言うと、それは対幻想と共同幻想というレベルと質の違いを含んだ対比ではありますが、そんなことは当然のことで、いまはとりたてて言挙げするほどのことでもないでしょう。私たちは靴を履き、服を着て、西洋便座に座り、ピザを食べています。その中からウォシュレットなんていう世紀の発明ができて、ピザにだってツナマヨなんていうものができている。
そのくせ、お寿司にアボカドが入っているとそんなものは寿司じゃないよね、なんていっている。それは、ゼノフォビアといいます。あるいは、自分たちの国や文化だけが特別だと思いたいことの反動による、他者への侮蔑です。
なにかをやるときには、差異を知りながらも同じことを見つめていなくてはならない。
そうしなければ仲間なんかできないし手をつなぐこともできません。
そろそろ欧米はね、違うんだよ、という、きいたような口はきかないほうがよい。かっこわるいでしょう。そんなのは言われなくともわかっているのですから。そういう輩は、じっさいは怠け者なのです。かまびすしくおしゃべりすることは得意でも、怠け者であることにかわりはありません。