あらららら、というまに3月が終わろうとしています。
なにもここに書いてこなかったのに。とほほ。
というのも、この10日間ほどずっとインフルエンザで寝込んでいました。熱があってむかむかして食欲もなく、頭もぼうっとしてなにもまとまったことを考えられず、それで仕事もまったくしないまま3月が過ぎてしまった、という感じです。まずいですね。わたしのようにフリーランスの場合は書いていないときは無給と同じで、会社員だったときには黙って昼寝をしてても勤務体系の中ではタクシーのメーターのようにカチャカチャと給料が加算されていたわけで、そのことはちょっと羨ましいというか、まあ、いまさらそんなことを言ってもしょうがないですけど。
さて、それでも3月の初旬はいろいろあって、考えることもあったわけで。
なかでも 24年間もCBSの夜のニュースの顔だった正統派キャスター、ダン・ラザーの降板はひとつの時代の終わりを感じさせました。個人的にはその前に引退したNBCのトム・ブロコウの柔軟な知性が好みでしたが、大事があってもほとんど表情を変えないラザーの存在感は群を抜いていました。
そのラザーが、あの9/11のあとのデビッド・レターマンのレイトショーで涙を流したのをおぼえています。それは悲嘆ではなく、一般市民を狙った不正義に対し、許せないという思いを募らせた涙だったように思います。彼はそのようにも正義を体現したひとでした。
その彼のこんかいの引退のきっかけは、昨秋の大統領選間際のブッシュ兵役疑惑誤報問題でした。30年以上昔の大統領のアラバマ州兵時代に、出頭拒否があったとするニセ文書をそのまま信じてしまったのはたしかにジャーナリストとしてあまりにお粗末でした。しかしブッシュの州兵としての義務不履行は明らかでしたから、別の証拠を探してその糾弾姿勢を貫くという選択肢もあったはずなんですね。それこそがいわゆるジャーナリスティックな意味での正義である、と。
けれど、そうしたことは可能だったのでしょうか。
わたしは、たとえそうしていてもブッシュ支持者はそのせいで投票を控えるようなことはしなかったと思うのです。そんなことは織り込み済みの話で、アルコールにも溺れたろう、コカインにだって手を出したかもしれない。頭だってそうよろしくない。だがそういう不完全な人間も、いまの彼を見ているとじつに人間くさくていいじゃないか||そんな大衆の思いがブッシュを支えていたと思うからです。
なんとなく「正義疲れ」という言葉が浮かびました。ラザーは、この大衆の正義疲れにやられたのではないか。正義正義と四六時中やられたらたしかにうんざりもします。ベトナムのころのことなど、もういいじゃないか、という疲弊感。PC(政治的な正しさ)という言葉があって、それは90年代になってからはさんざんジョークのネタにもなってきたのですが、しかしそれでも脈々とアメリカ社会で生き延びてはきたのです。でもそのPCが、ついにまじめな部分、シリアスな領域でも敗北してしまったのではないかと、そんな感じがするのです。
先日、大学の先生たちと話をしていて、クリントン時代は連邦政府が6月を「ゲイのプライド月間」と宣言するなど、社会的マイノリティーたちにカムアウトを奨励する時代だったという話になりました。それが社会正義でした。それがPCだった。
ならばブッシュの時代は? 「そうね、レッドステートにカムアウトを勧めた時代かな」というのがあるひとの意見でした。東部や西部などのインテリ・リベラルたちが牛耳っていた政治言論の場に、インテリではない者たち、つまりあまり物事を突き詰めては考えない大衆の意見、日常感覚での日常会話レベルの話をカムアウトさせた、というわけです。そういえば、それまであまり大きな声ではいえなかった「強さ」とか「男らしさ」とかいうものがまた大っぴらに口に出せるようになりました。少なくとも「強さ」や「男らしさ」はPCの語彙の中にはなかったものなのです。むしろ「弱さを考えよう」「男らしさに封じ込められた優しさに目を向けよう」というのがPCだったわけですから。
ダン・ラザーの「正義」や「男らしさ」は、じつはこのPCにおける「正義」と「男としての真っ当さ」だったのではないか。つまりしょせんはブルーステートのインテリのそれだったのかもしれません。それが、ブッシュの時代のレッドステートの大衆のカムアウトの流れに押し流されてしまった。それがラザーの降板、その背景の草の根保守主義の台頭ということなのではないでしょうか。
もっとも、いっけん粗っぽく見えるこの「レッドステートの時代」も、じつはネオコンというべつの種類のインテリたちによって演出されているのですが、もちろん、そんなことは主役に持ち上げられている大衆は意には介していないのでしょう。
そんな3月の最後に、いまテレビではテリー・シャイボさんの延命措置を、という一大キャンペーンがMSNBCの24時間ニュースなどで繰り広げられています。脳に損傷を受けて15年間「植物状態」の続いている41歳の女性に関して、尊厳死を求める夫と、延命を願う両親との間で司法や行政を巻き込んでの攻防が続いているのです。
テレビに登場してくる人間たちの話を聞いているとむかむかしてきます。ひとの命のことを、まるでわかったかのように、あるいは自分の命のことであるかのように話して恥じない。もちろんアドヴォケットとしての物言いが求められてはいるのでしょうが、正直なところ、わたしはシャイボさんのような方を前にすると、黙すしかない自分がいるのを意識します。わたしは彼女の生にそこまでコミットできない。コミットできるのはかろうじて夫と両親・家族だけなのでしょう。その中に入り込む不遜を、わたしは諾うことができない。ところが、プロライフの人たちは、「神」の名の下に断言しつづけるのです。
わたしのような考えは、この場合、実際の解決法としてはほとんど無効でしょう。
でも、神の名を借りて断言するよりも、こうしたことに対しては、わたしはその無効を抱え込みながら生きるしかないのだと思うのです。
延命措置も地獄、尊厳死も地獄です。シャイボさんと彼女を取り巻くその地獄を引き受けられない私は、彼女の夫にも、両親にも、そしてシャイボさん本人にも、どんな措置を選んでも選ばなくても、そうでしょうね、と呟くしかないのだと思います。