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会社は誰のもの?

 しかし、堀江さんもずいぶんと嫌われたもんです。フジもソフトバンク陣営を持ってくるとはえげつないことやりますわなというのが第一印象でしたが。ライブドアとフジTVの攻防戦はどこまで続くのでしょう。ソフトバンクもライブドアも、そう変わらんでしょうにね。

 まあ傍目で見ている分には面白いのですが、フジやニッポン放送にはじつは友人も何人かいて、あまり軽々しくはいえないのです。ただ、私の友人たちが一様に示す堀江社長への不快感ってものの一因は、「株式会社は商法上は株主のものですから」と言ってのけたこと(に如実に表れているマネーゲーム感覚)にもあるようです。

 そう言われて私なんぞは「ふうむ、そういえばそうだったかな」とあらためて気づかされた口ですが、でもいまのこの巨大企業、巨大資本の時代、あながちそうとも言い切れないのではないかと思い直しているのです。

 株式会社はたしかあの東インド会社あたりを起源としています。つまり金持ちたちが資金を出し合って船を用意し、さらに船員を契約で雇って東インド(インドネシア)から香辛料などを運ぶ航海を企画する。そして結果として儲かった金を元々の出資者同士で配分するのです。そのうちにこの出資と航海と利益分配の図式が恒常的組織になった。それが会社であり、そう考えるとたしかに会社は出資者(株主)のものです。

 ただ、そう言い切られるとなんだかさみしい。つまりは社員なんてみんな契約社員ってことで、その都度の仕事が終われば解約されてもしょうがないシステム。出資者の金儲けのために必要な道具、というわけです。でも、これって17世紀のオリジナルでしょう? 歴史とともに社会も経済も成熟してきて、いまは違う意味合いを持っていなくちゃおかしいはずですよね。

 日本ではそれが終身雇用制みたいな(これは成文化なんかされていないけど)慣例として育ってきて、会社とは社員全員が創り上げているもの、というような感覚になっていました。株主なんか、どこか「自分たちの毎日の業務を儲けのタネにしているだけのやつら」みたいな感覚だってなきにしもあらず。だから社長なんてほんとうは株主が決めるものなのですが、社長は社員というか取締役会が、あるいはつまりいまの社長が次の社長を決める、というような状態が続いているのですね。そういうところから、「愛社精神」などという英語はありませんが、日本ではずいぶんとそれを育まされてきました。「会社のため」という文言も何度も聞いてきました。それもこれもひとえに「会社は働いている私たちすべてのもの」という、商法にもどこにも保証されていない幻想に基づいていたのです。

 逆にさっきもいったように、そういう会社本位制、社員本位制のようなニッポン株式会社では株主の存在があまりにも軽んじられていたという弊害があります。バブル崩壊で企業不祥事が一気に表面化したことも、あまりにも閉鎖的に社内のみで経営を処理してきたことの結果でした。社外、つまり出資者や社会全体への責任を明らかにせず、せっせせっせと社内的な保身に奔走する。そうしてどうにか定年までを乗り切る、そしておさらば、というわけです。そういうところから総会屋などという、外国では存在し得ないおかしな職業までが幅を利かせている始末なのです。

 株主が弱いと取締役会へのチェックが機能しません。もっとも、株主が強いといわれる米国でもエンロンのとんでもない粉飾決済事件があり、しかもアーサー・アンダーセンという米国最大手の会計事務所まで粉飾に関与していたとわかってからは、いったいどうなっているのと唖然としました。ストックオプションの利便性を悪用して八百長で株価をつり上げたりするなど、これもどうしてどうして、マネーゲームのうまみを利用したじつに現代的な犯罪でした。堤義明もとんでもないですけれど、こっちのエンロンのかんぺきな犯意に基づく犯罪に比べると、なんだかエンロンのCEOは居直り強盗だけど堤は電車の中の痴漢みたいなちまちました感さえしますね。

 さて、そんなふうにここまで企業が大きくなってしまうと、それはすでにあるひとつの利益カテゴリーの単なる所有物ではなくなるのではないか。それが最近よく耳にする「ステークホルダー(stakeholder)」の概念なのでしょう。

 つまり会社は、株主や従業員だけではなく消費者や地域住民などすべての利害関係者のものという、準公的な存在なのだ、ということです。そうでなければ不正や害悪を垂れ流したときの損害があまりにも大きくなってしまいます。そうやって四方八方から相互監視しつつ利益を配分・還元していくことこそが、これからの企業に求められていることなのだというわけです。

 でも、べつにこれはまたまた、成文化した「商法」なんかに取り決められているものではなくて、あるひとつの考え方に過ぎません。それでもアメリカでは、単なる一例ですが、大企業を中心にドメスティックパートナー制度を認めてLGBTの社員にも平等な福利厚生を与えたりしている。義務なんかじゃないのに、です。これって優秀な人材を確保するためでもありますがそれだけでの意味ではもちろんなく、地域や社会への責任ということなのでしょう。というか、利益を確保するためにはそうした寛容で公正な企業イメージが必要、という“しがらみ”機能でもあって、社会とか経済の活動分野ではおうおうにしてその種の共同幻想が法より先に機能したりするのですね。

 堀江さんには私はかねてから経営者としての手腕などは期待していなくて、既成のものを引っ掻き回していろんなことを私たちに気づかせてくれる、それがありがたいと思っています。今回も、「会社は株主のものだ」と言いのけて私たちにそんなことを気づかせてくれたかれのトリックスターとしての力は、じつにまったく捨て難いなあと思った次第です。

 でも、最近のかれ、TVニュースの画像でしか知りませんが、なんか顔が妙に脂ぎっていませんか? 東京はもうずいぶん暑いみたいですけど。

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