ローマ法王
こちらはただいままだ4月1日なわけで、そんなところに「ポープが死んだ」というニュースがものすごい勢いで米国メディアでもただいま取りざたされています。しかしバチカンはまだ死んでいないと発表するし、CNNも「ちょっとお待ちください」などと冷静を呼びかけているし、「しかしHe is dyingはまちがいないわけで」とか言っちゃうし。
なるほど、いずれにしても死期は近いからということでだれかがエイプリルフールに力を得てやっちゃったんだかも。こりゃ、四月でバカにされたかもしれませんな。
いまのヨハネ・パウロはこの時代にあって過去の遺物のような最低の法王だったとわたしは思っているけれど、彼が死んだからといって次がまともということはまあ、あり得ないことだと思います。宗教とは、いかに過去にしがみつくかをその存在のダイナミズムにしているからです。むしろこんな時代だからといってさらに保守的な法王が選出される、あるいは選ばれたひとが自分でそう思い込んでしまうというようなことになるのではと危惧しています。もちろん、そうならないことを望んではいますが。
それにしても、昨日のテリ・シャイボさんの尊厳死問題と合わせて、アメリカはこれでまた翼賛的なキリスト教礼賛が始まるのではないかと不安です。たしかに1人の法王の死は宗教右派にとっては確実に大きなモメンタムになるわけで、テリさんの栄養チューブを元に戻さなかった裁判所の判事たちへもいままた「過激派の判事」なる、あの同性婚のときのブッシュ政権からの攻撃と同じような心情を基にした非難が社会ばかりか議会でも渦巻いているような雰囲気です。バックラッシュというのでしょうか、反動というのでしょうか、後の世に、なるほどこういう時代だったのだと振り返られるような、そんな過ちはいまのうちから警戒しなくてはならないでしょう。テレビではすでにヨハネ・パウロの「いかに偉大だったか」「いかに庶民的だったか」「いかに若者に好かれていたか」についての、歯の浮くようなコメントが溢れはじめています。
テレビがクールメディアだと言ったのはどこのだれの嘘でしょう。