へなちょこでも弱虫でも
じつは日本への一時帰国の飛行機で、偶然、同じテーマを扱った映画を見ました。「ミリオンダラー・ベイビー」と「海を飛ぶ夢」です。前者は今年のオスカーで圧倒的な受賞率だった佳作、後者も同じく今年度オスカーの外国語映画賞を受賞した力作です。(以下“ネタばれ”になりますのでこれからの方はご注意を)
二つともが全身麻痺を患った人の、尊厳死を扱った映画でした。「ミリオンダラー・ベイビー」はボクシングで首の骨を折ってしまった女性。「海を飛ぶ夢」は、引き潮の海へダイブして海底でやはり首の骨を折った男性の話です。
その二作で、全身麻痺の主人公たちは同じように自らの命を絶つことを望みます。前者の主人公はだれも自死を手伝ってくれないと知ると自分で舌を噛み切ったりします。後者の主人公は尊厳死を求めて裁判に訴えます。しかし聞き入れられず、ついには自ら青酸カリを飲めるように用意してくれる組織の手助けで命を絶つのです。
両映画の中で何度も「生」の意味が問い返されます。それは重く説得力があるだけにとてもやるせない。その土台にあるのは「個人の尊厳」という考え方でしょう。「自分の人生は自分で決める」という強靭な意志こそが現代の欧米社会の成立の基盤になっている。そうした「強い個人」が尊ばれているのです。
尊厳死の問題では米国では最近ではあのテリー・シャイボさんのすったもんだもありました。けっきょく彼女も「生前の希望だった」と夫が説く尊厳死を“選んだ”形で栄養供給装置がはずされ、餓死という結末を迎えました。
「死」に際しても「強い意志」で「自分で決める」。それはとても立派で潔い半面、わたしなんぞから見るとなんだかすごく疲れる、というか、そこまで頑張らなくてもいいのに、という感じがしてしまうのです。
介護する周囲の人びとへの思いもあるし、なによりそうした身動きならぬ自分への苛立ちや無辺の絶望もあるでしょうから、当事者ではないわたしがなにかいえるものではないかもしれません。ただこうも「尊厳死」を英雄的に描くと、逆に「尊厳死を選ばない尊厳」というものも描いてくれないと、ちょっとつらい思いをする人もいるだろうなあ、と思ったりするのです。そこまで「意志」を介在させなくてもいいのに、と。ある意味で、そんな「意志」尊重主義が逆に自分への苛立ちや絶望を加速させる部分だってあるだろうに、と。
へなちょこで弱よわしくて「尊厳死」などとても選べずにただ生きるしかない、そんなだっていいじゃないか。意識の定まらない弟に付き添いながら、日々その思いが強くなります。