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November 11, 2005

大江=顰蹙作家論

朝日の書評に高橋源一郎の大江の新作に関する書評が載っていて、以下引用。

さようなら、私の本よ! [著]大江健三郎著
[掲載]2005年11月06日
[評者]高橋源一郎
 大江健三郎は、現存する、最大の顰蹙(ひんしゅく)作家である、とぼくは考える。

 例えば、戦後民主主義へのナイーヴな信頼や、政治的アクションへの止(や)むことのない参加は、高度資本主義下の日本人の多数にとって、顰蹙ものである。

 さらに顰蹙をかうのは、その作品だ。

 外国の作家や詩人の引用ばかりじゃないか、自分と自分の家族や友人と自分の過去の作品について書かれても興味持てないんですけど——等々。

 だが、真に顰蹙をかうべきなのは、もっと別のことだ、とぼくは考える。

 この小説だけではなく、近作全(すべ)てで主人公を務める長江古義人は、ノーベル賞作家で、本ばかり読む人である。要するに、作者の大江健三郎にそっくりの人物だ。その、作者そっくりの人物のもとを訪ねた、幼なじみの、国際的名声を持つ建築家、椿繁は、「老人の最後の一勝負」として9・11同時多発テロに触発された東京の超高層ビル爆破計画を持ちかけ、そのあらましを、新しい小説として書くように要請するのだが——というのが、この小説の「あらすじ」だ。

 しかし、そんな「あらすじ」に従って「読まれる」ことを、この小説は拒否している。

 作中人物の一人は、主人公にその計画を「本気で受けとっていられたか」と訊(たず)ねる。「本気」があるのか。あるとしたら、それは何なのか、と。それは、作者自身が、読者になりかわって訊ねたことなのだ。この小説の「本気」は何か、と。

 この小説は、読者の前で揺れ動く。過激な煽動(せんどう)と真摯(しんし)な問いかけと悲痛な叫びに滑稽(こっけい)さ、そのどれが「本気」なのか、と読者を悩ませる。だが、小説とは、そういうものではないのか? 苦しみつつ、作品の解読を通して、作者さえ知らないものを見つけ出すのが、小説を読む、ということではないのか。だとするなら、小説への信だけは失わぬ大江健三郎は、世界がどのように変わっても、他の作家たちが小説を書かなくなったとしても、ただ一人、小説を書き続けるに違いない(なんと迷惑な!)。それ故に、ぼくは、彼を最大の顰蹙作家と呼ぶのである。

これ、両読みの出来る文章で、源一郎、ずるいわね。

大江はもともと顰蹙文学、というか文学なんてのは顰蹙装置なんだってことを武器にやってきた人で。だいたい、40年前でしたか? すでにそんときにきゅうりを肛門に突っ込んで頭を真っ赤に塗った縊死体を読者に提示するなんて、顰蹙以外の何ものでもない。

だから、源一郎のこれは、やつの大江への(顰蹙志向への)憤懣と(顰蹙志向への)畏敬とが綯い混じった文章で、どういうふうに読むべきか、よくわからん。というか、筆者自身がそこらへんを結論づけていない、そのままのまんま、書いたというもんなんでしょうな。そう、物書きというのは時々こういうずるいことをして知らんぷりしてる。

ということで、この正月に帰ったときに買ってみることにしまひょ。大江のその新たな顰蹙小説。

ふとそこで思い当たったんだが、いま三島の豊饒の海を読み直しているんですけど(地下鉄に乗るときぐらいしか読まないのでまだ終わらない)、三島も顰蹙作家に違いない。そうかんがえると、高橋和巳もそう。太宰だって大いにそう。ドスエフスキーちゃんもとんでもない顰蹙もんだ。堤令子(って漢字だっけ)っていう、とんでもない顰蹙おばちゃんの作品もあった。中上健次も顰蹙作家である。

でも、村上春樹って顰蹙作家じゃないんだよね。

最近の作家で、文学的顰蹙を醸しているやつって、だれだろねえ?