ブロークバック・マウンテンの衝撃
映画を見て、原作を読んで、もいっかい映画を見て、もいっかい原作を確認して、ああ、そうだったのね、と細かいところまでいちいち納得して、そんで思ったのは、これはマジでヤバい作品じゃないの、ということでした。こんなの作っていいのかい、という感じ。
最初のとっかかりは、ヒース・レッジャーやジェイク・ジレンホールのインタビューでした。彼らがことさら強調していたのは、これは「ゲイのカウボーイの恋愛映画ではないと思う」ということだったのです。つまり、「普遍的な純愛の話だ」という翻訳でした。
それは、いまだにホモセクシュアリティがタブーであるアメリカの一般社会を相手にしてのプロモーション上の、つまりは女性客を排除しないための、ある意味でじつにハリウッド的なホモフォビックな発言ではないか、と、あまりよい気はしなかったのです。なぜなら、これはどう考えても「ゲイのカウボーイの恋愛の話」なのですから。あるいは、「カウボーイのゲイ・ラヴ・ストーリー」といってもいいけれど。
でも、「これはゲイのカウボーイの恋愛映画ではない」という言い方は、ある意味、とても的を得ているのです。そして、その場合、とてもヤバいことになる。それはアメリカ文化をひっくり返す危険があるのです。
ゲイのカウボーイの恋愛映画ではないとしたら、これは、男たちはときにこんな陥穽にはまり込むことがあるということになる。
じっさい、こういう事例はつまり「男しかいない特殊状況の中での疑似恋愛/疑似性行為」としてながく範疇化されてきたものです。刑務所の中とか、軍隊とか、よくある話。でも、女のいる環境に戻ればそれは終わることになっていたのです。
ところが終わらない。終わらないなら、いまでも一般に広く流通している従来の概念ならば「真性のゲイ」ということです。だが、ブロークバックの2人は妻も子供も作る。そして20年間も(とは一っても年に1、2回ですが)釣りや狩りと称しての密会を重ねるのです。
こんなことは実際には起きないよな、とか、これはフィクションだ、とかいってしまうのは簡単ですけれど、この実世界、だいたいどんなことでも起きますからね。
つまり、どう見ても「真性のゲイ」ではない二人が、「真性のゲイ」の関係を持つ。そんなことがこの映画では起こるのです。
この映画のなかの世界の流れ方は、簡単に言えば、ホモソシアルな関係は、ホモセクシュアルな関係と等しいということなのです。その間にはこの現実世界では確固たる垣根があって、いろいろなタブーがその垣根を作ったり支えたりしているのですが、このブロークバック・マウンテンという山の上では、下界のタブーは通用しない。ジャックの妻がのちに回想するように「ブロークバック・マウンテンって、青い鳥が歌ってウイスキーが噴水になってるような夢の場所をいってたんじゃないかって、ね」なのです。
そして、男たちは、その思いを胸に20年間を過ごしてゆく。その思いが垣根を踏み越えさせている。
これは例えばこれまでのハリウッドの典型的なバディームーヴィーでも描かれてきた関係でした。
たとえばあの「ロード・オヴ・ザ・リング」のフロドとサムもそうです。あんなふうに信じ合い、あんなふうに命を掛け合ってまでともに旅をする2人の関係は、とても尋常な友情ではありません。
たとえばワイアット・アープとドク・ホリデーもそうでしょう。ドク・ホリデーは「荒野の決闘」では愛する女を捨ててワイアットのもとに助太刀に駆けつけ、そうして死んでいくのです。
新撰組だってそう。ヤクザ映画もそう。
それらはすべて、もちろんすごくホモソシアルな関係なのです。女は要らない男同士の濃密な関係性。そして、それをホモセクシュアルなのだと言い切ってしまったのがブロークバックなのです。
これはですから、「ゲイのカウボーイの恋愛映画」であるほうがじつは安全だったのです。
だって、ゲイだもの、仕方がないだろう、なんですから。
でも、二人はゲイではない。ジャックのほうは後にゲイセックスを求めてメキシコに行くのではありますが、「あそこじゃなにも(おまえに求めて得られたものは)手に入らなかった」とエニスにいいます。近くの牧場主との関係も示唆されるのですが、一般に思われているゲイのステレオタイプとはかけ離れている。
その意味で、ゲイじゃない男たちのゲイの関係なのです。(ま、それも私たちから見ればとてもゲイなんですけれどもね)
しかし「ゲイのカウボーイの恋愛映画ではない」「もっと普遍的なものだ」といえばいうほど、これは危険な映画になります。
インタビューに答えてそういっている監督のアン・リーや主役の二人は、そのことをいっているんでしょうか。これは危険な映画である、と。
彼らは、これはだれにでも起きることで、たまたまその2人が男だったというに過ぎない、という意味でいっているのでしょうけれど(その証拠に、映画のポスターには「Love is a force of nature」とあるのです。ことさらに、「自然の力」である、と)、これって逆に、すごく危険じゃないですか。
ヤバいなあ、と冒頭に書いたのは、そういうことです。
この映画を見て、ストレートとされる男たちの反応が知りたいです。
“普遍的”な、そんな関係性を、みんな私たちはある時期を境に封印して生きてゆきます。そうして女と結婚する。ふつうはそれで終わりです。それからは揺るがない。それを揺るがすようなトピックは,それ以後の状況も環境もあってなかなか起こらないからでもあります。
ところがこの映画を見て、男たちは自分にとってのブロークバック・マウンテンを思い出してしまうのではないか。封印してきたあの思いを、掘り起こされてしまうのではないか。封印する過去などないやつもたくさんいますけれどもね。
それはヤバいことです。
女性にしても、この映画を見たら自分のボーイフレンドに対する見方が変わってしまうのではないか。このひとにもひょっとしたら、わたしの知らないブロークバック・マウンテンがあるのかもしれない、と。
それは危険な気づきです。
世界は一変してしまう。
保守派たちが、この映画に対していっていることが気になります。
彼らは、これを出来の悪い映画ではないといっているのです。とてもよい出来の映画だと。だが、これは不貞を勧める映画だとして非難しています。妻を裏切り、結婚生活を裏切り、子供を裏切る不道徳者の映画だとして。
そういうのを聞けば聞くほど、ああ、こいつらは知ってるんだ、と思わざるを得ません。
こいつらは、男は男が好きなのだということを知っている。だからタブーにしたのだ、と。
こいつらが怖れているのは、女と寝るように、男とも寝る、ストレートの男たちの可能性のことなのです。
ストレートとゲイというのはこの場合は本質主義的な物言いですが、こうするとますます、旧約のレヴィ記にある「女と寝るように男と寝る者」への非難は、ゲイに対するものではなく、ストレートの男たちのその傾向への非難だったのだとわかります。
「ブロークバック・マウンテン」は、それを暴くからヤバいのです。
そう、もちろんこれは,単なる「ゲイのカウボーイの恋愛映画」では、いまや、あり得なくなっているのです。だれにでも起こりうる、性愛の話なのです。それは多くの観客にとって、初めての衝撃なのです。