« January 2006 | Main | March 2006 »

February 28, 2006

クラッシング・ザ・クラッシュ

いろいろ頼まれものの原稿のときには書けませんが、ここはブルシットなのでたまにはいいでしょ。いろいろ奥歯にモノの挟まったような言い方をしてきましたが、「クラッシュ」ははっきり申しますが、精密な解析に値しない映画です。そのまんまなのですから。スクリーン上に描かれていないものはない映画。その意味でとてもサービス精神にあふれた、怠け者でもわかる映画。アルトマンほどにも人間が絡まない、縺れない、からね。

つまり、ここだけの話、これは、頭の悪いやつにもわかる映画なんですわ。
簡単、単純、大げさ、わざとくささ。
前半、どんどん理不尽と恐怖とを盛り上げていき、あの車の炎上シーンからどんどんと偶然と善意とによってもたらされるカタルシスを注ぎ込んで消火作業に入って鎮火する。
マッチポンプの映画。

私くらいの年になると、先が見えちゃう。というか、伏線も何も、そんなあからさまでよろしいのか。エピソードの数々もぜんぶいつかどこかで聞いたことのある声高なゴシップ話レベル。こんなに予定調和! って感じ。会話も1つ1つが誇張されすぎで、まるで上質な振りをしたソープオペラ。いくらロサンゼルスでも、これじゃ可哀想。いまどきはアメリカのTVのプライム枠のシリアスドラマの方がもっと知的で深い(これ、ホント。けっこう面白いし、おまけに映画と違ってタダで見られるし)。

みんなが賞賛するのは、わかりやすいから。バカにもわかるようにできた大衆映画。で、たしかにハラハラしながらも安心して見ていられる娯楽映画。破綻がないのは、単純だから。人種衝突は、かくして娯楽に堕したわけ。つまり、パーティーでの5分間トークの寄せ合わせ。そういうの、やめてほしい(ってそこまで腹立つ映画ではぜんぜんないのは確かだけどね)。

べつに2005年の映画でなくても、10年前でも撮れたはず。新しいところは(見逃しがあるやも知れぬが)ないよなあ。

で、それで何が悪いの?
な〜んにも悪くありませ〜ん。
星を与えるとしたら、わたしだって5つ星のうち3つはあげます。

で、これに5つ☆を与えるやつは、30歳以下ならじゅうぶんに理解できます。
が、30以上なら(この数字は仮の目安ね。比喩よ)わたしとはちょっと面白い会話は成立しそうもない。ごめんなさい、という映画。この映画を見て、侃々諤々の議論は恥ずかしい、そういう映画。つまり、そのまんまの映画。あ、最初に戻った。

というわけで、終わり、という映画。

February 22, 2006

生きよ、堕ちよ

 イスラム教の預言者ムハンマドの風刺漫画問題はなおも世界で拡大しています。先日もまたナイジェリアで、暴徒化したデモ参加者がキリスト教系住民16人を死なせるという惨事になりました。厳格な宗教戒律と縁の薄いわれわれ日本人には、あの9.11をも広義に含めて、さらには15年前に筑波大学構内で首を切られて惨殺されたサルマン・ラシュディ『悪魔の詩』翻訳者五十嵐一助教授の未解決事件をも含めて、何のための宗教なのかと眉をひそめたくなるような事件が続きます。

 風刺画問題はもちろん宗教と表現の自由との対立の問題です。

 どの宗教でも同じですが、宗教原理主義は聖俗の区別をゆるさず、すべてが「聖」であるために批判の入り込む余地はありません。批判というのは人類の生み出してきた「知」の産物なのですが、宗教原理主義においての「知」はすべて“神学”に寄与するためのものですから、宗教自体への批判は「知」ですらない蛮行なのです。

 これに対して西洋式の「知」はもとより宗教から乖離するように発展してきました。「知」は一切の外側にあって、その対象は対内的な権威を剥ぎ落とされ検証され論評され批判される。そこからこれまでに積み立てられた価値自体の解体である「脱構築」などという手法まで生まれました。

 いわば「知」にタブーはない。一方で「聖」は「聖」以外のものを、あるいは「聖」自体をもタブーにすることによって存在しています。世界各地のイスラム教徒の暴動はタブーとしてのこの宗教的「聖」と、タブーを認めない表現・言論の自由を基盤とする「知」との衝突なのです。

 そんな中で、「表現の自由は重要だが、相手の宗教に対する敬意を欠いてはいけない」という論調があります。ローマ法王までが「人類の平和と相互理解のためには、宗教とその象徴を尊重することが必要だ」と発言しました。しかしそれはもともと両立し得ないものです。表現の自由は元来、宗教的なるものへの異議申し立てを行っても殺されないようにと確立された概念なのですから。それは「それでも地球は動いている!」という叫びの後ろ盾なのです。それは、宗教への敬意を否定してもよいという「知」の覚悟のことなのです。どうしてそれらが共存し得ましょうか。

 ただし、巷間いわれるように、問題はイスラム教ではないのです。問題は「原理主義」のほうにある。イスラムでもカトリックでもユダヤでも同じ。ブルーノを火あぶりに処しガリレオを迫害したのはローマ・カトリックでした。それは原理主義カトリックの時代だった。いまだってキリスト教原理主義の人々はアメリカでもそれ以外の価値観に対してとても攻撃的で、一部では白人優越主義者と重なっていたりさえします。

 先日、イスラムに詳しい知人から、イスラム諸国の人たちの大半はニュースになるような過激な人たちじゃなく、むしろ、同じように俗っぽくて面白い人たちなんだと教わりました。それは原理主義への冒涜でしょう。でもそんな原理主義からの乖離、つまり宗教的な“堕落”こそが、私たちが歴史の中でいまやっと到達している「人間主義」なのです。

 イスラム諸国で、そういう“堕落”した人間主義の台頭する余地があるのかどうかはわかりません。シーア派とスンニ派でも違うようですし、中東とアジアでもまた違う。ただ,いまや世界宗教となっている広大なイスラム文化圏の内部でも、この人間主義と原理主義との葛藤がいつかかならず表面化するはずだとは、私はひそかに信じているのです。外部からの「知」の攻撃よりも、内部の「知」の、内部に見合った広がり方に期待しているのです。

February 08, 2006

懐妊、懐胎、妊娠

 国会での小泉の驚きようったら、あれは本当に知らなかった顔でした。
 彼のところに情報が集まっていないということ。これはなにかの象徴でしょう。
 なんの象徴か。

 先週末のことです。3日の共同電を引きましょう。
 見出は「閣内からも慎重論 皇室典範改正、難航も」でした。
**
 女性、女系天皇を容認する皇室典範改正案をめぐり、3日午前の閣議後記者会見で一部閣僚から「しゃにむにやらなければいけない法案か」(麻生太郎外相)などと、慎重論議を求める声が出された。(中略)麻生外相は「男子皇族が生まれないかのような前提で話をしている。もう少し議論が必要だ」と指摘。(後略)


 毎日はもうちょっと詳しい。
 「外相と財務相が慎重論 反対派が勢い?」として
**
 谷垣氏は「天皇の地位というのは日本国民統合の象徴だから、今国会であろうとなかろうと、じっくり議論して、すんなり決まるように運ぶのが望ましい」と述べ、意見対立が残ったままでの改正に慎重な姿勢を示した。谷垣氏は1月17日の会見で「女系天皇を決断すべきではないか」と改正案に賛成の意向を表明しただけに、慎重論に方向転換したとみられる。
 さらに、中馬弘毅行革担当相は「まだ雅子さまも、紀子さまだって男の子を懐妊される可能性が十分あるのに、なぜ急ぐんだという慎重論がどの派閥にも出ている」(後略)


 この時点で、永田町の風向きがシフトしたのです。どうしてこうも一斉に? それはつまり紀子さんの妊娠の情報が、然るべきところに回されたということに他ならない。これがしかし、小泉には届いていなかった。これは何を象徴しているのでしょうか?

 昨日のニュース画面で、メモを差し出されて驚き顔の小泉に対して、官房長官の安倍は後ろから覗き込むようにして表情を変えなかった。つまり彼も知っていたっぽいですな。

 麻生が知っていた、ということは秋篠宮→寛仁→麻生の線でしょう。麻生の妹は寛仁の奥さんですからね。秋篠宮と寛仁親王はヒゲつながり、ってわけじゃなくて。

 6週ということは先月下旬にはわかってたってことでしょう。それでその情報が麻生や安倍に流れたということはつまり、皇室典範改正への慎重派=反対派へのリークということで、皇室典範改正論議にブレーキをかけるということになる。つまりこれが皇室筋の“意向”ということに。ってことは、秋篠宮の後ろには天皇がいるのかしらねえ、やっぱり。
 「女系・女性容認は天皇陛下の意思ではない」っていうのは、寛仁がいろんなところで繰り返していたことですし。
 これが宮内庁筋なら、とうぜん小泉周辺が知っているはずですから。

 なんだか話がややこしくなってきましたね。ポスト小泉をにらんで、これではすでに情報合戦、政争の具だ。

 ところで、皇室典範改正論議は「第3子の誕生を待って」という論理、すっごくおかしいんですけど、だれも言わないのはどうしてでしょう。

 「男系」というのはとうてい無理がでてくるし,そもそも女系であっても女性であってもかまわないんじゃないか、といってきた世論も、とどのつまりはそれはそれ、次善の策だったのよということで、けっきょくは「男系」がいいってことなんですねー。あるいは「変わらないのが一番」という。それにしてもまるで第3子がすでに“健康”な“男児”であるかのような浮かれよう。はしたないというかなんというか。

 これはなんとも失礼な話です。皇室にとってではなく、私たちにとって。これはとんでもない話なのです。
 天皇制が差別構造の元凶だという、懐かしい理論を思い出しました。ヨーロッパで荒れているマホメッド冒涜の抗議の輩たちの崇拝も、似たようなものかもしれません。