« 懐妊、懐胎、妊娠 | Main | クラッシング・ザ・クラッシュ »

生きよ、堕ちよ

 イスラム教の預言者ムハンマドの風刺漫画問題はなおも世界で拡大しています。先日もまたナイジェリアで、暴徒化したデモ参加者がキリスト教系住民16人を死なせるという惨事になりました。厳格な宗教戒律と縁の薄いわれわれ日本人には、あの9.11をも広義に含めて、さらには15年前に筑波大学構内で首を切られて惨殺されたサルマン・ラシュディ『悪魔の詩』翻訳者五十嵐一助教授の未解決事件をも含めて、何のための宗教なのかと眉をひそめたくなるような事件が続きます。

 風刺画問題はもちろん宗教と表現の自由との対立の問題です。

 どの宗教でも同じですが、宗教原理主義は聖俗の区別をゆるさず、すべてが「聖」であるために批判の入り込む余地はありません。批判というのは人類の生み出してきた「知」の産物なのですが、宗教原理主義においての「知」はすべて“神学”に寄与するためのものですから、宗教自体への批判は「知」ですらない蛮行なのです。

 これに対して西洋式の「知」はもとより宗教から乖離するように発展してきました。「知」は一切の外側にあって、その対象は対内的な権威を剥ぎ落とされ検証され論評され批判される。そこからこれまでに積み立てられた価値自体の解体である「脱構築」などという手法まで生まれました。

 いわば「知」にタブーはない。一方で「聖」は「聖」以外のものを、あるいは「聖」自体をもタブーにすることによって存在しています。世界各地のイスラム教徒の暴動はタブーとしてのこの宗教的「聖」と、タブーを認めない表現・言論の自由を基盤とする「知」との衝突なのです。

 そんな中で、「表現の自由は重要だが、相手の宗教に対する敬意を欠いてはいけない」という論調があります。ローマ法王までが「人類の平和と相互理解のためには、宗教とその象徴を尊重することが必要だ」と発言しました。しかしそれはもともと両立し得ないものです。表現の自由は元来、宗教的なるものへの異議申し立てを行っても殺されないようにと確立された概念なのですから。それは「それでも地球は動いている!」という叫びの後ろ盾なのです。それは、宗教への敬意を否定してもよいという「知」の覚悟のことなのです。どうしてそれらが共存し得ましょうか。

 ただし、巷間いわれるように、問題はイスラム教ではないのです。問題は「原理主義」のほうにある。イスラムでもカトリックでもユダヤでも同じ。ブルーノを火あぶりに処しガリレオを迫害したのはローマ・カトリックでした。それは原理主義カトリックの時代だった。いまだってキリスト教原理主義の人々はアメリカでもそれ以外の価値観に対してとても攻撃的で、一部では白人優越主義者と重なっていたりさえします。

 先日、イスラムに詳しい知人から、イスラム諸国の人たちの大半はニュースになるような過激な人たちじゃなく、むしろ、同じように俗っぽくて面白い人たちなんだと教わりました。それは原理主義への冒涜でしょう。でもそんな原理主義からの乖離、つまり宗教的な“堕落”こそが、私たちが歴史の中でいまやっと到達している「人間主義」なのです。

 イスラム諸国で、そういう“堕落”した人間主義の台頭する余地があるのかどうかはわかりません。シーア派とスンニ派でも違うようですし、中東とアジアでもまた違う。ただ,いまや世界宗教となっている広大なイスラム文化圏の内部でも、この人間主義と原理主義との葛藤がいつかかならず表面化するはずだとは、私はひそかに信じているのです。外部からの「知」の攻撃よりも、内部の「知」の、内部に見合った広がり方に期待しているのです。

TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://www.kitamaruyuji.com/mt/mt-tb.cgi/293