« February 2006 | Main | April 2006 »

March 31, 2006

月は非情な女主人

The Moon is a Harsh Mistress.

この曲がここひと月ほど耳について離れない。
Chalie Haden & Pat Metheny で聞きはじめたんだが、Joe Cocker が歌ってるのもいいんだなあ。あと、女声で、Rigmor Gustafsson、それにかわいいヴァージョンではTone Damli Aaberge も。

Brokeback の原作者のアニー・プルーも聴いていた曲。これを聞きながらあの物語を書いた。Beyond the Missouri Sky というアルバムに入ってる。

わたしにとっては、この曲の前に取り付かれた曲は、Jeff Buckley の Hallelujah だった。彼から始まって、いろんなやつのハレルヤを聴いていた。k.d.langとかね。これも滲みる曲。

そのまえは、アポリネールの詩を歌った、ミラボー橋だった。シャンソンだけどね、金子由香利がいい。あのひと、おれの母親に似てる(ちょっとだけど)。これはつらい時だった。時が早く過ぎ去れば、という逆説として。

そのまえの曲は、もう憶えていない。2年前。幸せなときは、歌は要らない。

記憶の最初にある、最初の好きな歌は、小学校の音楽の教科書にあった「ごろすけほっほ」だった。
「わたしは森の見張り番、怖いオオカミ、キツネなど、来させないからネンネしな。ゴロ助ホッホ、ゴロ助ホッホ」ってやつ。

どっちが先だったか、当時、「ヨット」という、すっげえ不自然なマイナーの曲もあった。
「波を切って、うねりを乗り越えて、白い帆のヨットは、走る走る走る。(転調)海は広い、広くて青い。波の歌はピープー、カモメの歌は、(なんだっけ? イイ〜ヨー、イーヨ〜?)」

みんな短調だね。転調する部分で、脳みそがよじれるような感覚がしたもんだ。こんな変な歌があるんだって、10歳のぼくは初めて知的興奮を覚えた。ま、それよりさきに、うらがなしい感じが好きだったんだ。10歳と書いたが、わからん。小学校3年生だったような気もするし。

でも、こういうのが好きだったのって、そういうのって、どの遺伝子が反応してるんだろう。もっと記憶を遡れば、小学校3年生のときに親戚の引っ越しを手伝う父と母にくっついて、トラックの荷台で聞いたオルゴールの、「白鳥の湖」の、あのテーマが、その後ずっと、かなりのあいだつきまとっていた。母親にこれはなんていう曲なのって訊いたりして。でも、チャイ子の悲哀が直感として好きだったなんて。ひー。

そうそう、やはり小学校何年生かのときに、おばちゃまが歌ってくれた、「泣いて泣い〜て〜、つぶれた〜目〜」っていう歌も好きだった。歌謡曲。

これがなんという題名の曲なのか、ず〜っとわからなかった。わかるはずもないと思ってた。だって、ぼくが知っているのはその歌の一行だけだったし。

それが、大人になってから、大人になってからかなりたってから、新宿2丁目の、おかまバーの、「近藤」という、シングル盤のレコードを裸で山のように棚に重ねて所有していたマスターに、ひょっとしたら、と思って、でも、ダメもとで、訊いたら、知ってた。

「関東エレジー」っていうんだ。即答だった。

信じられなかった。ぼくは死ぬほどうれしかった。いや、奇跡だとおもった。まるで、この人に、やっとまるで運命のように数十年後に訊いて答えてもらうためにいままでずっと謎だったのだ、という気がした。

で、あろうことか、そのオリジナルを、彼は、持ってた。
で、かけてくれたの。店の、ブチッと針を落とす旧式のちゃちなプレイヤーで。
そう、それはおばちゃまが歌ってくれた、あの歌だった。

新宿二丁目、畏るべし。あの時代のおかま、畏るべし。

そのマスターは、それから1年後の月夜の未明に、その店で首を吊って死んだ。

月は非情な女主人。

March 24, 2006

アメリカが公正になるとき

 日本にとっては終わりよければすべてよしだったWBC。わたしはサッカー少年だったので野球というのはいつもグラウンドの奪い合いで目の敵にしていたスポーツ。どうでもいいといえばどうでもいい。しかしまあ、いろいろ書かねばならぬこともあるので決勝トーナメントくらいは見てました。このWBC、アメリカでの注目度が今イチだったのは、わざわざ「ワールド・ベースボール・クラシック」と銘打たなくともアメリカこそが「世界」の「ワールド・シリーズ」があるからですが、やや興味を引いたのはそんな唯我独尊のアメリカで、そのニュース報道や中継のアナウンスや解説の仕方にいままでにない謙虚さが目についたことです。

 あのタッチアップ得点のなかったこと問題や幻のポール直撃本塁打といった誤審のニュースやコラム、さらにアメリカチームの敗退報道だけではなく、それは日本の監督の王さんの紹介の仕方でも象徴的でした。アメリカでは日本のミスター・ベースボールたる長嶋茂雄はほとんど無名なんですが、世界最多ホームラン記録保持者が「サダハル・オー」であることは野球通には周知の事実なんですね。ただし王さんの868本という記録は、これまではあくまで日本における記録という紹介のされ方だった。で、アメリカの認める「ワールド」記録というのは、王さんよりも113本も少ないハンク・アーロン氏の755本だったわけです。

 ところが今回のWBCの報道では王さんの肩書きにNYタイムズ紙のスポーツライターが2人とも「プロ野球史上最多ホームラン打者」だとか「メジャーリーグ・ベースボールのナンバー1ホームラン打者」という言葉を使い、日米の野球に区別を付けていなかったのです。

 スポーツ界という最も保守的で愛国的な世界でも、新しい波は無視できません。いまやメジャーリーグでさえベースボールは野茂、イチロー、ゴジラ松井のエピソード抜きには語れない。王さんが現役の時代、一世代や二世代上のアメリカ人にとってはベースボールはヤキュウとは違うという矜持もあったのでしょうが、若い世代にとっては、ベースボールはまさにインターナショナル。中南米の出身者は活躍するは、韓国、台湾、日本人もいるはで、かつての狭量な「世界」観は確実に変わってきているのです。

 旧世代とは違う謙虚なアメリカ人が生まれてきている──これはどうも、あの9.11テロとも関係してるのじゃないかと思われます。ポスト9.11世代ともいうべき世代に、アメリカってどうしてこんなに嫌われてるんだと、世界をもっと謙虚に見直そうという空気が再度盛り返しているのは確かなのです。その雰囲気は、ブッシュさんへの支持率がいまや35%前後という危険深度にまで落ち込んでいる現状とも共鳴しています。

 もっとも、これらを指して「アメリカはどうでもよいときだけ公正になるんだよ」という批判もあります。同じ時期にニュースになった、例のBSEの牛肉問題の米国回答書なんかそのよい例です。

 回答は日本向け牛肉の脊柱混入を「特異な事例だった」と繰り返すだけのもので、じつは3月になって同じ脊柱混入事件が香港向け牛肉でも発生しているのですが、2例も3例も続くものが特異な事例か、という不信感は拭えません。おまけに輸入禁止に科学的根拠はないとして「米国産牛肉を食べて病気になるより牛肉を買いに行くときに交通事故に遭う確率のほうが高い」と解説してくれるにいたっては、人の神経を逆撫でるような、表現は悪いが「盗人猛々しい」という謂いを連想してしまったほどです。

 どうもアメリカは、どんな問題にも(とくに、どうでもよくはない問題に関してはより)自分こそがジャッジだと思い込む癖があるようですね。

 それはやはり同じころ3月20日に丸3年を過ぎたイラク侵攻に関してもいえたことです。これもサダム・フセインを無理矢理テロに関連するものに仕立て上げ、どうでもよくない問題にしてしまったせいで逆に泥沼にはまっています。不幸にもこれは、開戦前に最悪の事態として予測していたこととまったくそのとおりの展開になってしまっているのです。

 国益に関してカッカするとロクなことはない。WBCと違って、米国が牛肉とイラクに冷めた批評眼と公正さを取り戻すのは難しいでしょうが。

 愛国心というのは自分の国だとべつに気にも止めないのですが、他国の愛国心はときにひどく気味が悪い。イビキと同じでね、自分のは気にならないが、隣のヤツのはうるさくてしょうがないわけで。勝手なもんですね。

 そういえば今回のWBCでは、イチローがやけにカッカしていました。韓国に対して「向こう30年は日本に手は出せないなと思わせる勝ち方」だとか「ブーイングは好きだ」とか。

 味方や自分自身を発奮させるためのセリフだとしても、なんだかアメリカ的な力の入り方で、わたしは嫌な感じがした。王さんのことを「品格に長けた人だ」と賞賛できるような輩が、まったく品格に欠けるような煽り方をした。で、そのときは負けちゃった。

 やっぱり煽りすぎるとロクなことはないのです。

March 14, 2006

yes 創刊2号 本日発売


日本時間で本日15日発売(地方はちょっと遅れるかも)のタワーレコードの雑誌「yes」(880円)で、「ブロークバック・マウンテン」の小特集が組まれております。

ヒース・レッジャーのインタビュー、BBMの分析「ブロークバック山の案内図」、雑学情報集「ブロークバック付録袋(ふろくぱっく)」などが掲載されています。
一般書店、もしくはタワーレコード各店、あるいは以下のアマゾンでも買えます。

アマゾンに飛ぶにはここをクリック

**
ヒース・レッジャーのインタビューのさわり

Q この映画がLGBTの観客にとっていかに大事な映画になるかということをあなたに言ってきたゲイの友人はいた? 「こいつは重要だぜ、失敗するなよ」って?

H そういうこと、友だちに言ってもらわなくてもわかるからね(笑)。これが重要な物語であるということは理解してたし、これまで正しく語られてきたことのない話であるということもわかってた。これをやることで責任が生じるということも知ってた。

Q この役を手にするってことについてはどう? この映画ならいろんな俳優がやりたがっただろうなって思うけど。

H 実際のところ、ちょっと変でもあった。台本を読んでこれはすごいと思ったんだ。こんなに美しい脚本を読んだことがなかった。ほんとにそう。おれのエージェントに「制作サイドがきみにやってもらいたいって言ってきてる」って言われてね。で、そのときは、おれの役はジャックの方だったんだよ。で言ったわけ。「いや、ジャックってのはどうやってやったらいいのかおれにはわかんないな。エニスだったらやれるけど。2人のうち、エニスの物語だったらできる」って。それからプロダクションは他の俳優を当たってたみたいで、しばらくおれもその話は忘れてたんだ。オーストラリアに帰って家族に会ったりとかしてね。そうしたらまたその話が来てさ、「きみの希望どおりにやってみるってさ。エニスがきみでジェイクがジャックをやるって案だ。アン(・リー監督)に会うかい?」って言うから「もちろん会いたい」って言って〜〜〜(続く)


**
映画分析記事のさわり

 朝ぼらけのワイオミングの山あいの道路をトラックが行き、グスタボ・サンタオラヤのスチール弦が冷気を貫き、エニス・デル・マーが美しい八頭身でトラックから静かに降り立ったとき、その歓喜と悲劇の物語はすでにそこにすべてが表現されていた。歓喜は遠い山に、悲劇は降り立った地面と地続きの日常に、そうしてすべての原因は不安げに結ばれるエニスの唇と、彼を包む青白い冷気とに。

 「Love is a Force of Nature」というのがこの物語の映画版のコピーだ。「愛とは自然の力」。a force of nature は抗し難い力、有無をいわせずすべてを押し流してしまうような圧倒的な力のことだ。「愛とはそんなにも自然で強力な生の奔流。だからそれに異を唱えることはむなしい」──そのメッセージ。

 しかしここにはもう1つの意味が隠されてある。(中略)このコピーの二重性は象徴的である。〜〜(続く)

March 10, 2006

ブロークバックはただじゃ終わらない

オスカーに抗議して、「我々の作品賞はブロークバック・マウンテンです」という新聞一面広告=写真参照=を出そうという運動が始まりました。 「ありがとう;ブロークバック・マウンテン」という、ファンたち自身からの最優秀作品賞の授与ですね。

これがブログで紹介されるや、48時間で400人以上から17500ドル(200万円)が集まった。

呼びかけはアメリカでの熱狂的ファンサイト「the Ultimate Brokeback Forum」。落選の怒りをあたりかまわずぶちまけたりひたすら落ち込んだりという非生産的な行為の代わりに、この映画への制作陣への敬意と賞賛とを表明しようと新聞広告を打とうというわけです。画像にもあるように、2005年のベスト作品賞受賞映画賞を網羅して圧巻です。ただ1つ、オスカーだけがない。アカデミー会員のじいさんたちはこれをみて畏れ多くないか、ってわけですね。

言い出しっぺは私もこの欄とか自分のサイトとかでいろいろとネタ元にしていたDave Cullenくん。ふーん、本物だ、このブロークバック好きさ加減は。

こんなことはハリウッド映画史上かつてありませんでした。
面白いねえ。

ジャックとエニスの愛が社会によって否定されていたことに関する映画が、再び社会によって否定された(作品賞の落選)に我慢がならんというわけですね。アメリカ人の行動力って、ほんとこういうときに凄いと思います。

まずはハリウッドで最も読まれている映画関連新聞の「デイリーヴァラエティ」紙の本日10日付けで全面広告を打つとのこと。

さらに寄付を集めて他の雑誌や新聞にも、同様の広告を打つようです。
で、コピーは
「We agree with everyone who named 'Brokeback Mountain' best picture」
「わたしたちは、ブロークバック・マウンテンを最優秀映画賞に決めたすべての人々に賛同します」

で、日本からももちろん寄付できます。
http://www.davecullen.com/brokebackmountain/adcampaign.html
に行って、peypalのところをクリックして寄付が出来ます。
10ドルでもいいわけ。もちろん1ドルでもね。
でも、ビザかマスターカードを持ってないと難しいかも。

日本の新聞社にも教えましょうね。
こりゃぜったいに面白いネタだ。

March 08, 2006

ブロークバックの衝撃2

 今年のアカデミー賞は「クラッシュ」が作品賞を獲ったということより「ブロークバック・マウンテン」がそれを獲らなかったということのほうがニュースになっています。昨年12月の公開以来アメリカ社会にさまざまな「衝撃」を与えてきた「ブロークバック」ですが、作品賞を「クラッシュ」に横取りされた別の「衝撃」が返ってきちゃいました。記事の見出しも「アカデミー賞でのドンデン返し」とか「ブロークバックのバックラッシュ」とかですものね。

 アカデミー賞はその選考投票の内容を明らかにすることはありませんが、新聞各紙やロイターやAPなどがさまざまな見方を示しています。

 NYタイムズは作品賞を逃したことを;
 ブロークバックをだれも止められないと思っていた。だが最後に思わぬ事故(クラッシュ)が待ち受けていた。再びの屈辱的な教訓。アカデミーはだれかにどうこうすべきと言われるのが好きではないのだ。ジャック・ニコルソンが最後の封筒を開けたとき、すべての賭け金、一般の思惑、これまでの受賞暦が無に化した。「ホワー」とニコルソンは言った。

 たしかにニコルソンの反応は面白かった。「何たること!」という感じでしたものね。

 クラッシュはロサンゼルスのある交通事故が、いろんな場所のいろんな人々のいろんな話をない交ぜて思わぬ展開を見せていくというものです。そこには人種問題、貧富の問題、階級の問題、職業の問題、いろいろあって、オリジナル脚本賞も取っただけあってじつによく書けている。

 ところが、これが「今年の映画」かというと、正確にはアカデミー賞は去年の映画を対象とするのですが、その「いまのこの年の映画か」というと違うんじゃないか、というのが正直な印象です。「クラッシュ」のこの手法というのは「群像劇」の手法で、たとえばロバート・アルトマンの「ショートカッツ」(94年)なんかの手法なのです。またかよ、という感じ。

 さてそのうえで、NYタイムズとかAPでも共通しているブロークバックの敗因は、まず、ロサンゼルスという地の利/不利のことでした。NYタイムズの見出しは「ロサンゼルスがオスカーの親権を維持した」でしたし。
 つまりクラッシュはお膝元のロサンゼルスが舞台で、しかも登場するのはものすごい数の有名俳優たち。ブレンダン・フレイザーやサンドラ・ブロックの役などほんのちょいでなくてもかまわない、マット・ディロンもこれで助演男優賞候補?ってぐらいに出演時間もちょっと。そういう使い方をしてる。でもこれはハリウッドの俳優陣総出演というか、見事にむかしの東宝東映大映松竹オールスター大江戸花盛り、みたいな映画で、まさに化粧直しした新型ハリウッド映画なのです。対してブロークバックはカナダで撮影され、ロサンゼルス=西海岸資本が作った映画ではなくて、ニューヨーク=東海岸の資本が作った映画なんですね。これはいわばボクシング試合などのホームタウン・デシージョンではなかったか、そういう分析です。

 あるいはかねてから言われていたように、「ブロークバック」を、アカデミーの会員のご老人たちは観てもいないのではないか、という説。
 アカデミーというのは映画に関係するすべての職業の人から構成されていて、現在の会員は6000人くらい。そのうち投票するのは4500人とか5000人なんですが、ほかの賞のグループ、監督協会とか評論家協会とかよりも高齢化が進んでいて、そこに候補作品のDVDが送られてくるという仕組みです。それで自分で見る。日本にも何人も会員はいて、そこに字幕付きのも送られてます。
 だが、このカウボーイ同士のゲイの恋愛もの、そういうご年配の会員たちにとって、黙ってても観てくれる種類のものだろうかというと……。 「クラッシュは私たち自身が生きて働くこの業界をよく体現した映画だ( 'Crash' was far more representative of the our industry, of where we work and live)」とあるハリウッド関係者がNYタイムズの記事でコメントしています。対してブロークバックは「神聖なハリウッドのアイコン偶像に挑戦した、アカデミーのご年配方がそういうアメリカのカウボーイのイメージが壊れるのを観たいだろうかというと、答えは明らかだろう('Brokeback' took on a fairly sacred Hollywood icon, the cowboy, and I don't think the older members of the academy wanted to see the image of the American cowboy diminished.)」ということです。
 脚本を書いたラリー・マクマートリーもまた「Perhaps the truth really is, Americans don't want cowboys to be gay,(きっと真実はたぶん本当に、アメリカ人はカウボーイがゲイであってはほしくないということなんだろう)」と「bittersweet」なオスカーの夜を振り返っています。

 でも肝心なのはそれだけではないようです。
 クラッシュの配給会社は大手のライオンゲートですが、ここがクラッシュが候補に上ったとたん、じつはものすごいキャンペーンを展開したというんですね。というのも、その時点でもうクラッシュのアメリカでの劇場公開は終わっていて、DVDが発売されていた。このDVDを映画関係者に13万本以上もバラまいたというのです。対してブロークバックはDVDは市販用にはまだ出来ていない。だからバラまきようがない。13万本も作ったら破産してしまう。ふつう候補作は1万本とかが郵送されるようですが、クラッシュはその10倍以上です。ライオンゲートはほかの三流映画で稼いだお金をぜんぶつぎ込んでこのクラッシュをプロモートしました。何度も何度も、いろんな賞のたびに送るんです。そりゃ家に10本もたまったら観ますよね。クラッシュはこのプロモーションで数十万ドルつまり1億円近く使っています。そのほかにもパーティーはやるわ、贈り物はするわ、で、選挙運動じゃないですからそういうの、べつに逮捕されたりしませんからね。そういう背景があった。これはかつてあのイタリア映画「ライフ・イズ・ビューティフル」のときに問題になったやり方です。あの映画もものすごいパーティーをやり、アカデミー会員に贈り物攻勢をかけ、あの主役のなんとかっていうコメディアンが愛嬌を振りまいた。で、オスカーを獲った。まるでオリンピックの招致合戦のような様相を呈しているわけですね。

 おまけに、クラッシュは「街の映画」でテレビ画面で見てもあまり印象は変わりませんが、ブロークバックは「山の映画」で、たとえ幸運に見てもらったとしても、あの広大な自然の美しさをバックに描かれる愛が、テレビの画面ではいまいち伝わらない。そういう不利もあったろう、と。

 つまり、今回の作品賞の顛末は、クラッシュが作品賞を獲る理由と、ブロークバックが作品賞を獲らない理由が、うまく二重合わせになった結果なのだろうということです。

 ま、しかし、冷静に考えるとBBMはいかにそれがエポックメーキングだとはいえ、アメリカ国内での興行成績はまだ8000万ドルに過ぎません。ゲイ関連の映画で、1億ドルを超えたのは過去にあのロビン・ウィリアムズの「バードケージ」(フランス版「ラ・カージュ・オ・フォー」のリメーク)だけなのです。BBMの観客数はこれまでで米国内1500万人くらいでしょうか。で、リピーターも多いから、つまりアメリカ人の95%以上はこの映画を観てもいないのですね。映画というのはそういう媒体です。テレビのヒット作なんか一日の1時間の番組で3000万人が見たりするのに。だから4200万人が視聴する中、94年4月にエレン・デジェネレスがテレビのコメディドラマでカムアウトしたときのほうがインパクトは強かったのかもしれない。

 あれから12年、時代の先端部分はたしかにBBMのような映画を作れるようにはなってきました。
 ただし、ジェイク・ジレンホールとヒース・レッジャーもインタビューで自分たちで言っていたように、「キスシーンでは最初、どうしても笑ってしまった」のですね。彼らですらそうなのですから、映画館であの男同士のキスシーンを見て笑ってしまわざるを得ない男たちというのはまだまだ相当数いるわけです。笑うだけではなく、「オーゴッド!」とか「カモン(やめてくれ)!」とか「グロース(キモイ)!」とか茶々を入れなきゃ見てられない連中だって。この映画を観た男性たちの中には、あえて「そんなに大した映画じゃなかった」という感想を、あえて表明しなければならない、というプレッシャーを感じている輩も多いのです。
 それはもちろんそういうホモセクシュアルな環境に耐えられない自分の中のホモセクシュアルな部分をごまかすためであり、あるいは一緒に映画を見ている仲のよい友人たちとの相互のピアプレッシャーでもあり、そういうのはさんざんわかっているのですが、やはりそういうのはまだ強い。ましてや、社会から隔絶して引退生活を送っているアカデミーの終身会員のお歴々がBBMに関して何を思っているのか、いや、なにも思っていない、ということは、つまりは見る必要性を感じない、というのは、ある意味当然ではあるのでしょう。

 歴史というのは、手強いのです。

 ただし、わたしには確実に空気が変わったのは感じられるのです。
 日本の配給会社ワイズポリシーの用意した掲示板に行ってみると(すこしでも映画にネガティブなことを書くと速攻で削除されるという恐ろしい掲示板らしいですが)、さまざまな人たちがゲイのことについて、あるいは自分はゲイであると明かして、さまざまに書き込みをしています。こういうことは「メゾン・ド・ヒミコ」でもあったようですが、あのときはオダギリ・ジョーのファンの女性たちに気圧されて掲示板でそう主人公にはなれなかった。でも、今回はBBMファンの女性たちと渡り合って余りある勢いや思いも感じられます。

 こういうのは「クラッシュ」には起きない。BBMの崇拝者は生まれていますが、クラッシュの崇拝者というのは聞いたことがない。
 ですんで受賞を逃したのはそれはそれでいいんじゃないかと。それが2006年という時代の断層なのではないかと思うわけです。BBMが、今後のハリウッド史の中で「アカデミーに作品賞を与えられなかったことが衝撃を与えた作品」として、長く語り継がれるだろう映画であることは間違いないのですから。

March 03, 2006

先行公開スタートですか?

 えっと、日本では4日に、渋谷だけなんでしょうか? ブロークバックの先行公開。
 で、一般のブログサーファーの方向けに、文章を書いてみます。こちらではこの日曜にアカデミー賞の発表および授賞式です。

 で、今年のアカデミー賞で最多8部門でノミネートされているのがその「ブロークバック・マウンテン」です。この映画はでも、オスカー云々以前、はるか12月初めの公開直後からアメリカではすでに社会現象になっていました、という話。というか、観てほしいのです。

 アメリカではすで公開から3カ月なんですが、この映画に関するブログやパロディサイトは数限りなく立ち上がり、新聞各紙は映画評から離れて「ガールフレンドにブロークバックを観に行こうと誘われて『いや』と応える男はクールじゃない」とかいう社会分析を載せたりしました。パーティーの席などで「ブロークバックは見た?」という会話は、自分がいかに差別や偏見を持たない人間であるかを示す格好のリトマス試験紙になっています。

 というのも、これは1963年から20年間にも及ぶ,米国中西部に生きるカウボーイ同士の恋愛の映画だからです。そう、男同士の愛。ただし、一般に信じられているステレオタイプの同性愛とは違いました。そこがミソだったのです。多くの人が知らなかった「愛」の、その愛の形と悲しみとがあらわになるこの映画で、「これが同性愛なら私はいままで大きな勘違いをしてきた」と思いはじめる人が出てきた。まるであの黒人差別をえぐったシドニー・ポワチエの映画「招かれざる客」のような真摯な議論を現代に持ち込んでいるのです。

 興味深いのはキリスト教右派とされる人たちの反応でした。欧州諸国やカナダなどの同性婚受容の動きの反動で、アメリカではいまこの同性間パートナーシップにあちこちで厳しい不寛容が表面化してきています。その不寛容の急先鋒である宗教団体の人たちまでも、ところが「この映画はとてもよい映画だけに、間違ったメッセージを送る恐れがある」となんとも及び腰の批判ぶりなのです。

 ここに至ってすでにゲイだなんだというのはあまり問題ではなくなりました。保守的とされる中西部や南部でさえもかなりの観客を動員しており、初めはプロモーションのために配給会社側もゲイ色を出さず「普遍的な愛の物語」と曖昧にプッシュしていたのですが、いまや観客のほうから「ゲイの恋愛だって普遍的なもの」との見方に自然にシフトしてきました。男性主義の米国社会にとって、それは実に衝撃的な問題提起なのでした。

 でも、一方でさきほど、こんなニュースを見つけました。

**
【第78回アカデミー賞】ミシェル・ウィリアムズ、“ゲイ映画”に出演したとして母校から縁を切られる

 アカデミー賞8部門でノミネートされている『ブロークバック・マウンテン』のミシェル・ウィリアムズが、映画の内容のせいで母校から縁を切られた。カリフォルニア州にあるウィリアムズの母校サンタフェ・クリスチャン・スクールの校長は、「卒業生がゲイをテーマにした映画で苦悩する女性を演じたのは非常に不快。彼女の行動は当校の価値観とは異なり、一切関わりは持ちたくない」とコメントしている。   (FLiX) - 3月3日13時19分更新

***
 ふむ、「卒業生がゲイをテーマにした映画で苦悩する女性を演じたのは非常に不快」なわけなんですか?

 つまりゲイをテーマにした映画で、「そんなふうに苦悩してはいけません。それは世間では「ホモフォビア」といわれます。恐怖症という病気なのです」ってことなのかしら? でそれが「当校」の価値観とは異なる、というのでしょうか?

 ええ、わかってますよ。もちろんそうじゃない。はいはい。
 そう、つまり、いまになってもこうなんですから、それだけコントラヴァーシャルな、ってことですね。なんだかんだいっても、「ゲイだなんだというのはあまり問題では」まだ、やはり、あるわけです。だからこの映画が人口に膾炙するわけで。

 しかし時代の変わり目というのでしょうか、ブッシュ政権下での9.11やその後のイラク戦争など、このところずっと政治的に息苦しかった風潮を打破しようとする意志が、今年のオスカー候補の面々には感じられます。テロ(ミュンヘン)や人種軋轢(クラッシュ)、政治による言論弾圧(グッドナイト&グッドラック)や同性愛(ブロークバック、カポーティ)──政治的議論の噴出する話題を映画が再び語りはじめました。時代のこの潮目を、「ブロークバック・マウンテン」を観てぜひ日本でも感じ取ってください。また、その感想はぜひこの「コメント」のところにもどうぞお書き込みください。わたしもみなさんの意見が聴きたいです。