森喜朗のフットボール
国連AIDS総会に出席した森嘉朗が、「私はラグビーフットボールが好きです。次回にはAIDSにトライできるように頑張りましょう」とにやけながらスピーチしました。外務官僚の用意した原稿の丸呑み、棒読みです。この作文を書いた官僚の、ass-kissingがにおうような演説でした。そもそも、こんなところで比喩というよりもシャレに近い言い回しを用いる神経とはなんなのでしょうか。
エイズ対策は一にも二にも教育です。日本では90年代後半、公教育でAIDS教育を性教育と絡めて行ってきた歴史もあります。それが、「行き過ぎた性/ジェンダー教育反対キャンペーン」という反動に遭ってほとんど行われなくなっています。例の日の丸君が代強制問題や多数決も採用できない職員会議問題、官憲をも動員した懲罰主義などとも通底して、教育現場は竦み上がり硬直しきり、疲弊し果てているようにも映ります。
日本ではいま、5人に1人が65歳以上の高齢者だそうです。少子化と若者の減少。その若者たちがHIVにさらされています。それは労働力の減少や社会基盤の脆弱を憂う話ではありません。HIVに感染し、AIDSを発症しても、彼ら/彼女らを支え励ます人がいないと危惧する話です。HIV感染差別の無知は、HIV感染そのものの無知と同じです。つまり、差別者と感染者が同じ無知でつながっているような社会です。これは、不幸が堂々巡りする社会です。暗愚の迷宮です。
自民党政府と官僚の怠慢と無能、自治体の無知と事なかれ主義、そして勝共連合のカラス頭とが、この不幸を増殖させています。「性的少数者の問題には関心もないしその必要もない」とか「性的放埒を嗜好するゲイのライフスタイルを喧伝させるな」というそういう目先のフォビアにブロックされて、その先に何が待っているのかを考えられない。社会を滅ぼすのはゲイたちのライフスタイルではありません。社会を滅ぼすのは憎悪に駆られたアドレナリンです。それは視野狭窄をもたらします。
とにかく、学校でAIDSを、AIDSの背景を、AIDSから学んだ人間の知恵を、子供たちに教えることを一刻も早く再開しなければなりません。日本では、先日もフジテレビがアフリカの貧困地帯のAIDSを取り上げて女性アナウンサーがルポみたいなことをやっていました。その努力は認めます。たとえ彼女がHIVのことをウイルスではなく病気そのもののように話す間違いを自覚していないとしても、アフリカのエイズ問題で浮き彫りになる世界の矛盾はぐったりするほど重大なことです。
けれど、それをアリバイにしないでほしい。アフリカのことをやっていればエイズ問題をカバーしたつもりにならないでもらいたいのです。日本もいま、いや、日本はいまもまだ、HIVの蔓延に無防備のままなのです。その日本のHIV/AIDSを、日本のTV局は、アフリカのいたいけな子供たちの感染を語ると同じように思いやりをもって語ってくれているのだろうか。遠い国の子供たちを同情を込めてこぞって取り上げるその裏側に、間近な性感染者の若者たち大人たちへの、それは自業自得だという、すでに一度10年以上前に破綻したはずの、因果応報論がぶすぶすと発酵してはいないか。
ニュースは自分に近い場所で起こったものほどそのひとにとっては大きな問題のはずです。にもかかわらず、AIDS問題では遠くのニュースの方が大きく頻繁に取り上げられる。おまけに日本政府は、今回の国連AIDS総会用の日本の取り組みのレビューに、4ページの英語のファイルしか用意しませんでした。日本国内向けには説明しなくてよいと考えているようです。それは日本という社会の、「品格」も「けじめ」もむなしい、とても倒錯的な非情を象徴しています。
ちなみに、前回も国連AIDS総会に日本代表としてやってきた森喜朗は、2000年1月、福井県の講演で「選挙運動で行くと農家の皆さんが家の中に入っちゃうんです。なんかエイズが来たように思われて…」としゃあしゃあといいのけた人物です。そのほかにもえひめ丸沈没事故の際のゴルフ続行問題、神の国発言、大阪たんつぼ発言と、史上最も頭の悪い総理として名を為した人。いまもポスト小泉のキングメーカーたらんといろいろとうるさい発言を続けていますが、あのデカい図体、ラグビーフットボールじゃなくとも、ほんと、森喜朗は、邪魔だ、どけ、と一喝したい男です。「トライ」されるべきは本人でしょう。