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この文章への不快感

連鎖すら生んでいるかのような少年少女のいじめ自殺に、「文部科学大臣からのお願い」なる文章が発表されたという。

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これはだれが書いたのだろう。役人か、それとも大臣そのひとか。
なんだか、空虚な、文字の無駄遣いのような文章だ。いや、それ以上に、ここに書いてあるような安っぽいことは、きっと数多の教室で家庭で、ろくでもない教師たちだって親たちだってだれだってすぐ言えるような常套句だ。そうしてそれでもいじめは解決されていないのだとすれば、一国の大臣が、この程度の言葉を発表してはダメなのである。曲がりなりにも大臣なのだ。総理大臣が北朝鮮に行くときは外交上の“最終兵器”として出向くのである。文部大臣が言葉を発するときは、それ以上の言葉はもうないのである。

なのに文部科学を司る“最終兵器”が同じことを言っていると知って、いじめられる側もいじめる側も、しょせんオトナのいうことなんてそんな程度だと思ってしまうことが私はいちばんいやだ。いや、そんな権威を信じているわけではない。子供に、世界の果てがそんな目に見えるほどのところにあると思わせることの罪を言っているのである。

このひとは何を言っているのか。
こんなブルシットをしたためるヒマがあるなら、いじめをやっている連中に、オトナの怒りを見せてやることこそが必要なのだ。
なのに、このひとは「怒る」代わりに「脅し」ているのである。おそらく「脅し」とも気づかないまま。
「君たちもいじめられるたちばになることもあるんだよ」とは何事だろう。

いじめを許さない、たとえいじめている側に向けてだって、いじめることを許してはいけない。なのに、「いじめられるよ、だからいじめるな」では、矛盾するだろう。この論理のネヅミ講の最後には、必ずいじめるやつの存在が残るのだ。そりゃそうかもしれない。しかしここはそんな存在をすらも許さないという態度を見せつけてやらなくてはならないのに。

だって、子供たちは、いつか自分も「いじめられるたちばになる」かもしれないことを恐れていじめつづけているのである。いじめる側に固執しているのである。「君たちもいじめられるたちばになることもあるんだよ」とはまさに、だからそうならないようにいじめつづけていよう、という呼びかけになってしまうのだ。なんと姑息な。

すでにメディアでも取材され報道されているそんな簡単な構造を、どうしてここで見逃しているのか。それは知的怠慢以外の何ものでもない。

冒頭の、疑似美辞的双子構造の二文、「いじめるのは、はずかしいこと」「ひきょうなこと」──これはおそらくあの「国家の品格」の藤原正彦の空疎な受け売りだ。
そうして子供たちは、それがどうしてはずかしいことなのか、ひきょうなことなのか、わからないままだからいじめを続けるのである。

いじめるのは、はずかしいことなんかじゃない。いじめるのは、「恥」そのものなのだ。それは世間様に対して「はずかしい」のではない。自分にとっての「恥」なのである。

「恥を知れ」と一喝してやれよ。
一国の文部大臣が、「いじめる側のままのきみをわたしはぜったいに赦さない」というほどに怒っているところを見せてやれよ。

「後になって」「ばかだったなあと思うより」というような簡単な反省ではないはずだ。
ひとが死ぬのである。それは「バカだったなあ」と思うどころの話ではないだろう。それは犯罪なのだ。「殺人なのだ」となぜ明確に指弾してやらないのだ。子供たちに「殺人者」という言葉を与えよ。それは罪を知らしめることなのだ。

この「お願い」は、いじめる子供たちにバカにされるだけで絶対に彼らの心に届かないだろう。

続いて後段である。
今度はいじめられる側への「お願い」だ。
これも、こんな言葉は聞き飽きている情けないほどに貧しいテキストだ。しかも、いじめる側への「お願い」と同じ紙に印刷するなよ。1つの檻の中に入れられた肉食獣と草食獣の姿を連想してしまう。礼儀にももとる。併記の扱いを受ける、傷ついている子供たちを可哀想だとは思わないのか。無神経だなあ。これこそ、「恥ずかしいこと」なのである。気づけよ、そのくらい。

そうしてその無神経さは全文を貫いてもいるのだ。
「話せば楽になるからね」という安請け合い。
それは「死ねば楽になるからね」というテキストとどれほどに説得の質の違いを持っているのか。

「きっとみんなが助けてくれる」
助けてなんかくれねえよ。バカ言っちゃいけない。おい、大臣、だれが助けてくれるんだい?
「きっと」ってなんだ? 命はそんな「きっと」に賭けてもよいものなのか?

いじめられている子が、どうしてそれを親にもいえないのか。それは、それこそ「はずかしい」からである。自分がいじめられるような、そんな情けない子供であるということを、親に知られることすらもが恥ずかしいのだ。なぜなら、親にまでそう知られたら、自分がほんとうにそんな情けないやつであるように自分でも思えてしまうのがいやだからである。そして親にまで恥ずかしい思いをさせてはいけないと思うからなのである。助けを請うのは情けないやつだからだ、と自分でも思えてしまっているのだ。

恥ずかしいことかもしれないけれど、「恥」ではない、と教えてやれよ。「恥」がどちらに属する言葉なのか、知らしめてやれよ。それがオトナの務めだろう。

ほんとうにいじめられている子たちに届くメッセージを発表したいなら、予算を割いて谷川俊太郎ら世の詩人たちに詩を書いてもらえばよいのである。そうしてそれを文科省の采配で学校の授業で緊急に取り上げさせればよいのである。詩人たちは社会の財産なのだ。有効利用すればよいのだ。役人の作文など、恥じ入ってしまえ。

こんな駄文で本気で何かが変わると思っているのなら、それこそ笑止。
教育基本法の改正どころの話ではなく、日本の危機そのものの露見。

第二の、以下の、親や先生らへの「お願い」文に至っては、アリバイ作り以外の何ものでもない。「……したいものです」という語尾一つとっても、なんなの、この他人事っぽい物言いは。
この内閣の目指す「美しい国」というのは、かくもかように情けない国なのである。ってか、ほんと、情けない政治家しか目立たん国だわなあ。
腹立ってきた。


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