バラバラ切断殺人と女性蔑視
正月からろくでもない事件です。NYにいると、日本のおそらくは狂騒的だろうメディア・スクラムみたいなこういう猟奇事件めいたものの、その猟奇さに合わせたみたいな下司な報道に曝されなくて済むのがいい。
片や渋谷区幡ヶ谷の歯科医の娘さんとそのお兄ちゃん。片や同じく渋谷区富ヶ谷のモルガン・スタンリーの高給取りとその奥さんです。
なんだかんだいってわたしもオンラインのニュースサイトだけですけどけっこう読んでしまっていて、まあ、報道の下品さに辟易しながらもその同じ土俵に上がってしまっているのですが、その字面だけで判断すると、この2つはとてもよく似ています。ただし、これは「遺体のバラバラ切断」というのはあまり重要な要素じゃないのかもしれません。それはこれまでの報道を総合すればきっと始末に困ったからであって、べつに“猟奇的”な意味合いからではないでしょう。幡ヶ谷のお兄ちゃんは妹の乳房や性器部分を切り取っていたというけれど、これは性的なものなのか捜査の攪乱のためか、今の時点ではよくわからないし、いまのところわたしにはあまり興味がない。どっちにしてもそれだけであるならば想像力の範囲ではありますし。
似ているのはバラバラにしたとか短絡的だとかそういうことだけではありません。
似ているのは、(これはあくまでのわたしの読んだ報道の範囲内だけからの判断ですけれど)この2つの事件に臭う、同じような女性嫌悪(ミソジニー)の要素です。女性嫌悪というのが強すぎるなら、女性蔑視と言ってもよい。
武藤亜澄さんは、お兄ちゃんの勇貴くんから「言葉遣いがなっていない」とか「態度が悪い」とか「恩知らずでわがまま」と非難されていて、それが殺人の背景の一つのようです。非難は勇貴くんだけではなく、どうもそのうえの長兄からもお母さんからも来ていたようだ。こうして根掘り葉掘り情報を流布されてしまうご遺族には同情を禁じませんが、私が書くのはご家族への非難じゃないので赦していただきたい。
「妹」というのは微妙なものです。女であり、さらに年下である。年上の男にとっては愛護の対象である、とされるこの位置から、年上の男に向けて「三浪のくせに」という言葉が発せられたら、愛護の対象は、愛護の対象である分だけ逆のベクトルをまとう攻撃の対象に変わるでしょう。亜澄さんは歯科医の一家にあってひとり演劇に興味があって別の道を歩もうとしていて、それも家族内の波風のもとだったのかもしれません。あるいは、末っ子で女だった彼女は、歯学部ー歯科医というエスタブリッシュからひとり離れることのできた「女」で「年若」の“特権”をあえて使ったのかもしれない。
で、ふと思うのです。彼女がもし女でなかったら、つまり、弟だったなら、勇貴くんが抱いていた殺意は別の種類のものだったんじゃないだろうかというふうなことです。愛護の裏返しのような敢えて駆られての殺意ではなくて、変な言い方ですがもっと対等な殺意というか、いやあるいは兄貴のほうも演劇なんていうろくでもない道に進もうとしている弟を見て、自分も三浪する以外の別の道があるのかもしれないななんていう既成コースの脱構築が促されるようなそんな関係すら想像可能な、もっと風通しのよい景色があったのではないかと、思ったりもする。
亜澄さんも、女であることであえて突っ張って頑張らねばならないような状況にいたのではないか? 勇貴くんも妹にバカにされたことで弟にバカにされる以上の辱めを感じたのではないか?
そこにある女性へのバイアス。
これを、じつはモルガンスタンリーのなんとかさんにも感じます。もちろん、今日時点でのほとんど第一報的な報道の範囲内の情報からの判断ですからそれはわたしの想像を出ないし、殺された方を貶める意図もここにはありません。
さて32歳の妻は、「口論も絶えず」「暴力も振るわれ」「自分を否定している」ように感じられた30歳の夫を寝ているあいだにワインの瓶で殴りつけて殺害します。加害者の一方的な供述をかりに真とするなら、ここに見えてくるのはとても強権的で封建的な、女を人間とも思っていない30歳の男性若者像です。さらにここにも年齢差が、とても日本的に、関係してくるかもしれません。こちらの場合は、愛護の対象ではなくなった女性です。そのときにこの「年上」という要素がどのように「愛護の対象ではない」という部分を補強するのか、その残酷な例は私たちの周囲におそらく多々見られることでしょう。
極論をいえば、どうしてこうも男は女が嫌いなのか、ということです。
裏を返せば、男は自分のセックスの対象となる(可能性のある)女しか好きではないのか?
ふたつの事件で被害者と加害者はそれぞれ男女が逆転していますが、わたしには同じ女嫌いという要素が下地になった殺しだと思えてなりません。いや、モルガンスタリーの男性はすごくいい人で、わたしが基にしているのは加害者容疑者の妻の一方的な虚構の供述なのかもしれませんが。
両事件はまだまだどんな展開になるのかわかりません。
が、そういう視点でニュースショーやワイドショーを眺めてみることも必要かもしれません。日本社会の持つそういう種類のミソジニーは、もちろんホモソシアリティの産物であり、それがゲイと、それ以上にレズビアンたちを抑圧しているのです。その種のメカニズムに、心ある人は自覚的であってほしいと願います。