« February 2007 | Main | April 2007 »

March 30, 2007

オーディナリーという言葉

NHKで「夢見るタマゴ」って番組、ニューヨークでもTV Japanで放送されていて、例のあのダウンタウンの浜田が司会で、きのうは男性美容員っていう、デパートの化粧品売り場で客たちの化粧品相談やメーキャップ相談や実地をやってる男の子が出てきました。で、思ってたとおりの展開になるわけですね。つまり、浜田が「そっちのほうに間違えられへん? その世界、メケメケが多いやろ」ってなふうにいじって、あ〜あ、と思ってたら、その美容員も控えめながら「ぼく、あの、ノーマルです」って返事して、予定調和というか何というか sigh...。(この辺のノーマルのニュアンスへの引っかかりは、すでに10年近く前に書いたマジためゲイ講座の第一回目をご参考に)

まあ、きっと「ノーマル」という言葉は日本では外来語ボキャブラリーの偏狭さから「ストレート」という意味で使ってるんでしょうが、それでスタジオはまたパブロフの犬に成り果てたごとくお嗤いで反応して、いったいこの人たちっていつまでこういうことを続けてれば気づくんだろうとすでにパタン化した暗澹たる思いを横目に、そういやNHKだからってんで浜田もオカマを「メケメケ」と言い換えてるのか、その辺の放送コードはすでに確立してるのかねとか思うものの、言い換えててもけっきょくは同じだけどね、とか思いつつ、はたと膝を打ったのでした。

その膝を打ったことはあとで述べますので、まずは次のクリップを見てくださいな。
これは「2人の父親 Twee Vaders」ってタイトルの歌です。
どうもオランダのテレビ番組らしく、毎回、このKinderen voor Kinderen(子供たちのための子供たち?)という子供たちのグループが、いろんなメッセージソングを作って歌う番組らしい。


さて、英語の字幕によれば、歌の主人公の男の子はバスとディードリックという2人の男性カップルに1歳のときに養子にもらわれたと歌います。で、バスは新聞社で働く人で、ディードリックは研究所で働いてる人です。
歌詞は次のように続きます。

「バスはぼくを学校に送ってくれるし、ディードリックはいっしょにバイオリンを弾いてくれる。3人で家のTVでソープオペラを見たりもする。ぼくには2人の父さんがいる。2人の本物の父さんたち。2人ともクールだし、ときどきは厳しいけど、でもすごくうまくいってる。ぼくには2人の父さんがいる。2人の本物の父さんたち。で、必要ならば、2人はぼくの母さんにもなってくれる」

2番以降は以下のごとし。
**
ぼくがベッドに入るとき、
ディードリックが宿題をチェックしてくれる。
バスは食事の皿を洗ったり、洗濯をしてたり。
病気になって熱があるときなんか
ディードリックとバス以上に
ぼくのことを心配してくれる人なんかだれもいない。
ぼくには2人の父さんがいる。
2人の本物の父さんたち。
2人ともクールだし、ときどきは厳しいけど、
でもすごくうまくいってる。
ぼくには2人の父さんがいる。
2人の本物の父さんたち。
で、必要ならば、2人はぼくの母さんにもなってくれる。

ときどき学校でいじめられもする。
もちろんそんなことはイヤだけど。
おまえの親、あいつらホモだぞって。
それをヘンだって言うんだ。
そんなときはぼくは肩をちょっとすくめて
だから何だい? おれ、それでも父さんたちの息子さ。
そういうのはよくあることじゃないけど
ぼくにとってはぜんぜんオッケーさ。
ぼくには2人の父さんがいる。
2人の本物の父さんたち。
2人ともクールだし、ときどきは厳しいけど、
でもすごくうまくいってる。
ぼくには2人の父さんがいる。
2人の本物の父さんたち。
で、必要ならば、2人はぼくの母さんにもなってくれる。
**

これを見たあとでも浜田は「メケメケ」といって嗤えるんだろうか。(反語形)
ただたんに浜田は、このような情報を持っていなかったためにこういうことをお嗤いにしてしまえるのでしょう。(斟酌癖)
それを思うとそうした愚劣さを気づかずにさらしている彼が哀れでもありますが。(ちょっと本音)

さて、この歌詞の3番に、学校でおそらく浜田のようなガキどもから「あいつらホモだろ」といじられた主人公の少年が、「It's not ordinary」と述懐する部分があります。「But for me, it's quite ok」(でもぼくにとっちゃそんなのぜんぜんオッケーさ)と。

このオーディナリー、「それって普通じゃないけれど」と訳すとうまく伝えきれないものがあります。「普通」という言葉だと、多数決に基づく「正常さ、標準さ、規範的さ=ノーマル」という意味にもとられてしまうので。
で、ここはordinaryですので、日本語では「よくあること」と訳したほうがニュアンスが近い。
で、「はたと膝を打った」のは何かというと、父親が2人いることは「It's not ordinary」と歌うのを聞いてて、ああ、これ、使えるかも、と、さきほどの「ノーマル」に対比して思ったということなのです。

これから、ヘテロセクシュアルの人は、自分のことを「ノーマル」の代わりに「オーディナリー」です、って言えばいいんじゃないのかしら。(意地悪、入ってます)

で、ゲイはオーディナリーじゃないのね。
何か?

エクストローディナリー Extraordinary に決まってるんじゃないですか! (笑)

(付記)
じつは、この番組でプチッとキたのはほんとは上記の部分じゃなくて、「子供が言うことを聞かないときに浜田さんはどうしますか」という出演者からの問いに、浜田が「ぶん殴るよ、男だから」とかいうことを平気で口にして、それに合わせてスタジオのゲストの中尾彬だの加藤晴彦なのが「そうだそうだ」「すばらしい」と平気で賛成してたことでした。

いま日本のあちこちで頻発している児童虐待で死者まで出してることを、この人たち、どう思ってるのかなあ。そう言えば「オレの言ってる意味はぜんぜん違う」って返ってくるのは予測できるけれど、それとこれとが根でつながっていることには気づいていない。
ニュース見てないのかもしれないけど、ま、こういう輩はニュース見てても同じか、プライベートで言うことと、テレビでパブリックに言えることとの、場合分けがない。それは子供のすることです。まあ、「子供」とはいえ、上記ビデオで紹介した子供たちはそういうことはしないでしょうけどね。
だとすれば浜田以下のこの人たちは、きーきー騒いではしゃぐだけの猿と同じじゃねえか。
恥ずかしいなあ。

そしてもう1つ、こういうのを平気でオンエアーするのは、これが「将来の夢をひたむきに追いかける若者たちを紹介するバラエティー」と紹介しているように、なんでもありのジャンルの番組だというふうに思ってるからなのでしょうかね、NHK。
情けないことです。

追記)

しっかし、いまやってたんだけど、子供向けロボットドラマ「ダッシュマン」ってのでさ、悪者役の紫色の口紅塗ってる宇宙人みたいなのが、これまたオカマ言葉でしゃべってるのって、いったい何なのでしょう。

なんだかこれだけ続くとウンザリというか、ゲンナリというか。
いやがらせかよ、おい。
まいったなあ。

March 20, 2007

ロミオ、ロミオ

swan_lake_bourne.jpg

男たちによる「白鳥の湖」(トロカデロじゃないほう。アダム・クーパーのです=写真上)で私たちにまったく違うバレエの地平を見せてくれたマシュー・ボーンが、今度はシェイクスピアのロミオとジュリエットを男ふたりに踊らせる企画をイギリスのサンデイ・タイムズのインタビューで明かしました。
その名も「ロミオ、ロミオ(Romeo, Romeo)」。

「スワン」はニューヨーク版(ウィル・ケンプのです)しか見てないけどすごかったです。バレエ好きのとーちゃんといっしょに観に行ったんですけどね、そうそう、気づいたのは、ダンサーたちがね、クラシック出身者とダンス出身者といて、踊り方が微妙に違っていたのが興味深かった。でも主役級はやっぱりクラシックね。姿勢が違う。

で、この「ロミオ、ロミオ」、マシュー・ボーンは「伝統的な男女のパートナーシップの踊りのダイナミズムに対抗するわけだから、大変なチャレンジになる」と覚悟してるようですね。彼は次のように言っています。

"It’s more to do with dancing than with sexuality.
「これは、セクシュアリティというより踊りに関係するチャレンジなんだよね。
A male dancer, whether he’s gay or straight, fits into a relationship with a female partner very happily.
ゲイかストレートかに関係なく男のダンサーってのは女性のパートナーのときがちゃんとハッピーにぴったりしているわけだ。
Getting away from that, making a convincing love duet, a romantic, sexual duet, for two men that is comfortable to do and comfortable to watch — I don’t know if you can.
それを別にしてもだれにも信じられる愛のデュエット、ロマンティックでセクシュアルなデュエット、それを2人の男の間で作ること、それも踊っていて心地よく、見ていても心地よいものを作るのは大変だ──わかんないよ、できるかどうか。
I’ve never seen it done...I have a way of approaching it so as to make it — I hate to say ‘acceptable’, it’s a terrible thing to say — but so that people don’t run screaming from the theatre.
だって、そんなのやったの見たことないし……ただぼくはそれに近づく方法は知っていて、だからそれを──「受け入れられるように」という言い方は嫌いだけど、ひどい言い方だろ──でもまあ、劇場からみんな叫び上げながら逃げてくなんてことのないようには作れる。
I let them find their own way with it, take it as far as they want in their own heads."
それぞれがその人なりにそれと立ち会う方法を見つけるような、それを頭の中でそれぞれの思いどおりに膨らませることができるような、そんなふうにするよ」

今年の夏に何人か少人数でシーンのテストをしたり即興的に組み立てを試したりして、実際のリハーサル開始は来年早々を予定しているそうです。すごく楽しみです。

March 19, 2007

中国人を犯人にしない

いまに始まったことではないんだけどさ、ということではなく、いまもまだこんな体たらく、という感じですかね。TVジャパンの日曜番組で水谷豊の「相棒IV」ってのをやってて、今日のは「殺人生中継」なるタイトルでテレビ局の女子アナ殺人事件だったんですが、犯人はその女子アナを恋い慕って局に入った新人お天気キャスターのアナウンサー。「こんなに愛しているのに報われないなら、いっそこの手であなたを殺す」っていうストーカーまがいの脅迫状ってことは、つまりレズビアンのねじれた愛憎の結末、ってわけですか。
1_1.jpg1_6.jpg

女子アナ、レズビアン、愛憎、殺人、ともう、このとてもわかりやすい妄想世界はまさに世の“普通”の男性たちの典型ものなのかしら。ところがドラマのセリフではレズビアンも同性愛も単語としては出てこなくて、水谷豊の「相棒」である寺脇なんちゃらっていう刑事がもっともらしく愛ってもんを諭す場面まであってですね、なんだかその「倒錯性」はスルーなんです。べつに問題にもならない。ふうん、それって、人権遠慮? でもしっかりとレズビアンの関係性には殺人というスティグマをベタ塗りしてしまってるのにさ。

ま、それだけだったら私も見流してたんだけど、そのドラマが終わったら今度は続いて「アウトリミット」っていう、これまたへんてこなドラマ。元はWOWOWのドラマだったんですか? 岸谷五朗が主演のめちゃくちゃな刑事ドラマ。ここでもさ、麻薬密売のヤクザなんだかギャングなんだか、へんてこなスキンヘッド+タトゥーの兄貴と茶髪のチンピラが突然のホモ関係。よくわからんねえ。なんなんですかね。
outlimit.jpg

なんたっけ、あの芥川賞、蛇にタトゥー、か。ちがった。蛇にピアスだ。あれでも殺人犯が限りなくサド趣味の男性同性愛者に設定されていて、そのときも「おいおい」って書いたんですが、またこれですもんね。ちょっとメモとして書いておいてもよいかな、と。

人権メタボリックともいちぶでいわれる日本には、すでに謂れのないスティグマを負われている社会弱者に、さらに犯罪者という別のスティグマを塗り付ける惰性と安易が無自覚に繰り返されています。踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂、死者に鞭、ですよ。そうでなくてもパンチドランクでヘロヘロしてる同性愛という関係性を、またさらにそんなにいじめて、どうしたいのよ? 同性愛という言葉の持つ「変態性」「倒錯性」の雰囲気という先入観に寄り掛かったストーリーって、いい加減、拙いって気づきましょうよ。当のプロデューサーたちに「いじめってどう思います?」と訊けばしたり顔で「赦せません」って言うだろうくせに、これ、いじめですよ。どう? そうじゃない?

最近は「うたう警官」や「警察庁から来た男」などで注目の作家、佐々木譲さんと2年前にそんなことを話したときに、「そういえば、アメリカの推理小説ではかつて、中国人は犯人にしない、という暗黙のルールがあったんですよ」って教えてくれました。50年代、60年代かな、人種マイノリティだった中国移民への偏見と差別が蔓延してた時代、プロの作家たるもの、そういう偏見に安易にのっかって彼らを真犯人に設定するのは沽券に関わったんでしょうね。

どうなのよ、日本のプロデューサーたち。きみたちの沽券はどこよ?

March 17, 2007

虹色のタイムズスクエア

ピーター・ペース統合参謀本部長の「同性愛は不道徳」発言はその後も大きな反発を産んでいて、15日昼にはマンハッタン・タイムズスクエアで250人のゲイたちが集まって抗議のピケが行われました。これ、13日の夜にヴィレッジのゲイ&レズビアン・コミュニティ・センターで緊急抗議集会が開かれて、その場であのラリー・クレイマーが「私たちは自分たちが憎まれている存在だということを思い起こすべきだ」として、往年の「アクト・アップ(ACT UP=Aids Coalition to Unleash Power=私たちの力を解き放つためのエイズ連合)」的な実力行使の部隊を組織すべきだと訴えた、その呼びかけに応えたものだったんですね。ACT UPはそのクレイマーが1987年に組織したエイズ活動組織だから、まあ、懐かしいこと。
6.jpg
クレイマーさん。

で、集まったのは当のクレイマーの他、ゲイだってバレて関連するスキャンダルでお隣ニュージャージー州の知事を辞めちゃったジェイムズ・マグリービーとか、マイケル・シニョリーレ、さらにはレインボウフラッグの発案デザイナーのギルバート・ベイカーなんかの往年のバリバリの活動家たちや若い連中も。いやはや。

3.jpg
マグリービーさん。

ACTUPMarch15+023.jpg
レインボウフラッグの発明者ベイカーさん。

しかし、年寄りたちが出てくると、ってか40代、50代、60代、70代という年齢層もそろっているこういう政治活動って、かっこいいなあ。若いもんも大切だが、やっぱり大人もいなくちゃね。それが自然というもんだもの。

9.jpg

で、なんでタイムズスクエアかというと、あそこのブロードウェイと7番街がクロスする中洲の三角部分に、米軍のリクルートセンターがあるわけ。ここに抗議のターゲットを向けたんだけど、同センターはだれもいなくて、それをレインボウフラッグで取り囲む、ということに。
ACTUPMarch15+043.jpg

10.jpg

こういうの、久しぶりですね。そうだな、マンハッタンで言うと、あのマシュー・シェパードの追悼集会が事前の予定なく五番街の大規模デモに変わった1999年以来かもしれません。

その模様が、YouTubeにアップされています。
しかしアメリカ人はこういう行動がうまいよね。
「Fire Pace, Hire Gays!(ペイスをクビにして、ゲイたちを軍に雇え)」なんてシュプレヒコール、ちゃんと韻を踏んでるんだもの。「Pace is immoral, Gays are fabulous」ってのも、不道徳はペースの方、ゲイはファビュラスなの!って意味ね。インピーチ・ブッシュというのもあります。これはブッシュを弾劾しろ、という意味。

日本も統一地方選と参院選の年、世界の動きを感じて、LGBTの政治の季節をつくりましょね。
いま発売中の週刊SPA! に、LGBTの政治家候補の特集が載ってます。参院選比例代表区に民主党から出る尾辻かな子(比例区投票では政党名と候補の個人名のどっちも書けるけど、彼女を当選させるには個人名の「尾辻かな子」って書いてね。尾辻だけじゃダメです。自民党にもう1人尾辻ってのがいるから)や中野区議選に出る石坂わたる(中野区の人たち、よろしく!)などが登場しています。読んでみてくださいな。

その1


その2

あ、そうそう、ゲイは不道徳かという質問に明確に答えていなかったヒラリーは、同じ15日、ちゃんと答えました。

"Well I've heard from a number of my friends and I've certainly clarified with them any misunderstanding that anyone had, because I disagree with General Pace completely. I do not think homosexuality is immoral. But the point I was trying to make is that this policy of Don't Ask, Don't Tell is not working. I have been against it for many years because I think it does a grave injustice to patriotic Americans who want to serve their country. And so I have called for its repeal and I'd like to follow the lead of our allies like, Great Britain and Israel and let people who wish to serve their country be able to join and do so. And then let the uniform code of military justice determine if conduct is inappropriate or unbecoming. That's fine. That's what we do with everybody. But let's not be eliminating people because of who they are or who they love."

みんな誤解してるようだけど、あたしは「ゲイは不道徳」っていうペースの意見には同意してなんかいないわ、ってなことです。「あたしの発言のポイントは、でも、Don't ask, Don't tell のほう。こんなの早くやめちゃえって前から言ってるでしょ。イギリスでもイスラエルでも従軍できるのよ。とにかく、その人がだれであるか、だれを愛してるかってことで従軍させないなんてことのないようにしましょ、ってことよ」って内容です。

March 16, 2007

だから何だっていうの?──従軍慰安婦問題とは何か

軍による慰安婦強制連行示す資料なし…答弁書閣議決定
(読売新聞 - 03月17日 00:31)

 政府は16日の閣議で、いわゆる従軍慰安婦問題に関する1993年の河野洋平官房長官談話について、「(談話発表までに)政府が発見した資料の中には、軍や官憲による、いわゆる強制連行を直接示すような記述は見あたらなかった」とする答弁書を決定した。

 安倍首相は「狭義の意味での強制性を裏づける資料はなかった」としているが、その根拠となる、従来の政府の立場を改めて示した形だ。社民党の辻元清美衆院議員の質問主意書に答えた。

**

まったく、日本政府のこの対応のバカさ加減には呆れます。
従軍慰安婦問題とは何なのか、それをまったくわかっていないでこうして傷口を広げるようなことばかりする。これでは国益を損なう一方です。

いままた米国で大きく取り上げられているこの従軍慰安婦問題にはさまざまな要素が絡み合っています。

1つは日本の自民党があまり得意じゃない米民主党の台頭という米国内の事情。もう1つは日本国内の保守派層への説明と国外向けへの説明とで微妙にニュアンスを違える安倍政権の事情。さらにそこに、現在進行中の北朝鮮の核開発に関する6カ国協議の事情が影を投げかけているわけです。

米国の火に油を注いだのが今月初めの安倍の「(慰安婦徴用には)強制性を裏付ける証拠がなかったのは事実」発言でした。きょうの閣議決定答弁書の内容もこの延長線上です。

論理の上で「非在の証明」というのは最も困難なもので、つまり「強制性を裏付ける証拠がなかった」からといってすべてに「強制性がなかった」とは一概には言えない。それがわかっていながら、なのにそう言ってしまうのはなぜなのか? 証拠がなかった、といって、だから何だと言いたいのでしょう?

私もこの従軍慰安婦制度は、安倍らが言うように、軍や政府が直接手を下して女性たちを強制連行したという事例はおそらくそう多くはなかったのだろうと思っています。彼女たちを集めたのは多くの場合、民間の事業者であることは分っていて、時にはウソを言ったりあるいは脅しや力ずくで引っ張ってきたこともあるでしょうが、しかしそうした事例が大半だと非難するのは状況的にみて「そこまでは言い切れまい」という気がしています。しかしそれが現在から見て免罪されるかというと、それは違う。あの時代はどこかのだれかが言ったようにまさに「女性は産む機械」あるいは「慰みもの」だと言って憚らない時代だったわけです。

こう考えてみましょう。「奴隷」が一般に存在していた時代にはその制度への罪悪感は薄かったでしょう。では、だからといって「必ずしも悪意を裏付ける証拠がない」として奴隷所有を“擁護”するかのような発言は可能かというとそれは違う。ましてや「奴隷制度で得をした黒人もいる」などと発言したら政治生命云々どころの話ではありません。あの時代のパラダイムでは、強制連行されようが奴隷で幸せだったのだろうが、そんなことは問題の本質ではないのです。

しかも、今回の中心の問題は慰安婦の強制「連行」ではなくて、慰安婦への「売春」の強制なんですよ。連行しようがしまいが、その行き着くところで待っている慰安という名のセックス供給制度が問題なのです。そのセックスを、「売春婦ってのは好き者だからな」という男性性の思い込みで誤解したままの男たちの論理で一義的な問題としない、その浅ましさを恥ずかしく思わないのか。

強制したのは個人ではない場合もあるかもしれません。しかし厳然と言える事実は、システムが、時代が、それらを強制・強要していたということなのです。なのに強制連行の具体的な証拠がないって、だからいったいおまえは何が言いたいんだよ?

つまりこの場合、反省は個々の事例に対してというよりは、時代と制度全体への反省なのです。そのあたりの反論と反省の次元の違いを、安倍及び「新しい教科書をつくる会」に連なる右派勢力はあえて混同させているのです。安倍内閣による今回の一連の河野談話修正の“釈明”は、この国内の右派勢力に向けてのご機嫌取りなんですね。

事実誤認に基づく言われのない非難にはきちんと反論すべきです。この場合は、日本はこれまで慰安婦問題で謝罪していないとか、すべて強制連行だった、とかいう誤りに対してです。しかしその反論が、これまでの反省や謝罪そのものを全否定しているように聞こえては逆効果です。ましてや6カ国協議で日米が乖離したほうが簡単になるという国際政治の力学が渦巻いているこの時期。それはあまりに稚拙に過ぎる対応というもんでしょう。

安倍は「(一部の報道で)本来の意図と異なる、正確さと冷静さを欠く形で発言内容が伝えられた」とし、「非生産的な論争を招く」からと反論を自粛する旨を明かしましたが、これも呆れます。こういうときこそ反論しなくては政治家の政治家たる理由がない。もっとも、国外の反応よりも急落中の支持率挽回のために本来の自分の支持層である右派勢力の歓心を買おうとしたという、国内「政治屋」の理由はあるでしょうが。安倍は元もと河野談話修正論者。それを首相になったら重要な外交問題になるとして封印していた。靖国参拝自粛と同じです。なのにこうして時おり持論が飛び出す。こうした首尾不一貫、内外施策のちぐはぐさがなんとも幼稚なのです。で結局、11日には「心の傷を負われ、大変な苦労をされた方々に心からおわび申し上げている」とあらためての謝罪表明。これでは何のために事実誤認だと反論したのか、元も子もないだろうに。それともこれにはなんらかの深い伏線があるんでしょうか。私にはわからない。

そもそも、この慰安婦問題が米議会で出てくるというのは昨年の中間選挙で民主党が勝ったときから予想されていたことです。この非難決議案はカリフォルニアのマイク・ホンダっていう民主党下院議員が昔っから取り上げていたもので、この人、日系3世なんですが、カリフォルニアでは日系よりもはるかに人口の多い中国系を票田としている議員です。で、この中国系支持者層の歓心と献金を買うために日本の戦争責任を問うことを政治姿勢にしている。

ところが自民党は、クリントン政権のときからそうだったんですが、米民主党とのパイプが細い。それでブッシュ政権になったときに舞い上がってさらに共和党一辺倒になった。小泉時代のツケですね。で、民主党の逆転でブッシュ共和党がネオコンを切ってどんどん方向転換をしているのにそれに対応できないでいる。北朝鮮での対話政策への転換もそうです。ここに来て拉致問題重視の日本だけが孤立するはめになっています。6カ国協議で、日本だけが別のことを主張しなくてはならない、それも安倍が政治的に台頭してきたその拉致問題を大切にしなくてはならないときにこうして自らの首を絞めるようなことを言って米国との距離を広げるようなことをするのか。右派勢力のほうが拉致家族よりも大切なのか(まあ、そうなんでしょう)。

この内閣はメチャクチャです。支離滅裂で論評にすら値しない。というか、論評できないのです。
安定多数の議会を背景に、究極のインサイダー取引をしていた日銀総裁を更迭せず、女性機械発言の厚労相を辞めさせず、人権メタボリック発言の文科相を問題なしとし、500万円なんとか還元水の農水相をかばう。「とんでもない」という一言は、どうしたって論評にまで発展しないのです。

March 15, 2007

「同性愛は不道徳」と発言するとどうなるか?

これは単純な言葉狩りの問題ではないのです。政治的に正しいとか正しくないとかとも違う。これはまさにじつに政治的な戦いの前線というか、戦陣のその最も切っ先の部分なのですね。権力闘争、政治闘争なのです。

発端はすでに日本でも報道されています。シカゴトリビューン紙という一流紙に12日、米軍制服組トップの統合参謀本部議長、ピーター・ペースのインタビューが掲載された。そこに次のような発言があったわけで。

peter_pace.jpg

"I believe homosexual acts between two individuals are immoral and that we should not condone immoral acts. I do not believe the United States is well served by a policy that says it is OK to be immoral in any way. As an individual, I would not want [acceptance of gay behavior] to be our policy, just like I would not want it to be our policy that if we were to find out that so-and-so was sleeping with somebody else's wife, that we would just look the other way, which we do not. We prosecute that kind of immoral behavior."
「私は、2個人間の同性愛行為は不道徳なものだと信じている。そうした不道徳な行為をわれわれは容認すべきではない。いかなる形でも、不道徳であってもよろしいのだというようなポリシーでこの国がうまく行くとは私は信じていない。一個人として、(ゲイ的行動の受容を)私たちのポリシーにしたいとは思わない。それはちょうど、だれそれがだれか他の人の奥さんと寝ているとわかりそうなときに、目を逸らしてわざと見ないようにするような、そういうことはしないし、そういうのをわれわれのポリシーにしたくないのと同じことだ。そういった種類の不道徳な行動は訴追するものだ」

なるほどね。
統合参謀本部長というのは、ほら、前国務長官だったパウェルさんが湾岸戦争時に就いていた職位。けっこうなもんでしょ?
で、予想されたとおり人権団体やリベラル派のみならず米上院軍事委員会の共和党議員までもが「同性愛を不道徳とする立場に反対する」と述べたり、ゲーツ国防長官までもが現行政策(Don't ask, Don't tell)を遂行する上で個人的な意見は意味を持たない、とペース議長を批判するということになった。で、13日には「自分の個人的な道徳観に踏み込むべきではなかった」との声明を発表するに至ったわけです。でも謝っちゃいませんよね。ゲイは不道徳というその信念が間違いだったとも言っていない。

これらはじつはいまも触れた、「Don't ask, Don't tell」をこれからも維持するかという政策論争が根本にあるのです。去年の中間選挙で民主党が勝利したときに、まずは軍隊でのそういう偽善的なポリシーが変更される動きがヒラリーらを中心に出てくるだろうとわたしもここに書きました。それが現実的なものになってきて、保守派の間から「軍隊でおおっぴらにゲイが横行するなんて信じられない」という声が出てきた。ペースの発言はそうした文脈で登場したものなのです。つまり、まさに政治的な鍔迫り合いなわけで。

ところが今日、ワシントンポストの寄稿欄で、共和党の元上院議員、アラン・シンプソンが次のような論考を展開して「Don't ask, Don't tell」なんていうバカげた規制は撤廃してしまえと訴えたのです。これもかっこいいから読んでみておくれでないか。

alan_simpson.jpg

"In World War II, a British mathematician named Alan Turing led the effort to crack the Nazis' communication code. He mastered the complex German enciphering machine, helping to save the world, and his work laid the basis for modern computer science. Does it matter that Turing was gay? This week, Gen. Peter Pace, chairman of the Joint Chiefs, said that homosexuality is "immoral" and that the ban on open service should therefore not be changed. Would Pace call Turing "immoral"?

Since 1993, I have had the rich satisfaction of knowing and working with many openly gay and lesbian Americans, and I have come to realize that "gay" is an artificial category when it comes to measuring a man or woman's on-the-job performance or commitment to shared goals. It says little about the person. Our differences and prejudices pale next to our historic challenge."

「第二次世界大戦時に、英国の数学者でアラン・チューリングという男(訳注=もちろんチューリングはすごく有名ですからこんな持って回った言い回しは不要なんですけど、シンプソンは敢えてこう強調したんですね)がナチの通信暗号を解読する努力の先頭に立っていた。彼は複雑なドイツの暗号変換機をマスターして、世界を救うのに貢献し、さらにはその仕事が現代コンピュータ科学の基礎を成したわけだ。このチューリングがゲイであることは、問題か? 今週、統合参謀本部議長のピーター・ペース将軍はホモセクシュアリティを“不道徳”だと言って、ゲイたちがオープンに軍に奉仕することを禁止する規則はだから変えるべきではないと言った。ペースはこのチューリングを“不道徳”と呼ぶのだろうか?」
「1993年からこのかた、私は多くのオープンリー・ゲイ/レズビアンのアメリカ人を知り、ともに働いてきたことに大いなる満足を感じている。そうして得た私の理解は、仕事の現場でのその男性または女性の仕事ぶりや共通した目標への貢献ぶりを評価するときに、“ゲイ”というのはわざと持ってこられたカテゴリーだってことだ。それはその人間のある部分をしか語っていない。私たちの相違点や先入観など、われわれの歴史的な挑戦の前では色褪せてしまう」

かっこいいこと言いますわね、アメリカの政治家ってのは。

まあ、じっさい、チューリングの時代ってのはたしかに多くの人びとがチューリングを「不道徳」と非難したのは確かなのです。

Alan_Turing.jpg
(合掌)

チューリングは1912年に生まれ、54年に死にます。享年42歳。
なぜ死んだのか? 同性愛関係が見つかり、悪名高い「gross indecency」罪で有罪判決を受け、ホルモン療法か刑務所行きかを命じられ、保護観察下でのホルモン療法を選択した1年後に青酸化合物を塗った林檎を食べて自殺したのです。

今週の国防総省の発表では、2006年度には612人が同性愛者として除隊されました。2001年の1227人に比べると半減しています。97年から01年までの5年間は年平均で1000人が除隊処分でした。その後の5年間ではこれが平均730人にまで落ちています。この減少はべつにゲイが少なくなったからではないでしょう。イラク戦争でゲイでもビアンでも必要だからと、多少のことは大目に見ているという偽善が働いているからなのです。

(追記)
ちなみに、「同性愛は不道徳」なのかどうか。
ヒラリー・クリントンは14日、この質問への直接な回答を回避して保守派層を刺激しない策をとっていると批判されています。しかし、それを言ったくらいで変わるのかなあ?

同性愛は不道徳なのか? ならば異性愛は道徳的なのか?
そう考えればわかることでしょう。
性指向は道徳とか倫理とか関係なしに、事実なのです。ヒラリーもそう答えればいいのにねえ。

March 07, 2007

ニューヨーク帰還

ほぼ1カ月の日本滞在からさきほどNYの自宅に戻りました。
今回は今年秋と来年に出す本のこと(LGBTとはぜんぜん関係ない本なんですが)と、ヘドウィグの公演と、それと4月の統一地方選に出る候補に関連して、いろいろと忙しく過ごしていました。

そんな中、ヘドウィグの歌詞に関して、「あるヘドヘッドな方」から私の訳詞の一部について次のような貴重なご指摘がありました。

ヘドウィグの訳詞の中、Midnight Radioの部分で一カ所、気になる部分がございました。
Here's to Pattiのパティは、パティ・ラベルではなく、パティ・スミスのことではないでしょうか?
なぜかというと、ジョン・キャメロン・ミッチェルは色々な取材に対して、パティ・スミスのことを語っておりますので。たとえば、この記事などです。
http://www.amazing-journey.com/htm/hedwig/h-vv-398.htm


いやはや、頭が下がります。
たしかにこれを読むと限りなく「パティ・スミス」ですね。
パティ・ラベルもものすごいゲイ・アイコンの歌手で、私はてっきりラベルのほうだと思い込んでいてパティ・スミスの名前は横切りもしませんでした。ごめんなさい。
さっそくブログにあげた訳詞を差し替えておきました(差し替えが反映しない人はキャッシュが残っているせいです。reloadしてみてください)。
ご指摘くださったNさん、ありがとうございました。ほんと、翻訳って全方位の情報が必要っす。

でね、甘えついでに次に続く「ノナ」と「ニコ」についてもご存じではないかとNさんにお訊きしたところ、

一方でノナとニコについては、まだジョン本人の言葉がみつからないので、何とも。推測では、Nona Hendryx?とか(とすると、パティ・ラベルとも近いですね)思いますし、Nicoはおそらくかなりの確率でVelvet UndergroundのNicoに違いないだろうな、とも思うのですが、断定するのはちょっと怖いです(特に、Nonaはほかに見当たらない、という程度の類推でしかありませんので)。

とのご回答。すばらしい。
これもみなさん、参考になさってください。

えっとー、それから、中野で「石坂わたると多様性のある中野を作る会」という、石坂さんの中野区議選への意欲を受けた学習会があってね、そこで「セクシュアリティと政治」というテーマで1時間ほど話をしましたが、それがakaboshiさんという(ビデオ)ブロガーの方の尽力でYouTubeにアップされています。「北丸」で検索すれば出てくるのかな?
ってか、以下のakaboshiさんのブログでもまとめて見られますね。

フツーに生きてるゲイの日常

興味のある方はお時間おあるときにでもどうぞ。

ニューヨークはただいま零下10度です。信じられない寒さ。ひー。

March 02, 2007

World Index 更新しました

先月発売のバディのコラムを掲載しました。

いまとなってはやや旧聞に属してしまいましたが、柳沢発言を取り上げています。
http://www.kitamaruyuji.com/worldindex/

March 01, 2007

オオバケしてきたヘドウィグ

昨夜は公演後にFACE近くの飲み屋さんで30人ほどで「繰り上げ」の「打ち上げ」でした。舞台の場合は最終日は片付けとか忙しいのでこういう繰り上げての打ち上げ会はよくあるそうです。

もう夜10時近くなってからの、あまり打ち上げ感のない(まだ5回もステージが残ってるんですしね)始まりでしたが、徐々に話も弾み、わたしも山本君らといろいろ話をしました。もう、あのハイヒールがやはり大変らしく、おまけにあの絶唱です。この2日間は点滴をし注射をし鍼を打ちマッサージにいってフルコースで体調をハイにとめおくというすごさ。そのせいか、昨晩は資料用に撮っていたビデオスタッフが「山本耕史が命を削って演じている姿が撮れた」といったとか。こういう舞台は、商業的にはそんなに儲かるものでもなく、ギャラだってテレビに比べれば微々たるもの。でもヘドを演じたかったその時代の震えを、山本君も感じているようでした。尖っていたいんだなあ。

ヘド、ほんと、オオバケしてきています。歌とセリフが一体化してきて、セリフが歌詞のように聞こえている。わたしのゲネプロと初日からの予想が、こんなにも早く具現化するとは、ステージにはまさに魔物が棲んでいるのでしょうね。それを感じられる俳優の才能に幸あらんことを。

中村中ちゃんは打ち上げでもひとり懸命に明るく挨拶して回っていて、ほんと、かわいい子だわん。おじさん、なんだかちょっと緊張して小難しいこと口にしてた。うぅぅっ。もっとふつーにお話がしたいよーってときに限ってこうなってしまう不徳。とほほ。

ヘドヘッドの方からも、さいきん、お褒めのメッセージを頂くようになりました。最初は賛否両論というか、「否」のほうが表面化するのはまあ常のことですが、どんどんポジティブな反応が増えてきたのはやはりステージが深化してきているからでしょう。

わたしがあれを翻訳しながら思っていたことは、これはそう、どうしようもなくオキャマの劇なのだ、ということでした。ヘンタイたちの、フリークスの、オトコオンナの、ゲイの、トランスジェンダーの、ロック・ミュージカル。これをどこまで観客の女性たち男性たちが理解できているのかはわからないけれど、まあ、かんたんにわかってもらっても困るし、わかるものでもない。三上ヘドはノリノリであれはあれですごかったけれど、今度のヘドは、あの悲しみの根源に何があるのか、考えようと思えば答えは見つかる、そういう仕上げになっています。

英語の歌詞は、あれはぼくは、そんなヘンタイでもフリークスでもゲイでもオトコオンナでもトランスでもない観客たちへの、ひょっとしたら、理解へと進んでほしいための挑発として提示されたのかもしれないと思っております。ま、演出の鈴勝さんはそんな意地悪を意図したわけじゃないだろうけど、わたしとしては結果としてのそんなちょっとした挑発と宿題が、ありがたいと思ってる。 山本君はバリバリのストレートだけどね、彼もこのヘドウィグに「なる」ことで、きっとそのことを理解してきていると思います。ヘンタイと言われること、オトコオンナとからかわれること、オキャマと蔑まれること、その無意味さと獰猛な残酷さとを。そしてそれゆえの愛の非情と強さとを。ぼくはそれだけでもこの劇に加担してよかったと思っている。

わたしの帰米ももうすぐですが、4日の最終日までにもう一回は見に行きたいなと思っています。