オオバケしてきたヘドウィグ
昨夜は公演後にFACE近くの飲み屋さんで30人ほどで「繰り上げ」の「打ち上げ」でした。舞台の場合は最終日は片付けとか忙しいのでこういう繰り上げての打ち上げ会はよくあるそうです。
もう夜10時近くなってからの、あまり打ち上げ感のない(まだ5回もステージが残ってるんですしね)始まりでしたが、徐々に話も弾み、わたしも山本君らといろいろ話をしました。もう、あのハイヒールがやはり大変らしく、おまけにあの絶唱です。この2日間は点滴をし注射をし鍼を打ちマッサージにいってフルコースで体調をハイにとめおくというすごさ。そのせいか、昨晩は資料用に撮っていたビデオスタッフが「山本耕史が命を削って演じている姿が撮れた」といったとか。こういう舞台は、商業的にはそんなに儲かるものでもなく、ギャラだってテレビに比べれば微々たるもの。でもヘドを演じたかったその時代の震えを、山本君も感じているようでした。尖っていたいんだなあ。
ヘド、ほんと、オオバケしてきています。歌とセリフが一体化してきて、セリフが歌詞のように聞こえている。わたしのゲネプロと初日からの予想が、こんなにも早く具現化するとは、ステージにはまさに魔物が棲んでいるのでしょうね。それを感じられる俳優の才能に幸あらんことを。
中村中ちゃんは打ち上げでもひとり懸命に明るく挨拶して回っていて、ほんと、かわいい子だわん。おじさん、なんだかちょっと緊張して小難しいこと口にしてた。うぅぅっ。もっとふつーにお話がしたいよーってときに限ってこうなってしまう不徳。とほほ。
ヘドヘッドの方からも、さいきん、お褒めのメッセージを頂くようになりました。最初は賛否両論というか、「否」のほうが表面化するのはまあ常のことですが、どんどんポジティブな反応が増えてきたのはやはりステージが深化してきているからでしょう。
わたしがあれを翻訳しながら思っていたことは、これはそう、どうしようもなくオキャマの劇なのだ、ということでした。ヘンタイたちの、フリークスの、オトコオンナの、ゲイの、トランスジェンダーの、ロック・ミュージカル。これをどこまで観客の女性たち男性たちが理解できているのかはわからないけれど、まあ、かんたんにわかってもらっても困るし、わかるものでもない。三上ヘドはノリノリであれはあれですごかったけれど、今度のヘドは、あの悲しみの根源に何があるのか、考えようと思えば答えは見つかる、そういう仕上げになっています。
英語の歌詞は、あれはぼくは、そんなヘンタイでもフリークスでもゲイでもオトコオンナでもトランスでもない観客たちへの、ひょっとしたら、理解へと進んでほしいための挑発として提示されたのかもしれないと思っております。ま、演出の鈴勝さんはそんな意地悪を意図したわけじゃないだろうけど、わたしとしては結果としてのそんなちょっとした挑発と宿題が、ありがたいと思ってる。 山本君はバリバリのストレートだけどね、彼もこのヘドウィグに「なる」ことで、きっとそのことを理解してきていると思います。ヘンタイと言われること、オトコオンナとからかわれること、オキャマと蔑まれること、その無意味さと獰猛な残酷さとを。そしてそれゆえの愛の非情と強さとを。ぼくはそれだけでもこの劇に加担してよかったと思っている。
わたしの帰米ももうすぐですが、4日の最終日までにもう一回は見に行きたいなと思っています。