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July 28, 2007

転載「最後のお願い」

日本では、投票日はもう明日ですか。

選挙のことを書くと、「こういうのは選挙違反になる」「自分のブログに特定候補の応援を公然と書いている。公選法で逮捕されてしまえ」という、いったい、こいつは全体主義の標榜者かというようなとんちんかんを書き連ねる輩が最近、とても増えているような気がします。まあ、ウェブサイトの発信の容易性の為せる業なんでしょうが、どうしてこういう、自分で自分の首を絞めるのが好きな連中がいるんだろうなあ。気づいていないんでしょうね。

基本は、個人の名の下に、自由にものが話せる、意見を述べられる。これが近代社会の基本です。だから憲法でも保障されている。それが許されないなら、そういう公選法の方が悪いのです(ってか、今の日本の公選法はそうはなっていないですから問題ないんですけどね)。

さて、私のところに、「最後のお願い」と題した次のようなメールが届きました。
なるほど、とても切実な思いが綴られています。
こういうきちんとしたことを、若い連中が書いてくれるんだなあ。
うれしいなあ。
ということで、ここに転載します。読んでみてやってください。

***

「世界が100人の村だったら」にはこう書かれています。
 異性愛者は89人います。
 同性愛者は11人います。

 日本にそんなに同性愛者がいるでしょうか?
 誰にもわかりません。
 少なくとも100人のうち3人か4人はいるだろう…とは言われています。
「いない」のではなく、きっと「見えない」のです。「ここにいるよ」と言うことができないのです。

 アフリカのある国の大統領はこう言いました。
「我が国には同性愛者などいない。いるとしたら、よその国に出て行ってくれ」
 そして、いまだに同性愛者だというだけで死刑になる国が世界に9つもあります。

 日本に生まれた同性愛者たちは、そうした国々に比べたらしあわせなのでしょう。
 でも、本当に私たちはしあわせでしょうか?

 思い出してください。
 あなたの周りで、今までにどれだけのゲイやレズビアンの友達が亡くなりましたか?
 日本でいちばん多い死因は、ガンや心筋梗塞です。
 でも、私たちの周りの友人たちは、同性愛者として生きて行ける自信がなくなって自殺してしまったり、エイズを発症したり、そうやって亡くなっていく方がなんと多かったことか…

 日本は先進国一の自殺大国ですが、それでも年間に自殺で亡くなるのは100人あたり0.024人です。
 今年の3月、ゲイの学生さんが自殺で亡くなりました。夢を抱いて生きてるはずの学生さんが…胸が痛みます。
 今もなんと多くの方が、未来に希望が持てず、命を絶っていることでしょう。
 日本は、私たちの社会は、まだまだ同性愛者が生きやすいとはとても言いがたいのではないでしょうか。

 今は陽気に(GAY)暮らしている私たち。でも、どんなに純粋にパートナーを愛し、長年いっしょに暮らしていても、法律上はただの「友人」ですから、扶養控除もありません。何十年か後、もしパートナーが重病で入院したとき、親族として扱ってくれないばかりか、面会すらさせてもらえないかもしれません。万が一パートナーが亡くなったとき、私たちはお葬式に出られるでしょうか? いっしょに住んでる家を追い出されたり、二人で買った家具などを親戚に持って行かれたりしないでしょうか? 生命保険を受け取れるでしょうか?
 私たちは日々、一生懸命働き、税金を収め、社会に貢献しています。にも関わらず、異性愛者が当然のように行使している権利を、何一つ与えられていないのです。

 70年代の東郷健さん以来、国政の場に出ようとするオープンな同性愛者はいませんでした。
 ようやく今、勇気と明るさと行動的な魅力を持ったレズビアンの政治家が現れました。彼女は、民主党の公認を得て参議院比例区に立候補するやいなや、日本中を席巻し、連日メディアをにぎわせ、同性結婚式を挙げ、同性愛者のイメージを「ケ」から「ハレ」へとSWITCHしてきました。まるでジャンヌダルクのように。なんと晴れやかで美しい革命でしょう!

 もし、彼女が当選したら、
 同性愛者として生きる意味を見出せなかった全国の同性愛者たちの希望の星となるでしょう。自分のセクシュアリティを呪い、自暴自棄になったり、命を失ったりという悲劇が繰り返されることはもうなくなるでしょう。

 もし、彼女が当選したら、
 私たちが胸を張って、プライドをもって同性愛者として生きていける時代が訪れるでしょう。街中で手をつなぎ、堂々とデートできるでしょう。

 もし、彼女が当選したら、
 同性婚(または同性パートナーシップ法)が遠からず実現するでしょう。性同一性障害特例法が誰も予想しなかったスピードで通ったように。

 もし、彼女が当選したら、
 HIV予防や陽性者支援に対する国家予算がやっと欧米並みになるでしょう(今は何十分の一くらいです)。今でも年に100人以上亡くなっているエイズ患者(異性愛者、同性愛者ともにです)の方もの命を救うだけでなく、HIV陽性者の方々がもっと生き生きと暮らせるようになるでしょう。

 もし、彼女が当選しなかったら…
 何も変わりません。
 それどころか、
 安倍晋三は「ジェンダーという言葉は使わないほうがいい」と発言するほどのバックラッシュの旗手であり、教科書から同性カップルに関する記述を削除し、そうやって「美しい国=正しい家族像」を作ろうとしています。
 状況は悪くなる一方でしょう。

 もし、彼女が当選しなかったら…
 政治家だけでなく国全体が「同性愛者は政治的な力を持っていない」と思うことでしょう。
 民主党も二度と同性愛者の候補を公認しないでしょう。
 この先、同性愛者の国会議員が実現するために、また30年もの時間を要するかもしれません。

 志半ばにして逝った、天国にいる私たちの仲間たちの無念さを、どうか忘れないでください。
 今、この瞬間、心重ねて、私たちが彼女を応援すること。
お盆に東京で開催されるパレードやレインボー祭りで同性愛者の国会議員の笑顔が全国の仲間たちを勇気づけること。
 それが、亡くなった友人や恋人たちへの供養になるでしょう。
 私たちはみんな遺族です。
 心にそれぞれの遺影を掲げて、この夏、私たちの手で、歴史を変えましょう。

July 25, 2007

尾辻かな子

レズビアンを公言して民主党の比例代表区から立候補している尾辻かな子に対して、「性癖を誇るな」と題して、ネット上で厳しく非難しているブログがありました。すこし引用しますね。

「いやらしいから無視するつもりであったが、いつまでも政治絡みのフォトに出ているので一言。
この人は、自分の性癖を選挙の道具にしている最低の人間である。
性同一障害と、ただの性癖を混同してはいけない。
性同一障害は、自分の体と心が、胎児のときのホルモンの影響などにより生じた、障害である。
尾辻かな子のレズはただの性癖、変態趣味でしかない。
糞をなめることが趣味な人や、○○が好きな変態の人と同じだ。
変態は変態同士、わからぬようにこっそり当事者で楽しむのは全く問題が無い。 アレをこうしようと、どうしようと当人同士の問題である。
しかし、その変態性、性癖を他人に見せ付けるのは、悪質な罪である。」

とまあ、こういう具合です。

きっと一般の認識では少なからずこうした判断を疑うことなくそのままにしている人はいるのでしょう。
同性愛が性癖なら、異性愛も性癖であることになりますが、その辺のことが理解されていないのですね。もちろん、「糞をなめることが趣味な人や、○○が好きな変態の人」は異性愛者の方が絶対数として圧倒的に多い、という事実は単に算数の問題です。
同性愛がセックスの問題、あるいはセックスの上の嗜好の問題だと思い込んでいるのは、これはひとえに情報の不足によるものです。だいたい、一般社会には、そうした同性愛に関する情報もないし、その情報を必要とする状況もないのだと思います。で、あいもかわらず40年も前の風俗綺譚の理解が依然はびこっている。だから、上記のようなものを書いて恥ずかしげもなく公然と曝してしまう輩が後を絶たない。
可哀相というかなんというか、まあ、しょうがないんだろうけどね。

(同性愛とは何なのか、と知りたい方は、以下のリンクを参考にしてください。もう10年も前ですが、ニューヨークの日本語新聞に「マジメでためになるゲイ講座」という連載を行いました。それを再録してあります)

目次(ここで「マジメでためになるゲイ講座」の各項目をクリック

簡単にまとめたQ&Aです

以下の動画は、CNNが中継した、YouTubeの投稿質問動画に答える民主党の各候補討論会。 一年以上も先だというのに米大統領選挙、かように盛り上がっているのですが、「その変態性、性癖を他人に見せ付ける」人々の結婚の問題がここでも話題になります。

まずはブルックリンのマリーさんとジェンさんのレズビアンカップルの「私たちを結婚させてくれますか?」の問いに各候補が答えます。

ここではすでに、「レズはただの性癖、変態趣味でしかない」というような「無知」や「偏見」は共有されてはいません。というか、排除されています。そういう物言いが、はるかかなたに片のついたブルシットであることをすでにほとんどの人々が理解していて、その上で、世界の論議はすでに先に行っているのです。ですから冒頭の引用のようなレベルの話は、ほとんどの人から相手にされません。議論にもなりません。話題にしても呆れられるか鼻で笑われるか、それこそ「糞」でも見るように目を背けられるかだけです。

さて、クシニッチはゲイカップルが結婚ができる「私が大統領となるより良き新たな時代へ歓迎します」と言葉を結び明快です。

"Mary and Jen, the answer to your question is yes. And let me tell you why. Because if our Constitution really means what it says, that all are created equal, if it really means what it says, that there should be equality of opportunity before the law, then our brothers and sisters who happen to be gay, lesbian, bisexual or transgendered should have the same rights accorded to them as anyone else, and that includes the ability to have a civil marriage ceremony. Yes, I support you. And welcome to a better and a new America under a President Kucinich administration."

「メリーとジェン、あなたたちの質問への答えはイエスです。なぜか。なぜなら憲法がそう言っているから。すべての人間は平等である。もしそうなら法の前では機会も平等だ。だからわれわれの、たまたまゲイ、レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダーである兄弟や姉妹たちは、他のみんなに与えられていると同じ権利を持っている。それには一般市民の結婚の儀式を行う権利も含まれる。イエス。私はあなたたちをサポートします。そして、クシニッチ大統領の政権下でのよりよく新しいアメリカに、私はあなたたちを喜んで迎え入れます」

続いて、レジー牧師の質問です。これはなかなかポイントを衝いた質問です。

「かつて宗教を理由に奴隷、人種隔離、女性参政権の否定を正当化していたことは間違いであり違憲であるといまの多くのアメリカ人は知っています。ではいまもなぜ、宗教を理由にゲイのアメリカ人が結婚することを否定するのが認められているのでしょう?」

司会のアンダーソン・クーパーは、進んで公言してはいませんが否定もしていないゲイのアンカーマンです。

エドワーズは、妻は賛成するが私は反対だ、と苦しい胸の内を披露して理解を得ようという戦術です。
つまりこれほどやはり政治に「宗教」が絡み付いている。

"I think Reverend Longcrier asks a very important question, which is whether fundamentally -- whether it's right for any of our faith beliefs to be imposed on the American people when we're president of the United States. I do not believe that's right. I feel enormous personal conflict about this issue. I want to end discrimination. I want to do some of the things that I just heard Bill Richardson talking about -- standing up for equal rights, substantive rights, civil unions, the thing that Chris Dodd just talked about. But I think that's something everybody on this stage will commit themselves to as president of the United States. But I personally have been on a journey on this issue. I feel enormous conflict about it. As I think a lot of people know, Elizabeth spoke -- my wife Elizabeth spoke out a few weeks ago, and she actually supports gay marriage. I do not. But this is a very, very difficult issue for me. And I recognize and have enormous respect for people who have a different view of it."

オバマは、明らかに答えを回避しています。彼の論理は、法の前ではみな平等だ、です。だから法的な権利はすべて保証するシビルユニオンを提案していると答えるのです。でも、それこそが質問のポイントなのですが、なぜ「結婚」ではダメなのかというには答えづらそうに何度も口ごもりつつ、結局は答えられていません。

同性婚はいまのアメリカにとって最大の政治課題ではありません。しかし主要な政治課題である。わずか人口の5%前後と言われている同性愛者たちのこの問題がなぜ主要課題であるのか。それは歴史を輪切りにしてはわからない。輪切りにすればそれはたった5%でしかない。けれど、歴史を縦切りにしたら、それはずっと昔から100%途切れることなく続いている、つまりは取り残している課題だからです。

それは一般に広く言われているような「性」の問題ではありません。
命の、「生」の問題なのです。

日本の参院選が日曜に迫っています。
参院比例区、個人名を書きます。
そこに「尾辻かな子」と書くことは、その取り残しを(同性婚とまでは行かずとも人権問題全般のこの取り残しを)、気にしていると表明することです。そういうことを「糞をなめることが趣味な人や、○○が好きな変態の人」だといまもかたくなに信じている人をこれ以上はびこらせないように、あるいは歴史の誤解をとくために、力を貸すことです、力を添えることです。
社民党じゃないが、「今回は」です。
なぜなら、日本の社会はこの問題に関して、最も弱い。最も無知だ。最も無関心だからです。
こんなにグローバルに発信し受信している今の日本が、世界に申し開きできない弱点なのです。

私のこのブログを読んでくれているヘテロセクシュアルの友人たち、あるいは通りすがりのROMさん、比例区、適当な意中の人がいないなら「尾辻かな子」を紹介します。

比例区は、「個人名」を書くことを忘れずにいてください。

http://www.otsuji-k.com/

July 22, 2007

いよっ、中村屋!

このところ、翻訳の締め切りに追われて(ってか、もうとっくに追い越されてしまったんですが)ぜんぜんブログのアップデートをしてません。申し訳ない。

とはいえ、いろいろと人生は過ぎていくわけで、とりあえず今回は19日に見た、平成中村座のリンカーンセンター公園について書き留めましょう。

ええ、ええ、そうです。3年前の夏のあの素晴らしい舞台の印象を引きずりながら、今回も観に行ったわけです。いやはや見事なエンターテインメント。しかし、それ以上に、私はこの「法界坊」を演目に選んだ勘三郎の大胆さに畏敬すら覚えました。

破戒僧「法界坊」は米国人が、いや現代の日本人もがなんとなく歌舞伎に抱いている「芸術性」を真っ向から裏切る喜劇なんですね。幕が開いて間もなく、事前のNYタイムズの記事で勘三郎が能と歌舞伎の違いを「能は時の権力者によってつねに保護されてきたが、歌舞伎を支持してきたのは一般大衆だ」と断じていたのが思い出されました。

なんせ端から話題はセックスなわけです。
おいおい、リンカーンセンターでポルノかよ、です。まいっちゃいました。
ざっと登場人物と物語の背景を説明して芝居は始まるのですが、三枚目「山崎屋勘十郎」が登場早々美女「お組」を目にしたとたん、おにんにんをぴょこぴょことおっ勃てるわけですよ。袴がそれでぴょんぴょんはねる。私は隣の席に座る、十代の息子たちをネクタイとブレザー姿で連れて来ているいかにもお金持ちそうな家族連れのことが気になってしょうがありませんでした。このお父さん、きっと「日本の歌舞伎という伝統芸術をこの機会だ、ちゃんと見ておきなさい」とでも言って連れ出したんでしょうね。

ところがこれは(おにんにんぴょこんぴょこんは)、英語ではいわゆる「ヴァルガー(野卑、下品)」と言われる表現です。日本という禅と茶道と礼儀作法の国から、まさかこんな、ときっととなりのお父さんも思ったでしょう。会場にだって一種、どう反応したらよいのかわからない、しかしこれは400年も続く伝統芸能だと自分に言い聞かせる、キリスト教的ジレンマからの失笑というか微苦笑というか、とりあえずはスマイルね、というべきビミョーな感じが漂っていました。だってこれは、どうかんがえても、というか後半の刃傷沙汰に及ぶにつれ、なおさらに絶対「R指定」の芝居なのでした。

そのときもういちど「歌舞伎は大衆芸能」という勘三郎の言葉を思い出した、というわけ。これでガーンと一発やられたような気がしました。

だってそういえばこうした野郎歌舞伎は、それも「隅田川物」と呼ばれるこの世界は、ことに爛熟の江戸町民文化の中で奔放で雑多な庶民のエネルギーそのものを写し取ったものですわね。
色恋、嫉妬、痴話げんか、詐欺に間男、贋金、不貞、誘拐、人斬り、誤解に恨み、そして最後は幽霊の、復讐譚まで発展し(七五調ですけど、わかりました?)、そして大喜利、大団円。

盛り沢山とはこのことで、前回3年前の「夏祭浪花鑑」のようなドラマ性には欠けるものの、「歌」あり「舞」あり「伎」ありの3時間。「野卑」とは言いましたが、それを表現する所作は見事に芸に裏打ちされた洗練の極み。法界坊のドタバタもじつにミニマルで流麗でまるでチャップリンのそれにも通じていました。いや、チャップリンの方が歌舞伎を真似ていたのかね。

勘三郎は庶民のそんな猥雑で生々しいエネルギーをもう一度現代の歌舞伎にも注入したかったのでしょう。いつのまにか「ハイ・アート」のように振る舞っている優等生に、原初的な破天荒さを取り戻す。そうやって見ると、今回の舞台は女形がまさに女形であるジェンダー・ベンディングな歌舞伎本来のクイアさもより透けて見えるようでした。上澄みばかりが賞賛されている海外での日本文化ブームを、勘三郎は「ほらよっ、ならこれはどうでえ?」と混ぜっ返しているいたずらな確信犯、トリックスターにさえ見えます。ちょうどマグロやイカをマスターした鮨好きの外国人に、奥から酒盗やクサヤを出してくるみたいに。

英語での観客いじりはやや安易に流れた嫌いもありましたが、歌舞伎を通しての人間復興のような、勘三郎のそんな壮たる目論見も理解できる、アメリカ人だけではなく私たち日本人にとってもの日本ブームの重層的な第二幕がここから始まってほしいもんです。

しかし、勘三郎、どこまで計算してるんだろうね。プロテスタントのこのアメリカに、よりによって「法界坊」で乗り込むなんて。ますます彼が好きになったわ。

July 06, 2007

中村中「リンゴ売り」

リンゴ売り

別に好きでこんな服を着てるわけじゃない
別に好きでこんな顔をしてるわけじゃない

だって派手な衣装で隠さなきゃ
だって派手な化粧で隠さなきゃ
だって剥げた心を指差して
貴方たち笑うじゃないの

誰にだって優しい事を言いたいわけじゃない
誰にだっていい顔ばかりしたいわけじゃない

だけど軽い口調で流さなきゃ
だけど軽く笑顔で答えなきゃ
勝手な事 散々言っといて
貴方たち笑うじゃないの

私を買って下さい
一晩買って下さい

つまずくだけじゃ血も流れない
涙すら流れない

私を抱いて下さい
一晩抱いて下さい

淋しさだけじゃ夢も見れない
愛は在りませんか

私を抱いて下さい
いつまでも抱いてください

 「私を買って下さい」って、唄の中で言いのけたディーヴァというのはいままでいただろうか。藤圭子? 北原ミレイ? 浅川マキ? ちあきなおみ? 中島みゆき? 椎名林檎? みんな、なんとなく唄っていそうで、でも、中村中の「リンゴ売り」とはなんとなく違う。

 歴代の女唄というものにはだいたい恋い焦がれる相手が存在していて、恨みもツラミも愛も肉も怒りも、「わたし」と「貴男」という個々の関係性を糧に成立している。そのひとに向かって唄っている。あるいはそのひとを思って唄っている。あるいはそんな過去を思って唄っている。なのに、この「リンゴ売り」には誰もいない。いるのはリンゴ売りの前を通り過ぎる、誰とも知れない「笑う」「貴方たち」だけ。過去も未来もない、点でしかない時の消息。

 中村中の唄を聞くと、いつも「あらかじめ失われた恋人たち」というリルケの詩の一節を思い出している自分がいる。そしてそれはきっと、リルケが言ったよりもさらに深い意味で失われている。だからこれは、歴代のディーヴァたちの唄えなかったことじゃない。唄わなかったのは、唄う必要がなかったからだ。なぜなら、ディーヴァたちの唄う女唄には、あらかじめだれかがいたから。あらかじめ、だれかがいることを前提にできたから。あらかじめは、そんなに失われているわけじゃないから。でも中村の唄は、あらかじめ拠って立つ地面もない、女唄ですらない底なしの奈落に浮かんでいる孤独。

 思い溢れてシャープした最後の「私を抱いて下さい/いつまでも抱いて下さい」はなんだか、落下を支えて張り渡した命綱みたいだ。持てる声の種類すべてを動員して抗っている、そんな切羽。そしてそれはきっと、敬愛するディーヴァたちに突きつける、めいっぱいの彼女からのリンゴだ。

 思い出した。通底する歌詞を聞いたことがある。スティングの「Tomorrow We'll See」という唄。どこかの都会の街娼を唄った唄。街娼は「あたし」。でも英語の歌では、男が女唄を唄うことはぜったいにない。だから聞いているとわかってくる。この唄のストーリーは、主語がスティングなんだ。だからこれもじつは女唄ではない。「あたしの友だちは結局死んじゃって/彼のドレスは赤く染みになった/親戚も住所もなくて/この通りのもう1人の犠牲者/警察が彼を運び去れば/次の日には誰かが彼の場所に立っていた/感謝祭までには故郷に帰れるわね/生きてではないけれど」。そうしてスティングは言うのだ。「だれかがあたしのことを心配してくれるなんて/そんなのはあたしの計画にはない」「ねえ、ひとりにしないで、悲しくさせないで/いままでで最高の5分間をあなたにあげるから」って。

 この「あなた」も、誰でもない。この「あたし」も、あとにもさきにも誰かとの個々の関係性を「計画」しているわけではない。

 かつて寺山修司は、「悲しみは一つの果実てのひらの上に熟れつつ手渡しもせず」と歌った。きっと手渡しではなく、その果実は中村中の「リンゴ」にあらかじめ乗り移ったのだろうと思う。

July 03, 2007

久間防衛相の辞任に見る捻れ

「原爆で戦争が終わった。(原爆投下は)しょうがないと思っている」ってなことを発言して3日目に辞任というすばやい対応は、辞めなかったナントカ還元水の松岡農相、女性は産む機械の柳沢厚労相と、どう違うんでしょう。

一つは参院選挙。選挙対応のために今回はすぐに辞めざるを得なかった。自民党内の批判も大きかった。
一つは松岡農相の自殺。かばいつづけて?自殺された日にゃかなわない。

安倍はつい昨日まで「(久間発言は)アメリカの見方を説明したもの」という、別の主語をでっち上げるなんとも「おいおい」なへんてこな論理を持ち出し、「辞める必要はない」と例によって突っ張りの態勢だったのですが、まあそれも内閣発足9か月で3人もの大臣交代という事態を避けようという保身でした。柳沢の時も松岡の時もそれで乗り切ってきたのですから(柳沢が辞めてれば4人だ。これじゃ内閣はもたないですからね、ふつう)。だが今回は与党内からの批判がすごかった。いつもはこんなにメタクソにいわないもんですけれどね。

でも、久間発言がかくも問題とされた背景には、参院選というより、自民党内右派による自虐史観への攻撃も含まれているんでしょう。

そもそも久間ってひとは防衛庁長官を2回務めてるのにどういう立ち位置にあるのかよくわからない「ときどきハト派」的な発言もしたりする。イラク戦争では例の「小泉前首相のイラク戦争支持は非公式」と間違ってみたり、「イラクに大量破壊兵器があると決め付けて戦争に踏み切ったブッシュの判断は間違いだった」と言ってみては叱られてそれを引っ込めてみたり。でも一方では沖縄の基地問題でアメリカのパトリオット配備は「歓迎すべきこと」とか、そう思うと逆に普天間飛行場移設問題では「私は米国に『あんまり偉そうにいってくれるな。日本のことは日本に任せてくれ』といっている」と発言したり、わけわかんない。あるいは太平洋戦争で「私でも沖縄をまっさきに占領しただろう」とか、長崎市長射殺事件では死んでもいない時点で「補充がいつでもできるように公選法を見直すべき」とか、まあ、基本的に人の気持ちが関係ない人なんだなあ、という感じですね。てか、自己完結的ながら自分勝手なもんだから一貫してねえんだなあ、まったく。こういうのを不見識っていうのかしら。

そこに今回の原爆ショーガナイ発言です。
ヒロシマ・ナガサキでは日本の右派と左派が道筋は違うながらも同じ途中結果(変な言葉)をたどっていて、右派は自虐史観を否定するところから(自分が強姦されたことを打ち消したいオスの論理で)「赦せない」となって、そこから太平洋戦争の敗戦の否定、九条改変と再軍備にまで行き着く。左派は米帝批判と平和主義から「赦せない」となって、こっちはそこから世界の被害者の連帯と九条護憲に至る。(小沢が党首討論で「米国に謝罪要求しろ」といったのはどっちなんでしょう)

というわけで、今回の久間発言は右からも左からもけしからんの大合唱。
参院選への影響をかわすというのもあるでしょうが、しかし辞任へと使嗾した安倍自民の心理には、左からの批判とはまったく逆の、憲法改変と益荒男国家へと続く文脈のサブリミナル効果を見る思いがするのです。

ですから「与野党そろって辞任要求」といっても、意味はぜんぜん違う。
そのへんが安倍自民の胡散臭さですわね。

(しっかし、辞任理由を「参院選への影響を考えた」って、久間さん、それじゃなんだかいかにも小手先ですって白状してるのと同じじゃござんせんかねえ。やっぱ、わかってないんだなあ)