北大路魯山人
じつは北大路魯山人についてはいろいろ思うところがあって、でも、思うところをそのまま書いてもそれは「魯山人」という現在の名声への対抗というバイアスを纏うところがあり、どうしたって中立的というかニュートラルな評価を下せないかもしれない恐れはつきまとうわけです。
で、日本橋三越、8月14日から10日間にわたる「北大路魯山人展」に行ってみて、まあ、これは「吉兆庵美術館蒐蔵」というわりとちゃんとしたものが出ていたショーなのではありますが、なかなかいいものでした。
魯山人という人は、いまでこそすごい「大家」としてかなりショーアップされてしまっている部分もあり、でも、そのショーアップの根本的な基盤は、おそらくその彼の文体だと思うのです。彼のテキストを読むと、これは洗脳の文体なのですね。というか、じつに自信にあふれた「オレについてこい」なわけです。おれの言うことを聞いていればよい、おれの言うことを憶えておけば恥はかかない、そういうことをサブテキストとして示している文体なんだなあ。
で、私は、べつに魯山人の言っていることがウソだと言いたいのではないのです。
魯山人先生の言うことはきわめて真っ当だし、ときには素晴らしい。
そうやって思っていつつ、でも、彼も作品としてはいつもいつも面白いものを作っていたわけではない。なかには面白いものもあるけど、それはテキストの重厚さとやや不整合だな、というのが兼ねてからの私の思い込みであったわけです。
そうして今回、三越に行ってまいりました。
私の思い込みは、そう間違ってもいないんじゃないか、というのが結論です。
魯山人を一言で言い表してよい、と言われたら、私は彼は「元祖ヘタウマ」だって感じがします。
これね、私の世界観なんですからどうしようもないんですが、美術工芸品のジャンルで、というよりもなによりも、私はとにかく「天才」ってもんにイーハンもリャンハンもあげちゃう質なんですね。たとえばピカソをやはり天才だと思う。彼は、ヘタウマではなく天賦の才能としての「上手ウマ」から始まるわけです。それはどうしたって拭い去ることのできない運命的なスタート地点なわけです。そうしながらもなおもヘタウマを目指していく。それがピカソなんですね。
ところが魯山人は、ヘタから始まるわけです。そんでどんどん上手くなる。晩年の備前なんかは、ほんと、素人じゃない。にもかかわらず、彼は「匠人」趣味に堕してはいけない、というわけです。つまり、ハイアートではなくて、つねに日常にとけ込んだアートを目指すべきだ、と。
まさにそれは文句の付けどころがない論点です。でも、ヘタウマなんだなあ。
ヘタウマの集大成のようなものに彼の真骨頂があります。たとえば5枚セットの手塩皿というのも何種か出ていましたが、その中の櫛目十文字の5人(5枚セット)なんてのは、すごく豪胆でシンプルで好きです。(彼の文体を使えば、「節目十文字手塩皿五人は、辿々しき日常の妙を得て愛すべき一品」、と断じるのね。)
乾山風中皿五人というのも、山の景色をうかがわせて好ましい。花が浮かんでいるような文様の黄瀬戸の菓子鉢も、藍を吹き付けたような吹墨向付の五人もよろしい。丈の高い草の文様のタタラ成形の志野若草四方平向付も思わず立ち止まりました。
ただ、書や篆刻は、むずかしいなあ。
画はね、野菜籠を描いたものやあさがお図なんか、うまいんだ。でも、それは天才というのとは違う。上手くなったんだなあ、という感じなのです。
つまりね、このひと、とびきりの特急のアマチュアだったんでしょうね。
すべての分野で。そういう印象なのです。
料理のことを書いてあるのも、そういう意味では文体が勝負なんだと思います。こればかりは書や絵や焼き物などと違って後世に残らないんでどうとでもわからんのですわけど、でもまあ、食い物の話に関してはなにも反論できません。いちいちお説ごもっともです。
で、言いたいことは何か?
魯山人は晩年、不遇だったようです。「海原雄山」とは違うのね。
文体に誤摩化されがちですが、すごいもひどいももっと構えずに評価をしてやれば魯山人も浮かばれるんじゃないかなあって思います。魯山人の究極の願いは、いってみれば「普段使い」なんですね。ですんで、魯山人先生もそんな崇め奉るってんじゃなくてさ、元祖ヘタウマにふさわしく普段使いの妙手として仲良くしてやればいいんじゃないかなあって、思います。