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August 30, 2007

北大路魯山人

じつは北大路魯山人についてはいろいろ思うところがあって、でも、思うところをそのまま書いてもそれは「魯山人」という現在の名声への対抗というバイアスを纏うところがあり、どうしたって中立的というかニュートラルな評価を下せないかもしれない恐れはつきまとうわけです。

で、日本橋三越、8月14日から10日間にわたる「北大路魯山人展」に行ってみて、まあ、これは「吉兆庵美術館蒐蔵」というわりとちゃんとしたものが出ていたショーなのではありますが、なかなかいいものでした。

魯山人という人は、いまでこそすごい「大家」としてかなりショーアップされてしまっている部分もあり、でも、そのショーアップの根本的な基盤は、おそらくその彼の文体だと思うのです。彼のテキストを読むと、これは洗脳の文体なのですね。というか、じつに自信にあふれた「オレについてこい」なわけです。おれの言うことを聞いていればよい、おれの言うことを憶えておけば恥はかかない、そういうことをサブテキストとして示している文体なんだなあ。

で、私は、べつに魯山人の言っていることがウソだと言いたいのではないのです。
魯山人先生の言うことはきわめて真っ当だし、ときには素晴らしい。

そうやって思っていつつ、でも、彼も作品としてはいつもいつも面白いものを作っていたわけではない。なかには面白いものもあるけど、それはテキストの重厚さとやや不整合だな、というのが兼ねてからの私の思い込みであったわけです。

そうして今回、三越に行ってまいりました。
私の思い込みは、そう間違ってもいないんじゃないか、というのが結論です。

魯山人を一言で言い表してよい、と言われたら、私は彼は「元祖ヘタウマ」だって感じがします。
これね、私の世界観なんですからどうしようもないんですが、美術工芸品のジャンルで、というよりもなによりも、私はとにかく「天才」ってもんにイーハンもリャンハンもあげちゃう質なんですね。たとえばピカソをやはり天才だと思う。彼は、ヘタウマではなく天賦の才能としての「上手ウマ」から始まるわけです。それはどうしたって拭い去ることのできない運命的なスタート地点なわけです。そうしながらもなおもヘタウマを目指していく。それがピカソなんですね。

ところが魯山人は、ヘタから始まるわけです。そんでどんどん上手くなる。晩年の備前なんかは、ほんと、素人じゃない。にもかかわらず、彼は「匠人」趣味に堕してはいけない、というわけです。つまり、ハイアートではなくて、つねに日常にとけ込んだアートを目指すべきだ、と。

まさにそれは文句の付けどころがない論点です。でも、ヘタウマなんだなあ。
ヘタウマの集大成のようなものに彼の真骨頂があります。たとえば5枚セットの手塩皿というのも何種か出ていましたが、その中の櫛目十文字の5人(5枚セット)なんてのは、すごく豪胆でシンプルで好きです。(彼の文体を使えば、「節目十文字手塩皿五人は、辿々しき日常の妙を得て愛すべき一品」、と断じるのね。)

乾山風中皿五人というのも、山の景色をうかがわせて好ましい。花が浮かんでいるような文様の黄瀬戸の菓子鉢も、藍を吹き付けたような吹墨向付の五人もよろしい。丈の高い草の文様のタタラ成形の志野若草四方平向付も思わず立ち止まりました。

ただ、書や篆刻は、むずかしいなあ。
画はね、野菜籠を描いたものやあさがお図なんか、うまいんだ。でも、それは天才というのとは違う。上手くなったんだなあ、という感じなのです。

つまりね、このひと、とびきりの特急のアマチュアだったんでしょうね。
すべての分野で。そういう印象なのです。
料理のことを書いてあるのも、そういう意味では文体が勝負なんだと思います。こればかりは書や絵や焼き物などと違って後世に残らないんでどうとでもわからんのですわけど、でもまあ、食い物の話に関してはなにも反論できません。いちいちお説ごもっともです。

で、言いたいことは何か?

魯山人は晩年、不遇だったようです。「海原雄山」とは違うのね。
文体に誤摩化されがちですが、すごいもひどいももっと構えずに評価をしてやれば魯山人も浮かばれるんじゃないかなあって思います。魯山人の究極の願いは、いってみれば「普段使い」なんですね。ですんで、魯山人先生もそんな崇め奉るってんじゃなくてさ、元祖ヘタウマにふさわしく普段使いの妙手として仲良くしてやればいいんじゃないかなあって、思います。

August 27, 2007

恥で倒れた仏像

民主党の小沢代表が「アフガン戦争はアメリカの戦争」と言ってテロ特措法の延長に反対していますが、アフガン戦争とイラク戦争とを明確に区別できる人がいまどれくらいいるかというと、当事者のアメリカ人でさえあまりいないんじゃないかというのが正直な印象です。

日本だってそうでしょう。いまさっきもテレビで評論家諸氏がしっかりと「イラク戦争」と言い間違えてましたし。じつは小沢は、そんな“混乱”をうまく利用してテレビ中継までさせてシーファー大使に直かに反対を伝える政治演出を見せたんだと思ってるんですが、さて、どうなんでしょうね。

そもそも小沢の今回の特措法延長反対の宣言の真意は、確かに「アメリカにノーと言える政治家であるということの演出」ではありながらも、じつはアメリカそのものへの強気の「ノー」ではなくて、ブッシュ政権への「ノー」なのですね。ブッシュ不人気はもう米国内だけの現象ではなく、そうした国際的な「脱ブッシュ」の列に加わってみせたからといって日本の国益はそう損なわれまい。もし損なわれたとしても次のヒラリー率いる民主党政権(?)との関係でいくらでも修復できる、そうふんでの小沢一流の政治演出なのではないかと思えました。日本じゃテレビに登場する評論家たちのだれもそんなこと言ってないけど。

ただしこの小沢演出には落とし穴があるのです。

おさらいしてみましょう。
アフガン戦争のきっかけはイラク戦争と同じく例の9・11でした。ブッシュは世界貿易センタービルを破壊されて拳を振り上げた。それはよいのですが、さあさてそれをどこに振り落とせばよいのか、なにせ相手は国家ではなくて流浪のテロリスト、どこに拠点があるかも分からない。で、9.11の下手人としたオサマ・ビン・ラーディン率いる武装組織アルカイダを、アフガンのイスラム原理主義政権党タリバンがかくまっているとして、それでアフガニスタンに拳を振り下ろすことにした、というのが始まりでした。これで体裁は対アルカイダ=対タリバン=対アフガンという国家間の戦争になったのです。思い出してください。当時、アフガン空爆が「これは戦争か?」とさんざん議論されていたことを。

ところが数億ドルもかけて空爆・ミサイル攻撃しても破壊するのが数百円の遊牧テントだった。世界最貧国への攻撃というのは、じつにどうにも“戦果”が上がらない。箱モノ行政の逆ですね。おまけにどこに行ったかビン・ラーディンもさっぱり捕まらない。そこで国民の目をイラクの独裁者フセイン大統領に逸らせた、というのが次のイラク戦争でした。

米国では現在、撤退論かまびすしいイラク戦争に対して、アフガン戦争はあまり話題に上っていません。というのも、アフガン戦線はじつは昨年7月から軍事指揮権が北大西洋条約機構(NATO)に移行し、英・加・蘭・伊・独が主力構成軍です。米国はそうしてイラク戦とアフガンでのビン・ラーディン狩りに戦力を傾注した。なもんで、アフガン戦争を「アメリカの戦争」と言い切ってそれで済むかというと、それはちょっと違うのです。

しかもアフガニスタンは米国の石油戦略にとって重要な中央アジアからの天然ガス・石油パイプラインの敷設予定ルートでもあって、見捨てるわけにはいかない土地です。次期大統領を狙うヒラリーにしても撤退などは口にしていません。NATO諸国にとっても同じでしょうし、日本だってテロ特措法を成立させた当時の小泉政権は日米同盟と同時に石油のことも考えていたに違いありません。

そういう意味で、小沢のテロ特措法延長反対=アフガン戦線からの離脱宣言は、国内向けには演出で済むが、国際的にはよほど裏ですり合わせしなければならない事案なのです。日本の民主党は一刻も早く米民主党およびNATO諸国とそのあたりについてきちんと協議できるパイプを敷設すべきでしょう。

ただし、そこには問題があります。アフガン戦線はイラク戦争と同様に泥沼化してとんでもないことになっています。カルザイ政権も弱体のままです。アフガンへの関与は本来、自衛隊による給油活動などといった程度では済まされないはずのものです。もちろんそれは軍事後方支援などという単純なものではない。日本にはそうしたコミットメントの十全の覚悟があるのかどうか。

アフガンのあのバーミヤンの大仏がタリバンによって破壊されたとき、私たちはそれ以上に多くの人間の生と生活の破壊があったことも知らずに憤慨してみせました。あのときイランの映画監督マフマルバフはこう言ったものです。「あの仏像は誰が破壊したのでもない。仏像は恥のために倒れたのだ。アフガニスタンに対する世界の無知を恥じて」──私たちはまだ無知なままなのです。

August 26, 2007

転載;署名のお願い

現在イギリスに住むイラン人女性、ペガー・エマンバクシュさんは、レズビアンであることをカムアウトしている方です。パートナーが逮捕、拷問、死刑に処せられてから本国を脱出し、2005年にイギリスで難民申請を行いましたが却下され、あさって火曜日にイランに強制送還されることになりました。

イランは同性同士の性交渉を罰するいわゆるソドミー法があり、送還されればむち打ちと投石の刑を受けます。事実上の死刑です。

現在、強制送還に反対し、恩情的にイギリスに滞在する権利をペガーさんに与えるよう、世界的な署名活動が行われています。その呼び掛けが私のところにも来ました。

以下、転載します。

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3分あれば出来るアクションです。
レズビアンがイランへ強制送還=鞭打たれて死刑、という事態をとめるためのネット署名(英語)はこちらから。
1分あればすぐ出来ます。
http://www.petitiononline.com/pegah/petition-sign.html

お願いします!!

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 【緊急コクチ】
 たくさんの方々にひろめてください。
 28日火曜日まで目が離せません。
 
 ーー以下記事要約/転送歓迎ーー

ペガー・エマンバシュクさん、イラン人女性、40歳。2005年にイランを脱出し、イギリスで難民申請をしたが、それが認められずにあと数日で故郷のイランに強制送還されようとしている。彼女は、レズビアン。レズビアンであるということは、イスラム法の下、イランでは死を意味する。石打ちの刑に処されることもある。

殺される確率が高いとわかっていて、彼女をこのまま強制送還させていいのか。国際難民法の述べる難民の定義を引用するが、「…人種、宗教、国籍もしくは 特定の社会的集団の構成員であるということ又は政治的意見を理由に迫害をうけるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために国籍国の外にいる 者」(難民条約第1条)とは、彼女のことではないのか。

彼女の強制送還は、国による殺人である。これは許しがたい犯罪であり、人命の冒涜だ。国際社会は黙って見すごしていけない。ペガーさんのために一人一人のアクションを求めたい。

【英語サイト】
インディーメディア:
http://www.indymedia.org.uk/en/2007/08/379580.html

シェフィールドのメディア:
http://www.indymedia.org.uk/en/regions/sheffield/2007/08/378415.html

ネット署名(英語):
http://www.petitiononline.com/pegah/petition-sign.html


【日本語訳ブログ】:
http://pega-must-stay.cocolog-nifty.com/blog/

※記事は刻一刻と更新されて、新しい記事が出ていますので、トップから別の記事も見られます

August 07, 2007

辞めないのは何故だ?

参院選明けから日本にまたまた一時帰国しています。尾辻かな子の愕然とするほどの得票の少なさに関してはすでに他のところに書いたため、それが発行されるまではここに掲載できません。ま、次あたりのブログでちょいと触れるかもしれないけど、それはさておき、アベはまだ辞めていません(笑)。ひょっとすると世論や新聞論評で叩かれ「辞めないのは何故だ?」と書くコラムがすぐ無駄になるかもしれないと思って様子見をしてたんですが、もう選挙から1週間以上経って、こいつぁ本当に辞める気がないようです。なら書いても大丈夫かと。しかしすごい神経、執着ですな。次のいない自民党のていたらくもひどいもんです。だいたいモリなんてのがまだキングメーカーを自称してるなんて、こっちもどういう神経をしてるんだか。

「国民と約束したことを実現するのが私の責任」と言い張る首相を見てすぐに連想したのがミャンマーのタン・シュエとかジンバブエのムガベとかポーランドのカチンスキ兄弟とか、いわゆる軍事政権や宗教政権といった強権・独裁政権の自称・国家元首のことです。同じ神経構造なんだな。

「国民と約束したこと」とはけっきょくは新憲法制定など例の「美しい国」造りのことなんでしょう。が、これは自民党総裁選での「約束」をアベが勝手に「国民との約束」だとすり替えただけの話。急に「約束」と言われてもこちらとしてはおいおい、聞いてないぞの寝耳に水の話。そういえばムガベなんかも「この窮状を打破すべく」といって20年も大統領の座に居座っている。「窮状」は自分のせいなのに。

続投の拠って立つ建前のもう一つは「参院選は衆院選と違い首相を選ぶ政権選択選挙ではない」というものですが、では国民はどうやったらその時々の政権にノーといえばよいのか。

そういえば政府・自民党は先の郵政国会・参院で民営化法案が否決されたとき、その肩代わりに衆院を解散して総選挙に討って出たのでした。時の政権がそうやって参院選と衆院選とをすり替えて“信を問う”たのなら、国民としても今回、参院と衆院を入れ替えて不信を突きつけたのも宜(むべ)なるかな。因果応報とはこのことぞ、と私なんぞは膝を打ったのですが、「小沢さんか私か」とまるで政権選択選挙のように訴えていたアベ自身はなぜかコロリと変身して言わなかったフリです。選挙後の共同記者会見がテレビ中継されてて、その点を朝日の記者が衝いてたが、どうも質問というか詰めが甘いもんだから、なんだか単にご機嫌伺いの三河屋のご用聞きみたいな話し方でした。他の記者も若いのか、みんな敬語の使い方ばかりが気になるような輩ばかりで、おいおい、どうして自民党総裁への質問がああも丁寧語オブセッションみたいになるんでしょうかねえ。情けないったらありゃしねえ。

アベなんてこれまでぜんぶがあの郵政総選挙での圧倒的な数を背景にいわば他人のふんどしで強行採決という相撲を取ってきた人。にもかかわらず口癖は「私の内閣」「私の政府」とやたらと「私」。自著にも「わたしがこうありたいと願う国をつくるためにこの道(政治家)を選んだのだ」とあり、この自意識というか「私物」意識が猛烈に強い。それがすべてを自分に引きつけて都合の良いように解釈してみせる強引さともつながるのでしょう。こんな激甚な議席減をも「国民からのしっかりしろという叱咤激励」と言われては「国民」も立場がありません。「再チャレンジ」ってのはありゃ自分のための標語だったって、そりゃ笑い話にもならない。まいったね。

自民党はこれまで国民政党として曲がりなりにも選挙結果や国民世論には謙虚であってきました。唯一「昭和の妖怪」といわれたアベ祖父の岸信介だけが安保デモを背景に当時の元首相3人が退陣勧告をするに及ぶほどの執着を見せたのです。今回も森・中川・青木の自民3人組が「辞任もやむなし」と進言しようとしたというのですが、アベに突っぱねられすごすご引き下がるなど、自浄作用はもうないのかしら。まあ、火中の栗を拾おうというヤツもいないんだろうがね。

改憲論を含め意固地なところもそっくり祖父から引き継いだ孫。これってひょっとすると「昭和の妖怪」が平成にバケ出てきてるんでしょうかね。連日30度を超える温暖化猛暑の東京で、いやな怪談が続いていますわ。