「死刑執行はベルトコンベヤー式で」
「死刑執行はベルトコンベヤー式で」 鳩山法相が考え
ってえashi.com早版での見出しが、いま見たら変わってた。
「死刑執行、自動的に進むべき」 鳩山法相が提言
と。
記事内容は以下のごとし。
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2007年09月25日11時41分
死刑執行命令書に法相が署名する現在の死刑執行の仕組みについて、鳩山法相は25日午前の退任記者会見で「大臣が判子を押すか押さないかが議論になるのが良いことと思えない。大臣に責任を押っかぶせるような形ではなく執行の規定が自動的に進むような方法がないのかと思う」と述べ、見直しを「提言」した。
現在は法務省が起案した命令書に法相が署名。5日以内に執行される仕組みになっている。
鳩山法相は「ベルトコンベヤーって言っちゃいけないが、乱数表か分からないが、客観性のある何かで事柄が自動的に進んでいけば(執行される死刑確定者が)次は誰かという議論にはならない」と発言。「だれだって判子ついて死刑執行したいと思わない」「大臣の死生観によって影響を受ける」として、法相の信条により死刑が執行されない場合がある現在の制度に疑問を呈した。
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「ベルトコンベヤーって言っちゃいけないが」というところのこの「言っちゃいけないが」があるんで救われた格好。しかし、これ、言外の意味では「言っちゃいけないが、そんな感じの方式で」という意味でしょう。それを酌んで変更後の文言も「自動的に進むべき」となった。ということは最初の見出しだって、鳩山さんの言いづらいところを代わって言ってあげた、ってことでしょうがねえ。でも、「言っちゃいけない」って言っている比喩を「言った」こととして見出しにするのは言葉尻というか揚げ足というか、意地悪じゃないかね、と夕刊早版デスク会議で朝日社内のだれかが言ったんだろうねえ。 まあ、鳩山側から文句出てくるでしょうねえ、と。
しっかし問題は、その鳩山の口から「ベルトコンベヤー」という単語が出てくることそれ自体なのだ。思考の歩幅のとんでもない雑さのことです。自民党にはほんと(民主党にもいますがね)、往々にしてこの手の輩がうんざりするほど多いんだわ。
一昔前までは「死刑制度があってもなくても凶悪犯罪の発生率は変わらない」という調査結果が主流で、私も、それじゃ死刑があったってそれは報復のためでしかなくて、未来のためにはなんにもならんじゃん、という意味で死刑廃止論者だった。しかしいまでは死刑制度が確実に凶悪犯罪への抑止効果を持つという調査結果が出て来ていて、さていったいどういうことなのか。
もしそれが本当なら死刑反対論の背骨はほぼ冤罪の可能性だけとなり、私のスタンスも変わらざるを得なくなる。殺人は、とにかくまずは死刑。デフォルトとしてそこから始まる。そんで、どんなけ情状を酌量できるか、そのよほど特別な例外点を引き算していく。もちろん冤罪の恐れのある場合は……云々、クンヌン、と。アメリカ生活が長くなったせいかなあ。刑罰は懲罰ではなく、更生のためだという、そういう理念だけじゃダメなやつも、たしかにいるんだものさ。そういうやつを国家が殺してくれなければ、被害者の遺族なりがそいつを報復として殺してしまって、新たな不要な殺人犯を生み出すことも想定される。国家が裁くこと=殺すことで、建前上は恣意的な仇討ちがなくなったということになっているわけだからして……。うーん、わからん。
しかし、ベルトコンベアとか乱数表とかって、それって屠殺場の発想でしょう。そういう連想、そういう言葉を死刑執行の比喩としてだって口に出せるやつは、なんか、どっかすごく重大なところで間違ってるわってまずは思うわけですわ。肝心なのは、上記の、「うーん、わからん」ということなのだと。
法相は、国民の名において死刑を執行するのです。上記の「うーん、わからん」を含め、死刑制度自体が内包する自家撞着のジレンマに、1億2千万の人間としての苦渋を込めて、判をつく、あるいは逆に判をつかない決断をするってのが当然でしょうが。死刑ってのはそういうところでかろうじて成り立っているもんだろうし、それを司る代表者ってのはそういう責任と重圧と(死刑に判をつかないことも含めて)に耐えるもんであることがアプリオリに求められる。だから安倍だって頓死したんだろうに。
そこを簡単に済ませてもらっちゃ違うんだってことを、どうしてこのバカはわからんのだろう。ってか、そういう機微についてバカだから政治家になれたんでしょうね。私がいつも感じる政治家という存在の、思考形態の空虚さというのの、典型がまた簡単に例示されてしまう形です。情けないというか呆れるというか。