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金儲けには向かない職業

昨年のニューヨークのときもそうでしたが、それにも倍するミシュラン狂想曲が新発売の東京版をめぐって渦巻いているようですね。前も書きましたが、伝統あると言ってもタイヤメーカーのたかがガイド本、金科玉条のように崇め奉るのも主客転倒。「お仏蘭西野郎に和食がわかってたまるけえ!」という感情論は別にして、東京に世界一多い☆の数というのも納得ではあるのですが、同時に、☆を奮発した分だけ本も売れるとふんだ商売っ気だってなきにもあらず。しょせん「ギド・ルージュ」も出版商売なのですから。(とくにカンテサンス、わたしにはあそこに3つ星を与えた背景がよくわからないのです。ありゃ、日本人審査員のプッシュなのか、話題作りなのか……)

まあそれはさて置き、☆付きレストランで難しいのはその“支店”です。なんといっても☆付きシェフはただ1人。いくらレシピを徹底しても東京のガニエールにはピエール師匠はたまにしかやってこない。世界に20もの店を持つアラン・デュカス御大は完全なセントラルキッチン方式を採用し、自身はもう料理しません。つまり、レシピを科学的に分析し食材を工場でできるだけ均一にそろえても、けっきょくはそれを客出しの直前で絶妙なバランスで組み立て得る優秀な現地シェフをいかにして見つけるかがカギなのです。

ですので、例えばゴードン・ラムジーはまったく同じメニューなのにロンドンの本店では3つ星、NYでは2つ星(ここもニール・ファーガソンがいなくなって、次のシェフがどうなのかわたしは試しておりませんが)、東京では星無しとなった。あのデュカスでさえ東京で失敗しているのは、ひとえにこの最後の現地シェフの才能の違いなのでしょう。しかしベージュは評判悪いね。

しばしば「芸術」とも形容されるこうした天才シェフたちの味は、ほんと、大量生産ができない。いくらレシピがあってもそれをかの天才たちのようにはコピーも再現もできません。

食いもんのもう1つの要素は、絵画や音楽などとも違って後世にはぜったいに遺せない、その時その場限りで消えるものであるということです。そのような一過性をこそ本性とする「芸術」はこの「食」以外にはありません。一過性を重んじるパフォーマンス芸術だってDVDで記録できるというのに、その本質が再現可能な記号にはなり得ず、どんなメディアででも記録できない「目の前の味」の現物勝負。食文化というのは、かくも特異なものなのですね。だから味と匂いのわかるテレビというのができないんですわ。

にもかかわらず、こうした食の天才たちへの報酬は、そう多くはありません。とくにこうしてトウモロコシや大豆やエネルギーまでもが金融上の記号として取引され、莫大なカネを生み出している格差バブル経済の現在、現物しか売れないレストランはいくら超一流・超高級であっても儲けの規模は知れたものです。

そこに、どうして他の連中と同じような大儲けができないんだ、と不満に思った「高級・一流・老舗」処があっても不思議ではないでしょう。それが船場吉兆であり、赤福であり、比内地鶏であり名古屋コーチンだったんでしょう。いずれも「名門」に比例する儲けを得て当然だと思ったわけでしょうな。

そこで現物ではないブランドという記号だけで売ろうとした。あるいはブランドという記号を誤魔化すことで現物を売ろうとした。そうやって現物を離れて記号をやりくりする以外に、ケタ違いの金儲けが可能となる手段はないのですから。しかし、現物を離れては食は存し得ない。その齟齬が表面化したのが偽装問題なんでしょうね。

ミシュランも所詮、こうしたブランド化のための記号の集大成でありますわな。ですんで、ご高齢の小野二郎さんの出てない「すきや橋次郎」は記号だけが一人歩きすることになる。

でも、食を志す人は、ゆめゆめそうした記号で金儲けできるなどと思わないほうがよろしいでしょう。与えられるのは客からの笑顔と尊敬だけ。それが現物しか売れない商売の宿命なのですもん。因果なもんですが、それを覚悟できる人だけが食の道に進む資格があるのだと思います。つらいねえ。

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