クローバーフィールド
火曜日に、噂の映画「Cloverfield」を観に行った。
ら、風邪引いた。フルーかもしれないが、日本人の私には風邪とインフルエンザの違いがまったくわからない。
悪寒がし、薬を飲んで寝ることに決めたら、あっというまにいま土曜日の朝の6時過ぎである。丸3日以上、寝てた。
おかげで治ったようだ。まだ頭がかんぜんには活動していないが。
で、クローバーフィールドである。
うーむ、やられた。
感興もクソもないが、怖い、というか、ものすごくカネがかかってるC級映画というか、とグダグダ相反するコメントでしか表現できないような映画である。
巷間言われているように、これは「ブレアウィッチ・プロジェクト」の手法で「9.11」めいた出来事を映画にしたものだ。
つまり、カメラはハンディカメラ1個。すなわち、主観的な視点しかないので、何が起こっているのかまったくわからない。これは事件の現場に閉じ込められたときに起こることだ。取材においては現場主義とか言われるが、じつは現場にいてはなにもわからない。情報は統合されて初めて意味をなすのだが、現場では部分部分の積み重ねのその要素が断片としてしか示されない。したがって、つうじょうは、なにが起こっているのかいちばんよくわかるのは現場にいる人間ではなくて、テレビの前で解説を見ている人間だ。
クローバーフィールドは、本来ならこのテレビ画面(スクリーンでも可)の前にいるはずの観客を「現場」に縛り付ける。他の視点、他の情報はいっさいない。したがって情報は焦点を結ばない。この辺が恐怖映画としてじつにcleverである。だから、なんで自由の女神の首っ玉が飛んできたのか、なんでダウンタウンで爆発が起きているのか、あの不気味な鳴動音が何なのか、軍が何をどう展開してしているのか、観客はさっぱりわからないのだ(ほんとはわかるけどね)。 これは、正確には恐怖というよりも不安というか、混乱というか、そういうものの総体としての居心地の悪さに近い。stress, irritation, annoyance, upset....そういうものを恐怖にくっつけて提供するのさ。cleverです。
でも、cleverなのはそれだけで、あとはカネに任せたCG特撮で80分をしのぐ(正確には60分ほど)。脚本は、無理がある。なにせ、カメラは1個。そのカメラをずっと写し続けなければならないが、現場にいる人間はふつうはカメラを放り出して逃げるだろ。おまけに、カメラが一カ所にいたら物語は進まないので、やたらと主人公たちはマンハッタンの中を動くことになる。ふつうは足がすくんで動けないだろ。
しかし、主人公はやはりアメリカン。すなわちヒーローなのだ。それも、恋人を救うためだけという、じつにポストモダンなこじんまりとしたヒロイックな行動でカメラを移動させる。これがC級映画のC級たる所以である。
だが、9.11を知っているわれわれとしては、いや、胸が苦しくなる恐怖感。それは最後まで続く。
とはいえ(ほらまた相反するコメント)、この「最後」がじつはわかっているのである。それは、私はこの映画の最大の失敗だと断言するのだが、もう、最初の最初に、なんとテロップで、この「最後」を“予告”してしまっているのだ。これはなんとも興醒めではないか? しかも「Cloverfield」という謎の言葉まで、何かを明かしてしまっちゃうのよ! そんな、自分でネタバレさせてどーすんの、と私なんぞ、冒頭でカネ返せと思ってしまった(とまでは思わなかったが、後にそう思った)。
この最初のテロップは、もう最後の最後に持ってきてもなんの不具合もなかったはずである。いやむしろそうでなければならなかった(力、入ってるね)。
そうしてそのテロップの後に、私たちは初めてこの映画のテーマ音楽が劇場に流れるのを聞き、おおおおお、と震撼するのである──どうしてそうしなかったかなあ。それだったら最後にまたヒエーッとなって笑うしかなかったのに。
日本でも春に公開予定。みなさん、タイトルロールが流れても席を立たず、じっとその音楽を聴いて、制作者のオマージュの対象に思いを馳せるべし。そう、あの映画は、本来はこうやって撮られてこそアメリカ版だったのである。
うーん、映画としての点数は50点。
でも、見て損はなし、って感じ。
相反する評価ですが、そうとしか言えませ〜ん。