二重の強奪感
「後期高齢者」という名称の付け方1つで、ああ、こりゃもうダメだわとわかるような日本の長寿者向け新医療保険制度ですが、なんでこんなに不評なのかという理由に、こないだ、納税申告をしながら思い当たりました。あれ、自分の財布に勝手に手を入れられた感覚なんですよ。それで一言の断りもなく札ビラを抜かれた。その、おいおい、ってな感じ。
ニューヨークに15年前に住み始めて不便だったことの1つに銀行口座からの自動引き落としがなかったことがあります。電話も電気も水道もぜんぶ請求書が届いて、それに自分でチェックを書いて切手を貼ってポストに入れて支払う仕組みです。税金もそうで、毎年4月15日までに自分で申告して自分で計算して自分で支払うのが原則。面倒なのにいまもそれはずっと続いている。これはどういう考え方なんでしょうね。
納税の義務というか責任というか、それってこの社会を自分たち自身が作っているんだという意気や自負みたいなもんでしょう。個人レベルではそういう意識は薄れてるかもしれないが、少なくとも歴史的にはそうだったはずだ。
そういやそれは裁判の陪審員制度でもそうです。これも自分のコミュニティで起きたことはコミュニティのメンバーで仕切るという、そういう直接民主制に関係してくる制度です。ニューイングランドにいまも残るタウン・ミーティングというのもその名残り。そこにキリスト教の慈善意識や参加意識が加わってくるからなおさらですよね。
対して日本では社会というものはお上のものであって、自分はそこに住まわせてもらっているというような感覚がなきにしもあらず。そこに近頃の都市部の隣人意識の希薄化があれば、マンションの自治会だって面倒だし町内会なんてなにをかいわんや。そこに「裁判員参上!」、いや「誕生!」と言われたって、なんだか唐突な気がして腰がひけてしまうのもむべなるかな、です。
そうそう、後期高齢者医療制度です。
そんな社会意識の違いがあるから、きっと政府は年金からの保険料天引きを「いやいやいちいち手続きする手間を省いてあげたんだ」と言えば済むと思った。そもそもだいたいがみんな自動引き落とし社会ですしね。
しかし自動引き落としだって主導権はこっちにありました。銀行だって夜間や他行での現金引き出しの手数料、ちゃんと「取りますがいいですか?」と聞いてきます。「承認」を指で押すのはいまや単なる儀式的手順ですが、少なくとも私たちはそれでこの財布の主人公は自分だと確認しているのです。
ところがこの保険料の天引き徴収、誰からもなんの断りもない。新聞報道はあったかもしれないが「オレには何の挨拶もない!」。これは「後期高齢者」などとしれっと言い捨てる政府の、まさに「お上」意識です。面倒くさくないようにあらかじめ取ってやってるんだ、というのは、説明不足とかいう問題ではなく根本的に考え方が間違っている。その証拠に、そんなこと、民間でやってご覧なさい、あっというまに総スカン、いやもっと言えば犯罪だって構成し得る。
年金って、社会との契約の果てに戻ってきた大切なお金です。それを了解かどうかの返事も待たずに財布に手を突っ込まれるように取っていかれた。しかも年金消滅のあの問題も棚に上げて。
いまの日本の行政府の怠慢と傲慢を象徴するこの二重の強奪感こそが、今回の大不評の下敷きなのでしょう。怒らんほうがどうにかしてます。