石田衣良の「娼年」という小説
石田衣良という作家を論じるにこの「娼年」という作品を通じてでいいのか、これしか読んだことがないのでわたしはまったくわからないけれど、どうなんでしょうね。昨晩、地下鉄の中でこれを読み終えての感想は、うーん、なんというか、そつのなさで終わっちゃってるなあ、という感じのものでした。
ヘタクソじゃあまったくないんだけど、いやむしろ文章としてはいろいろと頑張って記述してるなという感じもあるのだが、いかんせん、主人公を20歳の男の子にして、それをずいぶんともったいつけて大人なふうにも描いているのにもかかわらずやはりしょせんはガキなんですね。「女もセックスも退屈でつまらない」といわせているんだけど、それもカッコつけだけみたいな感じがする。底が浅いんだ。
こういうとき、この主人公に、他のいろんな傑作の同じような年頃の男の子をぶつけてみるとわかることがあるの。たとえばこの主人公の「リョウ」くんに、大江のバードをぶつけてみる、とか。するとさ、「リョウ」くん、微塵もなくなるのよ。薄っぺらな仮面がはがれる。どうでもいいじゃん、そんなこと、ってなる。
じつはわたしもむかし20代の終わりに、こうした秘密売春クラブを描いた短編を「新潮」に発表したことがあって、そこでもやはり精一杯、主人公の男の子を大人びた人物に仕立て上げたのね。わたしのそれはたしかぜんぜんセックスを描かなかったんだけど、それはセックスをたいそうなものとは思ってない主人公だったからで、しかもそのセックスってのはほかの人にはたいそうなものだっていうのを利用して秘密クラブが運営されているってことに自覚的だったからなのです。
でね、その思いはいまも正しかったんじゃないかって思うのだ。セックスって、たいそうなものだって描くにはほんと、大江みたいに徹底しなきゃならんでしょ。でもそれは虚構の粋を極めて真実にたどり着く、みたいな方法なんですね。でも、いまも(あるいはいまになって)思うに、売春に罪悪感とかを感じるのって、ちょっとセックスを買いかぶり過ぎなんじゃないかって思うわけさ。
これを意識化できたのはハスラー・アキラの「売男日記」っていうジャーナルを読んでからなんだけど、売春夫にとってセックスってのは相手が売春セックスにどう罪悪感を持っていようが、清らかで生温かい癒しの商品だってことなんですね。
愛のないセックスって言うけど、セックスを生殖から独立させたら、セックスそのものがコミュニケーションの手段になり得る。愛がなくたって、というか、ときどき、セックスに愛が邪魔だったりしません? その辺の意識操作というか、そういうのを経てしまうと、セックスを、愛といっしょでないと成り立たないとする卑下から解放してあげることができるのだ。友情でするセックスってのも、またいいもんなんじゃないかって思ったりするのよ。もっとも、相手の気持ちもあるのでなかなかそういうのは難しかったりするけどね。
そういうところまで考えないと、小説として成立しないんじゃないのかなあ。セックスをそうたいそうなものとして描くのって、ちょっと違うような気がします。いや、この「娼年」に描かれるセックスはそれじたいとしてはいいんですが、それを「リョウ」くんが感心してしまってはお里が知れる。そういう印象。
石田衣良って、どうなんでしょう。
小説は予定調和的に上手な書き手だっていう印象を持ちました(さっきから言うようにこれ一冊しか読んでないんだけどね)。それに目線がとってもやさしいふう。てか、やさしいでしょうって言ってるようなふう。偏見ないよ、って。そして、いろんなことにちゃんと答えが出るふう。そんでもって、このそつのなさっぽさのせいで、なんとなくうさん臭い感じがするんだよね。なんでも教えてあげますよ、ってな感じが災いしてるみたいな気がするのですわ。
さて、わたしのこの勝手な読後印象、間違っているならごめんなさい。
もう1冊くらい読むべきかな。
ま、縁があったら……。
失礼しました。