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August 31, 2008

頭打ちとなる石油

日本に帰る飛行機代に多額の燃料費なるものが加算されるようになったのはいつからでしたっけ? この燃費サーチャージ、10月からまた1万円ほど上がるんですね。つまり日航や全日空なら通常の航空運賃の他に燃費追加でさらに6万6千円を払う計算です。これって、ちょっとまえの往復格安航空券そのものの代金だった。いまはそれが倍以上出さないと日本に帰れないのです。参ったなあ。

それもこれも原油の高騰に原因があるのですが、石油がこのままなくなってしまった世界を考えるとぞっとしてしまいますわね。


石油がなくなったら、おそらく私たち人類は重力の呪縛に捕われてもう二度と長時間にわたって空を飛ぶことはできなくなるんじゃないでしょうか。ハンググライダーなんかは別ですが(とはいえあの羽根も石油からできた繊維でしたっけ?)、アメリカから日本に帰ること自体が不可能に近くなる。帆船はあるでしょうけれど石油エネルギーがなくてどうやって船自体を、工具を、釘を作れるのか? おまけに温暖化の気候変動で海は大荒れです。

自動車はかろうじて自然エネルギーから得た電力や天然ガスなどで動くかもしれないので「江戸時代みたいな生活」というわけではないでしょうけれど、それにしても通信や情報を含めてすべての分野の産業が極端なほどに縮小するのは間違いありません。あ〜、こりゃ大変だ。気づけば周りは何から何まで石油エネルギー頼りなのです。

さて、石油はほんとうになくなるんでしょうか。いえ、なくならないんですって。どういうことかっていうと、なくなるよりもずっと以前に、石油が使えなくなる日が来るのです。そっちのほうが差し迫った危機です。

というのは、埋蔵石油はまだあっても、採り出しやすい石油は採ってしまって、残っているのは、その石油を採り出すのに、その石油の持つエネルギー以上のエネルギーが必要になるような石油だけ、という時がいずれ来るってことです。そうすると石油を採取する意味がなくなってしまう。

これって、すごいことではないでしょうか。この世に金で買えないものはない、っていう前提で資本主義が発展してきているのだけど、その下支えになっているのがエネルギーです。よくわかんないけど、エネルギー本位制? 金10gを買うのに、金12gが必要、っていうのは論理矛盾だけど、石油10バレル掘るのに石油12バレルが必要という破綻が訪れるわけですね。

そういう、掘り出せない石油が増えてくると、石油生産がいずれ頭打ちになります。その生産のピーク、つまり後は年々産出量が減るしかないという「頂点」が、じつはもうすでに来ているのではないかという説があります。実際、埋蔵石油の発見は40年以上前の1960年代半ばにピークを迎え、その後の発見は減る一方。つまり私たちはいま、60年代以前に発見された石油のストックをどんどん食いつぶしているだけなわけです。増産はできるけど、その分、あとが続かなくなる。

いやまだ石油生産のピークには至っていない、とする石油会社などの研究結果もあります。しかしその研究にしても多くが石油生産はあと10年ほどで、天然ガスもあと20年ほどで頭打ちになる、と結論づけているのです。

そんなに早く? ならばもっとメディアが騒いでもよいのにとも思いますが、騒いでも事実が変わらないのだとすれば、パニック回避のためにも敢えて看過しているのかもしれません(あるいは事の重大さにほんとうに気づいていないか)。

すると……そう、冒頭の私の心配は杞憂ではなくなります。原油の現在の高騰はもちろん、石油の値段が実需によって決まっているのではなく、金融商品化しているせいです。つまり々として取引されているからなのですね。でも、単にそんな投機筋の一時的な利益狙いではなく、ともするともうほんとうに石油はなくなるのだという“インサイダー”情報が背景にあるのかもしれない……航空運賃への燃費加算は今後も廃止されることなく慣例化し、その額も増大する一方──それは究極の格差社会が訪れる前触れかもしれません。つまり、お金を持つものだけが石油エネルギーを享受できる社会です。

なんだか、「格差」なんていうなまっちょろい言葉じゃ捉えきれない新しい時代が来るような気もします。世の金持ちたちはいま、そんなときのためにせっせとカネを溜め込んでいるんじゃないか? 自分たちだけは生き残る、という本能。

「頭打ちとなる石油」を意味する「ピーク・オイル(Peak Oil)」というキーワードを憶えておいたほうがよいかもしれません。

August 30, 2008

ヒラリーの影こそが

アメリカの民主党全国大会が終わり、今週末からは今度は共和党の大会に話が移ります。

結論から言うと、民主党大会の主役はオバマではなくヒラリーでした。
いや、オバマなんですよ、もちろん。でも、違うんだな。大会最後を〆る84000人を前にしたオバマの受諾演説を聴いていても、ふむ、それはひょっとすると単に私がいまもまだヒラリーに固執しているせいかもしれないとは思うけれど、どうも、「まさに主役はオバマです」ってすっと腑に落ちる、というようなもんではなかった。

それは大きく、2つありました。いや、3つかな。

まずはあのペプシセンターで27日に行われた各州ごとの点呼投票(Roll Call)で、これはアルファベット順にアラバマから、はい、あなたの州は誰に何票ですかって聞いていって、ヒラリー3票、オバマ21票、とかって答えてゆくんですが、そのときにCのカリフォルニアになったときに、カリフォルニア州、「わが州はパスします」って言ったんですね。へ? え、カリフォルニアはヒラリーが取った州です。代議員数441人。これが投票を棄権? テレビで見ている素人の私は、「あらら、これって造反票?」って思うじゃないですか。

オバマの有利は変わらない。でもカリフォルニアの代議員441人は、アメリカ民主党の象徴的存在です。これがパス。

そうしてまた投票点呼は進んでいきます。否応なくオバマ票よりも、それと彼女自身がオバマへって呼びかけたのにも関わらず依然続くヒラリー票に注目が集まりますよね。獲得代議員数よりはもちろん少ないのだけど、でも、各州、ヒラリー残党はいるわけですよ。ああ、民主党の亀裂はけっこうのこってるかもな、ってその線で原稿書きの方向性が決まるかなって思いますわね。そうしたら、こんどはHIKJの「I」で、イリノイが「わが種はパス」ってやったんです。

は?

イリノイって、今度は逆にオバマの出身州です。シカゴですからね。もちろんこの州はオバマが取った。なのに、なぜ?

ここで、いままではこれほど大統領選挙の過程を注視していなかった私は混乱しました。
こういう流れを知らなかったんですね。はい。あはは。

そんで、Nまで来て、ニューヨークになったときにわかったんです。
NYも代議員数では281人、これもヒラリーの州です。さて、どんな票が出るか、と思ったら、代議員団を差し置いてヒラリーがマイクに向かって「動議」とやったわけ。「もう、満場一致 acclamation でオバマを指名することを動議とします」って。それでニューヨークの票の何たるかも言わずに、議長がその動議を認めて、会場の拍手でオバマ指名を決めたわけです。

つまりね、その前までの段階でオバマは過半数の2118人に届いていなかったんですが、カリフォルニアとイリノイを足していればとっくに過半数に届いてしまっていたわけです。そうすると、ヒラリーがこの動議を出す必要はなくなるのね。この動議を出して党の満場一致でオバマと決めるためには、カリフォルニアとイリノイが投票してはいけなかったわけですよ。すごい操作でしょ。それも、ヒラリーのカリフォルニアと、オバマのイリノイを双方ともパスさせて、それでどうにも注目を浴びるニューヨークのロールコールの時点でヒラリーの動議で決める。3つのバランス。

ふむ、なるほど、そういうことね、というわけです。これ以上の演出はない。
これもそれも、ヒラリーがオバマを候補に押し上げた、ということのプレゼンテーションなのですね。

つぎに、まあ、オバマの演説です。27日のジョー・バイデンの演説のあとで登場してきた時も、そして28日の受諾演説も、演説はヒラリー・クリントン、ビル・クリントンの話から始まりました。その両クリントンとも、じつにみごとなオバマ支援演説をやってのけて、さすがにクリントンだなと思わせたものです。それをきちんと受けて、1800万というヒラリー票を味方に付けようというのは当然のことでしょう。なにせ、ブッシュの選挙では400万票の草の根保守キリスト教者たちが鍵を握った。1800万票は何をか言わんや、の数です。

ところで、この数日間の演説で最も感動的だったのはじつは私にとってはジョー・バイデンの息子のボー・バイデンの話でした。デラウェアの法務長官をやっている若い彼は、といってももう40代ですが、彼の一家を襲った交通事故の話をとても誠実に引用しながら彼の父親の人となりを紹介していました。連邦議員に当選しながらも入院している彼と次男に付き添うために議員辞職を考えていたということ、誰がなんと言っても彼のベッドの脇にいようとしていてくれたこと、その語り口もあって、私にはジョー・バイデンその人の演説よりも感動的でした。

ただ、ボー・バイデン演説以外の焦点は、やはりヒラリーだった。

これは29日の共和党の副大統領候補発表のときにはしなくもまた明らかになりました。

指名されたのはアラスカ知事のサラ・ペイリンです。44歳の彼女はだれにとってもサプライズでした。
しかし、最たるサプライズは彼女の演説でした。

彼女は妊娠中絶も反対、同性婚にも反対のバリバリの右派です。おまけにライフル銃は持っている、狩猟はスポーツとして大好き、という全米ライフル協会会員。このNRA400万人の票も大きい。経済政策も保守派です。アラスカの油田開発もオッケーです。この4月に生まれたばかりの男の子はダウン症で、彼女は彼を「神の恵み」と呼んで、中絶反対派の面目躍如といったところです。まあ、わたしもそれには異存はないんだけど。

で、彼女がオハイオの演壇で何と言ったかというと、自分がここに立っているさまざまな感謝の対象として「ヒラリー・クリントン上院議員」の名前を口にしたのですね。「クリントン・上院議員は女性にとってのガラスの天井に1800万のヒビが入ったと言った。それを今度は私たちが打ち破る番だ」とやったんです。

さすがにこれは、共和党の支持者の集まりの会場にヒラリーの話なんぞ聞きたいやつなどいなかったでしょうし、とても場違いな感じだったんですが、図らずもマケインの意図が見え透いたわけで、その意味でとても面白かった。つまり誰もが知っているように、マケインもヒラリー票が欲しいんですね。彼女が自分でこの演説を書いたとは思えません。もちろんそういう趣旨の発言をするのに、マケイン自身の許可があったことはたしかでしょう。

ペイリンはほとんど無名で、その意味では共和党支持者には落胆する人も多かったでしょうが、マケインとしてはオバマの47歳に対しての44歳、ヒラリーに対しての女性、そうして共和党の勝利の鍵を握る保守派への媚としての彼女を選んだのです。マケインはもともと共和党では一匹狼の中道だった人なのに、大統領候補になってからどんどん保守化していきました。まるで一匹狼の看板を下ろすように、同性婚に関しても急に口をつぐむようになりました。それは共和党候補としての宿命なんでしょうが、右傾化して票を獲得するならば大方の副大統領の予想はモルモン教のミット・ロムニー、あるいは南部バプティストのハッカビーかとも思われていました。でもそれでは新鮮味に欠けるし、ヒラリー票を奪えない。そういうところからのペイリンの選択だったのでしょう。

つまりここでもヒラリーなのです。

さて、そのヒラリーの扱いとして、オバマ民主党はとてもうまくやったと思います。一時の激情からマケインに投票すると言っていた人たちも、あと2カ月の間にはかならずオバマというか民主党支持に戻ってくると思います。ヒラリーの支持者が、ペイリンごときの撒き餌で最後までマケインについていくとはぜんぜん思えません。ペイリンって、ヒラリーの支持者がじつは最も嫌うようなタイプの女性なんじゃないかなあ。だいたい美人コンテストに出るってこと自体、ダメでしょう。

さてそのヒラリー、どう出るんでしょうね。オバマが盛んに持ち上げたマイル・ハイ・スタジアムでの受諾演説ではヒラリーもビルもその場にいませんでした。

彼女は、次の大統領選を視野に入れている。そう言う人は少なくありません。
マケインが当選しても2期目はないでしょうから、つまりはオバマが敗退して、ってことですが、そのときつまり2012年の大統領選挙では、ヒラリーが出てくるはずだというのですね。マケインがペイリンに禅譲する、というシナリオも考えられますが、昨日見ていたかぎりでは、ペイリンはそんなタマじゃないってことでしたし。まあ、彼女は、あまり頭よくないわね。あれはヒラリー支持者だけじゃなく、本来の共和党支持者からも反発を受けそうって気がします。これから2カ月のあいだに、副大統領候補感のディベイトなどで、きっとぼろが出てくると思います。

August 24, 2008

マシュー・ミッチャムが金メダル!

北京五輪でゲイだと公言している唯一の男子選手(オープンリーレズビアンは9人いますけどね,男はカムアウトできないんだなあ)、オーストラリアのマシュー・ミッチャム(20)が、10m高飛び込みで、圧倒的な強さを誇る中国勢の一角を崩してなんと見事に金メダルを獲得しました。
現在発売中のバディに彼のこれまでの歩みを書いていますので合わせてご笑読を。

決勝は、ものすごく劇的な展開でした。
18日の3mの飛び込みではマシューは決勝にも残らない16位だったんだけど、23日の10mの決勝には2位で乗り込んでいました。「まあ、ダメ元だと思ってリラックスして、ただこの瞬間を楽しもうと思った。メダルなんて、ぜんぜん考えてなかった」と話しています。

で、決勝の第1回ダイブは平凡なもので7点台、8点台の得点で9位でスタート。先行きが危ぶまれます。
しかし第2回の飛び込みで3回転半のサマーソルトを決めて10点満点を付けたジャッジが4人も。これで一気に2位に浮上したのです。
以後5回まで1位は中国の周がキープ。マシューは2位で0.8ポイント差で追うけれど、このままでは逆転は無理かと思われました。

ところが最終ラウンドで周が痛恨のミス。なんちゅうの、3回転半後ろ宙返り? 難易度3.4のその着水で体が曲がったのね。判定は6,7,8点台とまちまち。

ここでマシューは勝負に出ます。なんと難易度3.8と周を上回る難しい飛び込みを敢えて選び、しかもひねりも空中姿勢も完璧は着水。今度もまた4人から10点満点! これで112.10点を獲得し、周を4ポイントも追い抜いてみごと金を獲得したのです。

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これはゴールドメダルを決めたマシューの飛び込みです=NYタイムズなどから。

水から上がったマシューは得点を見て両手を突き上げて歓喜、しかしすぐに膝から落ちて泣き始めました。そうだわねえ、鬱病にもなったつらい練習からの復活だもの。恋人のラクランもマシューのお母さんといっしょにもちろんこの会場で彼を見つめていました。

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今大会、中国は飛び込みで8つの金メダルを独占するつもりでいました。その夢が20歳のオープンリーゲイの男の子に破られた。

飛び込み選手の選手生命のピークはふつう20歳代半ばです。つまり、マシューは次のロンドンでも連覇を狙う、いやその次の16年の五輪でも登場してくるでしょう。

なんだか、関係ないけど、うれしい。
ダイビングの金は過去に20年前のソウル五輪で連覇のグレッグ・ルゲイナスがいるけれど、彼は金を取ってからのカムアウトでした。それに比べると、時代も世代も遅々としながらも確実に変わっています。うーん。感慨深いなあ。

August 13, 2008

うるわしき毒

スポーツというのはじつはジャーナリズムの中で最も記述の難しい分野ではないかと思っています。中立が旨である報道の中で、スポーツ記事だけがそのカセをはらってなんとも身びいきだったりします。したがって、NBCの五輪中継を見ていてもあんまり面白くないということになります。日本がさっぱり出てこないしね。主役ではないのですから。

しょせん私たちは自分の知りたい情報しか知りたくないのかもしれません。たとえば北京五輪の射撃の表彰台で、銀と銅を獲得したロシアとグルジアの女子選手が頬にキスし合って抱き合ったというニュースが朝日のウェブサイトで紹介されました。

ご存じのようにロシアとグルジアは南オセチア自治州の統治をめぐって戦闘状態に突入したばかりでした。そして朝日のサイトは2人仲好く並ぶ写真に「スポーツは政治を越える」というロシア選手のコメントを引用し、見出しも「表彰台に友情の花」と紹介していたのでした。

スポーツは政治を越え「ない」ことはだれもが知っています。それどころかスポーツはつねに政治に利用される。中国での五輪の開催はまさしく、世界の先進国社会に正式に仲間入りしたい中国の政治的思惑と、中国も五輪の体面上、国際的に反発を買うような外交決断や人権侵害は避けるようになるだろうといった西側の政治的思惑の交差したところに成立したものです。

にもかかわらず「スポーツは政治を越える」と言うのは、私たちがつかの間のそんな幻想を信じたいと思っているからでしょう。シビアな現実世界の、それは一服の清涼剤めいて、私にはそれを責める気はありません。私も新聞記者1年生のときは「読者が感動できる物語を探して書くんだ」と先輩記者に叩き込まれた口です。

かくしてオリンピック報道は往々にして選手やその周囲の美談と感動の根性物語になります。

そんなことをつらつら考えていると、今度は五輪開会式でソロを歌った「天使の歌声」の女の子がじつは口パクで、舞台裏ではその子よりも見た目のそうよくはない、しかし歌はうまい別の女の子が歌っていたのだというニュースがありました。なるほど、世界が見たいだろうと思うものを見せる、それはスポーツ報道に限らない。新聞なら美談で、テレビなら画面上の美しさ。それがなんで悪いんだ、というところでしょうか。で、同じくあの開会式の花火のCGです。ふむ、徹底していますな。

しかし日本だってエラそうなことはいえません。ヤラセと演出の違いに敏感なのは、とりもなおさずヤラセでも視聴率が取れるという現実が厳然として存在するからです。中にはヤラセとわかっていてわざとそれを楽しむなんていう高度な視聴技術さえ新しい世代には育ってもいる。

視聴者も読者も、そうやって美談という名の毒消しを求める社会は幸せな社会なのでしょうか。そしてあるとき、美談そのものが現実を直視しないうるわしい毒になって蔓延している。

新聞記者時代、もう1つ大先輩から教わったことがあります。「ときには読みたくないことも書かねばならない。その社会にとって都合の悪いことも書かねばならない。あるときは害であることですら書かねばならない。なぜかわかるか? なぜなら、それが事実だからだ」

中立とか中道とか、そういうバランス感覚の問題ではなく、あるいは社会の木鐸なんぞといった大仰な構えからでもなく、それが単に「事実だから」というだけの単純明快な基準に、若かった私はまさに目からウロコが落ちた思いでした。

五輪のドラマが続いています。NBCやNYタイムズから知る数少ない日本人選手の活躍ぶりは、あんまり面白くないし物足りなくもあるけれど、逆に熱狂的にあおられる感じもなくて、スポーツ観戦のなんだか不思議に新しい経験です。