あの日は朝の7時近くまで仕事をしていて、それからベッドに入ってちょうどいい感じで寝ているところに東京からの電話が入って叩き起こされたのでした。それは新聞記者の後輩で、また与太話でもしようと電話をかけてきてるんだと思って「いま寝たばっかりなんだよ〜」と愚痴ったものです。そうしたら「起きてテレビをつけてみてくださいよ」と言います。「なんで?」「とにかく、テレビをつけて。大変なことになってるんですよ」。
そこでベッドからはい出してテレビをつけると、WTCが映っています。煙が出ている。見ると側面に斜め一文字に穴があいている。
ことがそれほど大事だと思わなかったのは、CNNのアナウンサーも、どの局のアナウンサーも、(こちらのアナウンサー、リポーターはみなそうなのですが)ぜんぜん興奮したそぶりを見せないで淡々とリポートしていたからです。そのうちになんか別の黒いものが画面に現れ、それが背後からもう一棟にぶつかった。
テレビは小さく「あ」とでも言ったのだったろうか。
寝ぼけているわたしには何が起きているのか即座には理解できませんでした。それが生放送であることもじつはよくわかってなかったのかもしれません。
以下が、翌年までに私が取材し、まとめた、あの日に起こったことです。
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◆09/11 08:46am
●ブルックリンの緊急通信センター 通信専門員ジャネット・ハーモン
いつもと同じくよく晴れたきれいな朝だった。ニューヨ−ク市マンハッタン区の東対岸、ブルックリン区にある緊急通報センターで、通報受信オペレーターを15年間務めてきたベテラン通信員ジャネット・ハーモン(53)はいつもの朝のシフトで受信モニターに向かっていた。
緊急通報センターは日本の110番と119番を統合したすべての種類の緊急電話を受け取る。米国の緊急電話番号は911番。1日平均3万2000件、年間では1200万件近い電話がかかってくる。受信装置はコンピュータと直結した105台。そこに常時最低でも60人が待機している。その背後には多民族都市ニューヨークならではの140カ国語に対応する通訳も控えている。
そのとき、一本の電話が鳴る。70人ほどがシフトに入っていただろうか、たまたまハーモンがその電話を受けた。そのとたん、「オペレーター、オペレーター!」と緊迫した女性の声がヘッドフォンから飛び込んできた。「お願いだから、どんなことがあってもこの電話を切らないで!」。事件事故の通報を受ける場合、最も肝心なのは相手を落ち着かせることだとハーモンは知っている。「マダム」とあえて低い声でハーモンは応対する。「落ち着いて。どこからかけているの?」。女性が答える。「いまブロードウェイを車で下っているところ。いま、目の前で、世界貿易センターのタワービルに747(実際はボーイング767型機)がぶつかったの! ビルが火の玉なの! わざとぶつかったように見える!」。予断を挟まないこと、聞いたことそのままをコンピュータに打ち込んで、主観を交えないこと。車内での携帯電話なのだろうその女性の声の向こうから、同乗しているらしい男性の声が叫んでいるのが届いた。「全員をよこせと言うんだ! とにかく、警察も消防も全員を出動させてくれと言うんだ!」。
ジャンボ機がぶつかった? 確認する自分の声がうわずっているのが自分でもわかった。そのとき、周りの受信モニターが連鎖反応のようにいっせいに鳴り出した。当の貿易センターの高層階から「閉じ込められた」と助けを求める電話もあった。応答する70人のオペレーターの声が受信センターのフロアで低く強く渦を巻きはじめた。
◆09/11 08:55am
●ブルックリン橋 NY消防長官トーマス・ヴォン・エッセン
前夜やや夜更かしをしたせいもあってトーマス・ヴォン・エッセン消防長官はその日の朝のピックアップを8時半でいいと運転手に告げていた。自宅から消防本部のあるブルックリンには、マンハッタン島の東岸を南北に走る高速道FDRドライブを通ってブルックリン橋を渡る必要がある。
夜更かしをしたのは31年前、初めて消防士になったときに赴任したサウス・ブロンクス区の第42はしご車隊で懇親会が催されたからだ。かつての同僚や師と仰いだ先輩たちと旧交を温めた翌朝の空は、やっとやや秋めいてきたようで爽快だった。そうしてブルックリン橋にさしかかろうとしたとき、何気なく見上げた窓の外に、何かが見えた。
「あれは、雲かな?」とエッセンは運転手のジョン・マクラフリンに声をかける。ちらと視線を上げたマクラフリンはハンドルを握ったまま「いや、仕事のようですな」と答えた。だが、そのときはまだマンハッタン・ダウンタウンのビル群が視界を遮り、その黒い雲の立ちのぼる場所がどこなのか、見当はつかなかった。
いったいどこなんだ、と見つめる西の空がビル群の間から覗いた。目を疑った。世界貿易センターの北タワーにぐっさりと穴が開き、そこから炎と黒煙が立ちのぼっていた。
「なんてこった! 貿易センターに飛行機がぶつかったみたいだ!」とエッセンは叫んでいた。
そのころすでに、ブルックリンの緊急通報センターのジャネット・ハーモンの打ち込んだコンピュータ情報は出動センターのモニターに流れ、消防本部の指令系統から第2次出動命令が発信された。それは十数秒後には第3次、第4次出動に、そしてたちどころに最大動員の第5次出動に変わった。
マクラフリンは長官専用車の消防無線のスイッチを入れた。「ワールドトレードセンター、北タワーで爆発」。交信が錯綜する。第5次出動。エッセンは寒気を覚えた。黒く不吉な煙の噴出を見つめながら、「1000人単位の犠牲者……」とつぶやいたことを彼は憶えている。
◆09/11 08:58am
●FDNY ニューヨ−ク市内に位置する212消防署
NY消防本部は全部で消防車隊が203隊、はしご車隊が143隊、ほかにも泡消火部隊の10隊などで構成され、人員は計1万1500人。その朝の勤務者はおよそその半数だった。夜勤と朝番との交替シフトは朝の9時。だがその日、朝のシフト交替はついに終わらないままだった。
NY市警の警察官らは「ニューヨークの最たる精鋭たち(Finests)」と呼ばれる。対してNY消防本部(FDNY)の消防士たちには「ニューヨークで最たる勇者たち(Bravests)」という尊称が付いている。あまたの大火災にも恐れることなく立ち向かい、幾多の犠牲者を出してもつねに生活者の味方でありつづける消防士たち。1966年にはマンハッタン・ダウンタウンの「23丁目大火」で一度に消防署長2人を含む12人の消防士が殉職したこともあった。それが過去最悪の出来事だった。
最初の出動命令は世界貿易センター(WTC)にほど近いグリニッチ・ストリートにある第10消防車隊に出された。「WTCで爆発」との報。その出動命令はすぐさま市内全域に拡大した。ニューヨーク中にけたたましいサイレンとクラクションの音が鳴り響いた。
通常の火災はまず担当地区の消防車隊が対応し、そこにはしご車隊などが増員される。それで対応できないときはその地区全体の消防隊が「大隊(バタリオン)」として派遣される。それでもだめならより大きく地域(ディビジョン)全体の消防署の出動となる。そしてそれでも困難なら、市内全域の消防士が現場に急行する。しかしそんなことはかつてなかった。
第一陣の現場到着隊は第10消防車隊を含みいずれもWTCに隣接する地区の消防署だった。夜勤を終えて交替して帰宅するはずだった60人の消防士たちもその中に加わっていた。現場に急行する消防車には通常の2倍の消防士たちが乗っていた。もっとも、午前9時29分には非番を含め市内の全消防士に出動および待機命令がかかったから、すでに非番もなにもあったものではなかった。現場ではだれが出てだれが出ていないかを点呼するゆとりもなかった。無線機も持たずに急行する者も多かった。周辺ビルまでもが炎上しはじめていた。どこから手を付ければいいのか、この道数十年のベテランたちでさえもたじろいでいた。現場は混乱を極めた。だが、混乱を見せてはいけなかった。逡巡を振り切るように、勇者たちは各自行動を起こしたのだ。ある者たちは自分の経験だけを頼りに果敢にタワービル上層階へと階段を駆け上っていった。数千人が避難を待っているのだ。
まさか、この世界最強のビルがすぐにも崩壊しようとは、その時点ではだれも考えていなかった。
◆09/11 09:03am
●2機目が南タワーに突入
消防、警察、救急隊の全体が事態の重大さに対応しはじめたとき第2弾が待ち受けていた。マンハッタンの南側から轟音とともに超低空飛行してきた航空機が、今度は無傷だった南タワーに激突したのだ。こちらの衝撃は北タワーよりも甚大だった。飛行機の速度は1機目よりも160キロ速い時速800キロ。総重量160トンのボーイング767は南タワーの78〜84階部分の南東のコーナーを切り裂くようにぶち抜いた。3万6000リットルものジェット燃料がビル内部に注ぎ込まれた。3分の1が衝突時に一瞬のうちに引火し大爆発を起こし、残り3分の2がビル内部で気化して充満するか火とともに伝い落ちていった。おそらく、そのとき何十人という人間たちが熱と圧力で蒸発した。
南タワーにも即座に第5次出動命令が発動された。北タワーに展開していた消防士たちがここにも駆け込んでいった。数千段もの階段を駆け上がり、内部の数千人を安全に避難誘導するために。
だが、その時点で両タワービルの火災温度は1100度にも達していた。フロアを支える鋼鉄のトラス群が熱にやられて溶けはじめていた。
熱と煙に耐えきれず、高さ300メートル以上の上層階から自ら飛び降りる人も続出した。消防士にもすでに負傷者が出ていた。なにより、トラック大の瓦礫が断続的に地上に降り注ぎ、後続隊は燃えさかるタワーに近づくことも難しくなっていった。
◆09/11 09:59am
●南タワー、「もっと部隊をよこせ!」
2機目でこれはテロだと断じられた。北タワーに1機目が突入した際、南タワーではこちらは被害がないから各自自分のデスクに戻るようにと館内アナウンスが行われていた。だから南タワー上層階で相当数の人々が閉じ込められてしまったのだ。
そこに真っ先に飛び込んでいったオリオ・パーマー大隊長とロナルド・ブッカ消防隊長が、40分をかけていまやっと78階まで徒歩でたどり着いていたのだった。これまで消防士がたどり着いたのはおそらくせいぜい50階までだったろうと思われていた。だが、翌2002年8月に見つかった無線交信のテープに、激突部分であるまさにその78階で、多数のけが人の救出にあたる彼らの声が分析されたのだ。
午前9時45分ごろの録音。パーマー大隊長が78階にいたけが人数人を含む10人のグループを41階のエレベータまで向かわせたと連絡している。そのエレベーターが、最後まで動いていたただ一基のものだった。
南タワーを担当したドナルド・バーンズ指揮官の声も残っていた。「もっと部隊をよこしてくれ!」と何度も繰り返し叫んでいた。しかし、救助に向かった消防士たちは階段を降りてくる避難者たちに行く手を阻まれ、さらにいったいどちらのタワーのどこに行けばよいのかも混乱したままだった。
14分後、午前9時59分、南タワーが内部へ向けて沈み込んでいった。崩壊速度は時速320キロ。ビル全体が崩落するのに10秒しかかからなかった。パーマー大隊長らの交信はそこで途絶える。41階に向かっていたはずの被救助者たちにとっても、14分という時間は外に出るにはあまりにも短すぎた。
その直前、ワシントンDC郊外では国防総省にボーイング757が突入していた。さらに午前10時10分、ピッツバーグ郊外では別のハイジャック機が、明らかに乗客の抵抗に遭って突入目標に達することなく墜落した。
◆09/11 10:28am
●北タワーも……2万5000人を退避させて
午前10時28分、そして北タワーもついに崩落した。立ちのぼる粉塵と炎の下でなおも消防士間の無線交信は雑音混じりで続けられていたが、それらもいっせいに静まりかえった。動けなくなった携帯者の位置を知らせるPASS(個人警報安全システム)モニターの音だけが瓦礫の下から聞こえていた。だが、崩壊とともにそれらは消防士たちの手から放れていた。音の聞こえるところに消防士はいなかった。
消火用水を供給する水道本管ももう破断されて機能していなかった。近接のハドソン川から消防船が水を供給していたが、それではもちろん十分ではなかった。WTCの計6棟が崩落または炎上していた。約2万坪が燃え上がっていたのだ。
ピート・ガンチ消防本部長、ウィリアム・フィーハン消防第一副長官、レイモンド・ダウニー救助(レスキュー)本隊長が殉職した。大隊長の18人、消防副隊長の77人も殉職した。第1レスキュー隊は消防士11人を一度に失った。第20はしご車隊は7人、第22消防車隊は4人を失った。消防全体では343人が亡くなった。消防車など装備の損壊損失は4800万ドル(当時レートで5700億円)に及ぶ。しかし、彼らの犠牲によって世界貿易センターの2塔からは計2万5000人が脱出できたのだ。
火は以後、崩壊した地下で4カ月間にわたって燃え、くすぶりつづけることになる。