死んでゆく新聞
NYタイムズの本社ビルの一部が売りに出されたり、有名なサンフランシスコ・クロニクル紙が廃刊しそうだとかある新聞は全部オンラインに移行するだとか、「旧メディア」としての新聞の危機が叫ばれています。とはいえ、心配しているのはわたしたち新聞に関わっている者たちだけかもしれません。42%のアメリカ人は自分の住む町からそこの地方紙がなくなっても困らないと答えたことが最近の世論調査で明らかになりました。
べつにアメリカに限った話ではありません。日本でも新聞離れが言われて久しいし、じっさい、若者たちはニュースのほとんどを無料のオンライン新聞で得ています。あるいはニュースそのものをどこからも得ていないのかもしれませんが。
先月、創刊150周年を目前にしたコロラド州デンバーのロッキーマウンテン・ニューズ紙が廃刊に追い込まれました。最終発行日のその日、同紙のウェブサイトには「ファイナル・エディション(最終号)」と称して同社編集部の様子や記者・従業員へのインタビューが動画で掲載されました。
20分ほどのそのビデオで、ある記者が悲しそうな顔で訴えていました。
「新聞がなくなったらこれから誰が質問するんだ? ブロガーは質問なんかしないよ。それでいいのか?」
新聞はこれまで、莫大な金と時間を投資して有意の若者たちを訓練し一丁前のジャーナリストに育て上げてきました。時の権力のさまざまな形に「質問」の力で対峙できるように訓練してきたのです。新聞はしばしば「ペン」に喩えられますが、ペンよりも以前に権力の不正や怠慢や欺瞞を見逃さずに質問し調べ上げる「取材」の力によって支えられていたのです。もちろんその途中で権力にすり寄ったり自分を権力と同一化して弱い者いじめに加担するエセ・ジャーナリストも数多く生まれましたが、勘違いするやつが生まれるのはどの業界でもまあだいたい同じようなもんでしょう。
とにかくいまインターネット上にはそうして得られた情報が無料で開示されています。そうしてそれらを基に、多くの第2次、第3次情報が取材調査もしない手先の情報処理だけでえんえんと生み出されている。
そこには「ペン」だけがあって、その事実を支える種々の努力が欠如しがちです。そうすると何が起こるか? 「ペンは剣よりも強し」ではなく、ペンは剣と同じくひとを傷つける怖いものにも成り果てる。それは「2ちゃんねる」などの中の一部掲示板で繰り広げられる「あらし」や「まつり」にも如実に表れています。先日の日テレの「バンキシャ」虚偽証言タレナガシ岐阜県庁裏金作り報道も、結局はネット情報だけでやっちゃった結果なんでしょう?
だれが事実を検証するのか? だれが権力に対峙できるだけの知識と手法とを駆使して真実を知らせるのか? それはよほどの「ブロガー」でなければできないでしょう。もちろんそれは、よほどのジャーナリストでなければできないことでもありますが、「よほどのブロガー」はそんな「よほどのジャーナリスト」たちの第1次情報をネタ元の1つにしているのも確かなのです。
新聞を殺してもよいのか? そんな問いはしかし無効です。新聞はいずれ死にます。さらに、新聞が何ほどのもんだという批判もあるでしょう。しかし社会構造として新聞社が組織的に担っていた対抗権力の大量生産能力には小さからぬ意義があったと思うのです。
そうやって新聞が行ってきたジャーナリストの製造、つまり「質問」と「調査」の新しい担い手を、わたしたちの社会は早急に見つけ出さねば、あるいは育て上げねばならないのだと思います。
無理かもしれませんけどね。