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October 27, 2009

メディアの立ち位置

鳩山の所信表明を読みながら、初めて欧米の政治家指導者たちのような、個人的に何を伝えたいのかがよくわかる内容だったと思いました。まあ、鳩山という人はこないだの国連気候変動演説でも理念を語らせるとなかなか雄弁な政治家で、この所信表明もきっと自分で草稿を練ったのでしょうね。問題はさて、果たしてここで言ったうちのどれほどが具現するかということだというのは当然でしょう。

ところで、自民党の谷垣総裁がこれに対して応じる民主党議員を指して「ヒトラーユーゲント」を想起させた、というのはやや無理しゃりの感があります。まあ、自民党政治の残したものを指して「戦後行政の大掃除」「無血の平成維新」といわれれば何がなんでも批判を言い返さねばならないのでしょうが、なんだか表面的な批判ばかりの普通の平凡な野党に成り下がった感じです。ここはひとつ、字面の揚げ足取りではない、本質的な批判、政治のあり方と政府のあり方を常に見据えた論戦を挑んでほしいんですが……。

でもね、もともと現在の多くの社会問題は確かにすべてほとんど自民党の政治責任を問われるような種類のものですから、なかなか攻めづらいところもあるんでしょう。だからこそ、今度の執行部は過去の自民党執行部と決別するような布陣であるべきだったのです。民主党を攻める前に、まずは自分たちの過去を責める、みたいな。そうして初めて民主党攻撃が出来るというものなのですから。

谷垣という人は宏池会という「政策に強いが政局に弱い」派閥の出だからこそ、こんな廃残の自民党を任されちゃった、みたいなところがあります。かつては「保守本流」と呼ばれた派閥だったのですが、今の自民党内ではハト派、リベラル派、知的、という場末な印象。もっともその線こそが臨まれているのだからそれでやりゃあいいのに、それじゃ民主党とかぶるところが多すぎて(じっさい、政界再編となれば真っ先に民主党のリベラル派と結ぶのは彼らだったはずですから)、戦略的にはもっと保守・反動に傾かなければならない、という事情があるわけです。そこで飛び出したヒトラーユーゲント発言なのかもしれません。

同時に、日本のメディアの書くこと言うことの首尾一貫のしていなさというか、表面的なことのあげつらいがなんだか最近すごく目につきます。これも今回の政権交代の副産物か、メディア側も混乱してるんだなあという印象です。

自民党に対しては戦後50年以上も政権の座にあったわけで、そのキャラも定着していたために各メディアの立ち位置はある程度は定まっていました。ところが今度の民主党政権には、どう対応すべきかはまだ場当たり的で、とりあえずは批判的ツッコミをしておけば無難か、みたいな報道の仕方が目につくんですね。

最近の例で言うと、日本郵政への斎藤次郎元大蔵事務次官の社長就任。「脱官僚、天下り根絶」の看板が早くも揺れたと騒ぎますが、そもそも「杓子定規の官僚外しは不合理。優秀な人材なら官僚でも登用して使いこなすべし」というのがこれまでのメディアのだいたいの論調でした。

しかし今回の斎藤元次官の起用批判は、起用そのものに対する是非というより、政権の天下り禁止路線との不整合、さらには民主党が野党だった昨年3月の、武藤敏郎元大蔵次官の日銀総裁起用の際の国会での不同意との齟齬に対する批判なのですね。

で、斎藤の起用はそもそも人材として良いのか悪いのか? 言行不一致を衝くのはジャーナリズムの重要な役割の1つなのでそれはいいのですが、同時にこの本質的な問題に触れないのでなんだかピンと来ない。斉藤氏が小沢幹事長と親しいことも取りざたされますが、「あれとあれがつながってるからねえ」という通好みの仄めかしだけでなく、わたしとしてはもっと真正面からの分析も教えてもらいたいところなのです。で、あいつは駄目なの? どうなの?

米軍の普天間基地移設問題になるともうちょっと複雑です。これは自民党政権のネジレとも関係するのですが、日本の保守層というのは本来の「国益」主義者の顔と、もう一方で安保条約に基づく米国追従者の顔の2つを持っています。この2つは本当は両立しないはずですが、自民党は内には右翼的な勇ましい顔を向けながら、米国には「思いやり予算」その他で不平等な地位協定のおべっかを振りまいてきました。安倍や町村や麻生など、ときどき日本の核武装をぶつ自民党政治家がいますが、彼らは内心これに忸怩たるものを持っていた人たちなのでしょう。自分たちでまいた種なのに。
 
同じことはメディアにも言えます。普天間問題などでワシントン・ポストやウォールストリート・ジャーナルが立て続けに「最近、厄介なのは中国ではなく日本」「鳩山外交は日米同盟をむしばむ恐れ」と書けば、米政府の「深刻な懸念」をあたかもそのメディア自身も懸念しているかのように報じる。例のNYタイムズの鳩山論文転載問題のときもそうでした。

でも外交というのは本来は丁々発止やり合って最後にニッコリ握手するのが成功というもの。ワシントン・ポストが伝えた「日米関係はこれまで不変の居心地のよいものだった」という国務省高官の感慨には、コンフォタブル(居心地のよい)という言葉の向こう側にコンビニエント(都合のよい)が透けて見えるのです。しかしこれも国益第一の米国なら当然の主張で、というか、どの国だってまずは自国の利益に立って主張するのが当たり前ですから、そういわれたってべつに驚くことはない。

なのに日本のメディアはこれまでもそうでしたが、あまりに外国での評判を気にしすぎる。やれ鳩山が外国のメディアでどう報じられたか、やれ日本の映画が、日本のアニメが、日本料理が、日本のピアニストが、日本のなんとかが、……とまるで外国での評判がそのままそのものの評価であるような。これじゃ先生にほめられることだけを目標にして行動している小学生みたいです。

そして本来ならこういう時に、日本の主体性を基に米国に噛み付いて然るべき保守メディアが、目先の政権批判にかまけてしまうのはなんだか面白いネジレだなあと思うわけなのです。まあ、基地問題では、これで国防の幾分かは米国任せで安く済む、という帳簿計算があるのだけれど、「保守」って本来は、そういう姑息な帳尻合わせは好きじゃないはずなのにね。もっとも、沖縄は「国益」の「国」の中には入っていない、彼らにとっては辺境の属国なのかもしれませんが。

いや、日本の国益を主張せよと、わたしが国粋主義者になっているわけではありません。政権交代という現象への対応を構築中の日本のジャーナリズムに、表層的なことだけではない、本質的な問題への視点も常に忘れずに提供してほしいと思っているのです。そしてじつは、民主党に対する最も必要なチェックポイントは、この、「米国と対等の同盟関係」なのです。この「対等」という言葉によって国内に台頭してくるだろう国家主義。自民党時代のネジレの鬱憤を一気に解消し晴らそうとする声の大きな国民たち、つまりは右派の熱狂です。

その意味において、じつは先に取り上げた谷垣自民党総裁の「ヒトラーユーゲント」発言は、文脈も意味も違うけれど、なんとも暗喩に満ちた正鵠を射るものであると思うのです。

悪しきポピュリズム(これに関しては3つ前のエントリーで触れました)を、ジャーナリズムと野党が、表面的ではないツッコミを忘れないことで回避してほしいと思います。

October 26, 2009

デモクラシー・ナウ!

デモクラシー・ナウ!という米国の独立系ニュース報道サイトがあります。けっこう人気のあるメディアで、大手メディアの報道しないことをいつも丁寧に取り上げ、解説し、関係者にインタヴューして紹介しています。この6月にはゲイの従軍禁止政策に関しても放送しました。

このサイトの日本語版サイトもあって、じつはここにわたしも翻訳と監修で関係しています。その6月のゲイの従軍問題のインタビュー放送が日本語字幕付きでさきほどやっと公開されました。字幕作業で時間がかかるのでタイムラグがあるのはしょうがないのです。みんな、ほとんどボランティアスタッフが作業を進めているので、ご寛恕を。

さて、表題の話題は、10月11日にワシントンで行われた平等を求める政治行進の企画者であるあのクリーヴ・ジョーンズ(ミルクの映画でも出てきました)へのインタビューから始まります。ジョーンズのこのマーチへの思いやハーヴィー・ミルクとの関係が語られます。
http://democracynow.jp/submov/20090619-2

2回に分けて放送されています。後半が「ドント・アスク、ドント・テル(上官や同僚はその人が同性愛者であるかどうかを質問ないし、ゲイの兵士も自分からそうだと公言もしない限りにおいて、同性愛者も従軍できる)」とした従軍規定に関するものです。
http://democracynow.jp/submov/20090619-3

どうぞ時間のあるときにでも視聴してください。
米国では、メディアもこうして性的少数者の人権問題に正面から取り組んでいます。

October 13, 2009

平等を求める全米政治行進

毎年10月11日は米国では「全米カミングアウトの日 National Coming-Out Day(全米カミングアウトの日)」とされています。もっとも、これはべつに政府が定めた記念日ではありません。アメリカのゲイ・コミュニティが、まだ自分をゲイだと言えない老若男女に「カム・アウトする(自分が同性愛者だと公言する)」ことを勧めようと定めた日です。今はゲイだけでなくLGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)と総称される性的少数者全体のカムアウトを奨励する日として、この運動はカナダや欧州にも広がっています。

その制定21年目に当たる今年の10月11日(日)、快晴のワシントンDCで数万人の性的少数者とその支援者を集めて「The National Equality March(平等を求める全米政治行進)」が行われました。日本ではほとんど報じられませんが、性的少数者たちの人権問題は米国では最大の国内的政治課題の1つです。

若い人たちがことのほか多く参加しています。なんか、ヒッピー・ムーヴメントみたいな格好をした人たちもたくさんいますね。このビデオの最後にはあのハーヴィー・ミルクの“弟子”であるクリーブ・ジョーンズも登場しています。インタビューアーが、このマーチが終わってみんな帰ってから何をすればよいか?と問いかけています。クリーブ・ジョーンズはすべての選挙区で自分たちの政治家に平等の希望を伝える組織を作るように勧めています。「私たちはこのマーチをするために組織化したのではない。組織化するためにマーチしたんだ」と話しています。

ところで National Equality March のこの「平等」とは、現在最大の議論の的である「結婚権の平等」をめぐってスローガン化しました。同性愛者たちも同じ税金を払っている米国民なのだから、同性婚も異性婚と同じく、平等に認められて然るべきだという議論です。そこから、これまで取り残してきた「雇用条件の平等」や「従軍権の平等」も含めて、LGBTの人権を異性愛者たちと等しく認めよという大マーチが企画されたわけです。

この行進の前日10日、オバマ大統領はLGBTの最大の人権組織ヒューマン・ライツ・キャンペーンの夕食会で演説し、選挙期間中の公約であった「Don't Ask, Don't Tell(訊かない、言わない)」政策の撤廃を改めて約束しました。

これはクリントン政権時代に法制化されたもので、それまで従軍を禁止されていた同性愛者たちが、それでも兵士として米国のために働けるように、上官や同僚たちが「おまえはゲイ(レズビアン)か?」と聞きもしないし、また本人が自分から「自分はゲイ(レズビアン)だ」とも言ったりはしない、と取り決めた規定です。つまり、ゲイ(レズビアン)であることを公言しない限り、ゲイではないとみなして従軍できる、としたもので、オバマ大統領は選挙戦時点からこれは欺瞞だとして廃止を宣言していました。ところがいまのいままでオバマ政権は、撤廃に向けての手続きを具体的にはなにも行っていなかったのです。

ノーベル平和賞とは、和平・平和への取り組みだけでなく人権問題での活躍に対しても表彰されます。まあ、まさかそれが後押ししたのでもないでしょうが、今回の公約再確認は、いつどのように具体化されるのか、見守っていきたいと思います。

ところでいまCNNが、カリフォルニア州での「ハーヴィー・ミルクの日」の制定に拒否権を行使するとしていたシュワルツェネッガー州知事が、一転、拒否権行使を否定し、制定を認めると発表したというのを報じていました。今も全米で同性婚の権利を勝ち取ろうという闘いが議会や住民投票の動きの中で続いています。

おそらく明日13日、デモクラシー・ナウ!という独立系報道メディアの'日本語版翻訳サイト'で、6月に放送されたLGBT問題のインタビューもアップされると思います。直接のリンクがわかったらここでも貼付けるようにします。

October 07, 2009

ポピュリズムはダメなのか?

民主党・鳩山政権が全力疾走を続けています。早くも息切れや逆に暴走気味なところも見られますが、日本にいる友人たちによれば政権交代ってのはこんなにも変わるってことなのかとビックリしているようです。何が変わったのか、具体的にはまだそうはないにもかかわらず、ワイドショーで政治ニュースがこんなに面白かったこともかつてなく、実際、TV出演する与党・民主党の政治家たちが、これまでの自民党と違って言い訳も逃げもせずに真正面から質問に応えるのが心地よいと言うのです。

思えば八ッ場ダムにしても年金にしても格差対策や障害者自立支援法にしてもすべてが自民党失政の後始末。中止宣言されてしまった八ッ場ダムに谷垣新総裁らが民主党マニフェストに振り回される地元周辺住民の不満を聞きに視察に行っても、そもそもが57年を費やして完成できなかった自民党の怠慢こそが素因なので「どの面下げて」感が否めません。

もっとも、鳩山政権マニフェストの問題は国民生活支援という17兆円もの約束手形の財源です。そんなカネどこにあるのか、理想ではなく現実を直視すべきだ、悪しきポピュリズム政策のオンパレードだ、という批判が止みません。

でも、どうなんでしょう? 日本ではポピュリズムというのは大衆迎合主義とか衆愚政治とか訳されて、どうも批判的に用いられることが多いのですが、それを言う人はだいたいが自分はその「大衆」「衆愚」には属していないと思っている人たちです。「大衆というのは馬鹿なものなのだから、彼らの言っていることを真に受けてはいけない」ということなんですが、これって典型的な「上から目線」というやつじゃないでしょうか。

確かにポピュリズムはかつて大衆的熱狂のかたまりとなって国粋主義・ファシズムへとつながりました。けれど現代日本のポピュリズムは、高度情報社会と国際化と教育水準の底上げの支えで安易な全体主義には流れないはずです。もちろんそれには不断の注意が必要ですが、たとえば高速道路無料化や中小企業向けの金融モラトリアムに慎重な世論とかはとても健全なもので、国民はご機嫌取りのような政策を無批判に歓迎しているわけではないのです。

かつて新聞記者の新人のころ県政を取材していた25年前、県庁の企画室なんていう部署にはどの県でも大学を卒業したての20代の中央官庁のキャリア青年たちが腕慣らしに配属されてきていて、予算編成期になると海中公園だとかリニア鉄道だとか、まあそれはそれは派手で大ボラ的な、巨大予算の夢物語をぶち上げるのが優秀な官僚への試金石だと思われていました。実際、上級国家公務員に合格した輩たちは所属省庁が決まるとすぐにもそうした「企画力」のトレーニングをやらされるという話で、税金はそうやって目に見えやすい箱もの思考へと注がれていたのです。まあ、インフラの整っていなかった昭和後期までならそうした箱ものによる経済全体の牽引力も必要だったのでしょうが、いつまでもそれでは通用しない。

ダムや高速道路というのはその象徴のようなものでした。それは企業経済を活性化することで家計経済も勝手によくなる、という思考です。そして現代のポピュリズムとは、企業を潤してもあまりよくなって来なかった生活をどうにかしてくれという権利要求なのです。そのどこが悪いのか?

その意味において、鳩山政権が打ち出し、政治家たちがTV出演などで真摯に説明しようとしている現在進行中の脱・箱もの政策の1つ1つは、たとえそれが途中でへたれになったり国会提案が先送りになったりするにしても、その過程を見ているだけで政治というものの本来のダイナミズムを目撃しているという高揚感を私たちにもたらしてくれているのかもしれません。それが冒頭で紹介した、いま政治ニュースが面白いという事象なのだと思います。

でも、それらの政策に「そんなカネ、どこにあるのか」と批判し続けることは正しいことだと思います。それは政権を超えて、いまきっと50歳前後になったかつての「海中公園」官僚たちにも届くはずです。

税金は本当に、民間のような厳しい監査なく使われています。役所相手の仕事の受注ほど旨いものはない。それをまずは精査すること。それが健全な現代ポピュリズムの原点なのだと思います。