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二人で生きる技術

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よくわからないのですが、いわゆるハウツー本が本屋さんに並んでいたりするのを見るとなんとまあ恥ずかしいなあと思ってしまいます。コンピュータとかカメラとか、育児とか料理とか、そういうツールや技術系のハウツー本ならぜんぜんいいんですけどね。でも……と書いてみて、あら、本なんてみんなハウツーものみたいなもんかもしれないなと思ったりもします。そうだよね、こうやって書いていることも、結局は書き手が考えた答えを都合よく読み手に教えてるってことだもなあ、とかって……でも言いたいのは、なんというか、ほんとうはそういうのは手っ取り早く誰かの用意した答えを知るのじゃなくて、自分でちゃんと時間をかけて考えて答えを見つけていかなくちゃダメだろ、というような物事がこの世には確実にあるような気がするんですね。答えが大切なんじゃなくて、答えにいたるまでのプロセスが大切なのに、先に答えを聞いてしまってどうするんだ、ってことが。

太宰が、数学の教科書の後ろに問題の答が書いてあるのを見つけて、「なんと無礼な」か「失礼」だったか、そう思った、ってのがどっかにあったでしょ? あれなんだよね。あれを読んだからか、私は10代のころからレコードもベスト盤を買うのを恥ずかしいことだと思ってしまった。絶対に自分はベスト盤など買わないぞと誓った。で、中年になって、iTunesストアが出来て、往年のロックやジャズの懐かしい連中のコレクションを自分のMacに再収集しようとして、めくるめくほど数多のベスト盤の山を前に思わずその1つをポチってしまったとき、私はふと辺りを見回し、目撃者のいないことに軽く安堵しつつも激しく自らを恥じたものです。(でも1回ポチるともうあとは堰を切ったようにベスト盤の嵐でしたけど。ま、経済的にも全然安上がりですし、背に腹は変えられないという事情はありますな。年を取ると寛容になるもんです)

ハウツー本とベスト盤がどうして同じ次元で語られるのかってのは、つまり、ラクしていいとこ取りしようってことで、言い訳を言えば、わたしなんぞの、もうそうは新しいことなんか起きない年代の、しかも残された時間もそうない者にはそれでもぜんぜん大勢には影響がないってことなんだけど、これから人生を作っていく人たちが、対人関係とか仕事のしかたとか、恋愛とか人生とか、そういうもので教科書の後ろを見ちゃうみたいなやり方だと、それは本末転倒でしょーってことなんです。知ったふうなことばかり言って、その実ものすごく中身がなくて、ぜんぶどっかで聞いたようなことだけを題目のように繰り返して世を渡ってるような輩も(渡れてないか)けっこういます。話しててやになっちゃう。

だから、例えばジャーナリズム学科とかで勉強したって、それはちょっと違うんじゃないかって思う。火事や殺しや交通事故の現場でないと感じられないなにかがあって、それを書くことに苦悶して、そうやってからジャーナリズム学科でもういっかい勉強できるような、そんな環境やシステムが日本の職業ジャーナリストたちにも用意されていれば素晴らしいと思うけど、最初にジャーナリズム学科で技術を教わっても、まあ、人によるだろうけど、つまり、わかったふうに思っちゃいけないってことですわね。まあ、そうね、人によるか。ジャーナリスト学科で学んでも、知ったふうには思わないやつもいるもんね。技術はあるに越したことはないし、か。

そうですね。つまり、ハウツー本を読んで、知ったふうな口をきくやつがダメなんだ。だからといって「だからそれはハウツー本が悪いわけじゃない」ってわけじゃなくて、ハウツー本は九割がたそういう連中を確実に標的にして作られてるんだから、ダメに乗っかってカネ稼ぐための本だから、いわゆる故意の教唆だわね。ハウツー本もやっぱりダメなんだよ。

……といろいろと与太が長くなったですが、何が書きたいかというと、表題の本についてです。

年をまたいで「二人で生きる技術 〜幸せになるためのパートナーシップ」(ポット出版)を読んで、2010年のブログの最初のエントリーはこの本についてにしようと決めました。著者の大塚隆史さんは70年代後半にラジオ「スネークマンショー」で15分ほどの自身のコーナーを持ち、ゲイに関する幅広い話題を広く(多くゲイの)聴取者に語りかけていた人です。寡聞にして私はその当時そのラジオのことは知りませんでしたが、大塚さんにお会いした数年前、録音の残っていたものを集めたCDをいただいて、その話題の広さと深さにちょっと、というか、かなりショックを受けました。というのも、私が90年代から書いたり言ったりしていたことのほとんどは、すでに大塚さんがそのラジオ番組で10年以上前に言い尽くしていたことだったからです。はは、こりゃまいったね、というのが正直な感想でした。

「二人で生きる技術」はその大塚さんの、個人のパートナー史というべきものを通じて、パートナーであること、パートナーであろうとするというのはどういうことなのか、を示している本です。でも、これは教科書ではありません。ハウツー本でもありません。冒頭から多くを費やして、つまり私はそのことが言いたかったのです。

でね、ここで書かれるパートナー、「二人」というのは、男同士の二人です。で、だからこれはゲイのパートナーシップのためにだけに書かれた本かというと、じつはそうじゃない気がします。これは、同性間・異性間にかかわらず、最も困難な環境の1つにいる人たちが、どうやって伴侶を見つけ、どうやってその関係を続けるのかについての、普遍的な、かつとても個人的な努力の軌跡です。

私たちはここで「大塚隆史」というある個人の、パートナーを求めて止まない人生を覗き見ることになります。彼はこれまでに5人のパートナーと付き合っているのですが、彼の心にあったのはただ1つ、おとぎ話で結ばれたお姫さまと王子様がその後、「末長く幸せに暮らしました」という絶対命題でした。つまり彼にとっての傾注の対象は、物語の主要となるドラマティックな恋愛の部分が終わったあとの、「末長く」しかも「幸せ」な「暮らし」のことなのです。著者はこの「暮らし」のために懸命に精力を傾けます。これが「二人で生きる」ということであり、そのためには技術が必要なんだという気づきがあるんですが、でも、その技術がなんなのか、この本はハウツー本のように簡単にはそれを教えてはくれません。なぜなら、それは具体的には5人のパートナーそれぞれで違うことだったのですし、私たちはそのパートナーたちとの「暮らし」の丁寧で詳細な記述の各章を読み進めることで、筆者とそのパートナーの行った努力と獲得した技術とを追体験することになるのです。そうして、そうすることでしかわからないことというものがある。

男女の、あらかじめ当たり前として用意されている“ような”関係性とは違って、ゲイの男性(あるいは女性)2人の関係というのはなんとも手探りで、だれもの目に見えるロールモデル(理想のお手本)というのもそうあるわけではありません。男女の場合は恋愛のあとに結婚というものが控えているのを多くの人が認識しているでしょうが、日本のゲイの場合は結婚もシヴィルユニオンもドメスティックパートナーシップも現実問題として自らに引き寄せて考えている人はそう多くはないでしょう。すると勢い、状況的に、ゲイ男性カップルの関係性というのは恋愛の後は何なんだ、セックスの後は何になるんだろうということになります。

著者が行ったことは、まさにその「なにか」をハウツー本もなく自ら作り上げてゆくことでした。そしてそれのすべてをいま、身を以て示してくれることだったのです。彼以前にそれを作り上げた人はもちろんいたでしょうが、それを見せてくれた人はほとんど皆無だったからです。男女の恋愛を描いた小説や映画は数限りなくありますし、それこそ「その後」の「暮らし」を追ったドキュメンタリーもたくさんあります。でもそれらはほぼ、「二人で暮らす」ことをアプリオリな大前提として始めていて、そこを疑うことについて甘い。でも、ほんとうはそこから始めなくてはならないのではないか?

そう思ったとき、じつはそのことは男女のカップルにとってもほんとうは同じなのだということに気づくのです。恋愛ってそもそも自動的に始まってしまいます。恋愛の原動力はセックスへの希求(リビドー)なんですが、というかそれは主客転倒で、リビドーがセックスへと導く儀式としての恋愛を創造したんですが、自動的に始まる恋愛は自動操縦ではどうもうまく行かないほど複雑になってしまって、あるいはお見合いによるお付き合いでもいいんだけど、人間の私たちはいつの間にかそんな自動操縦のモードを手放さざるを得なくなってしまいました。

ところが恋愛(という捏造された儀式)の余勢をかって、なるがままに任せていればどうにかなるさと思っているカップルが多いのです。そもそもいろんな分野で自動操縦をやめてしまった人間たちが、どうして愛する人とだけは自動操縦で大丈夫だと思っていられるのか。

恋愛って、人生で何回も出来るもんじゃない。恋愛にベテランというのは存在しないのです。つまり、みんないくつになっても手探りで、素人なの。だから真剣にならないとすぐに失敗するのです。

「二人で生きる技術」に書かれている数多くの実際のエピソードは、読んでいて「他者」というものの発見に満ちています。人間って、みんな違うんだって改めて気づかされます。セックスの話も包み隠さず出てきます。エイズの話も、ウソの話も、浮気の話も出てきます。おそらく、多くの読者が泣くだろうエピソードも登場します。私も泣きました。そうして、他者というのは、改めてすごいなあと思った。自分の知らなかった他者たちをこうして知った「気づき」を、有り難く思うのです。

これは、自分の愛する女性との関係を当たり前と思っている男性たちに読んでもらいたい本です。あるいは愛する男性との関係で悩んでいる女性たちにも。関係性において、何事にも当たり前というのはありません。それは奇跡なのです。それが続くのは、さらにもっと大きな奇跡なのです。それを続けさせるための「技術」がこの本には書いてあります。最後の章にいくつか箇条書きにもなっています。でも、それは大した技術ではありません。いちばん重要なのは、そこまで読み進め、何かを読み取ろうとした努力に関係するものです。この本を読み進めたように、自分たちの関係を読解してみることがまず、そんな技術を体得するためのとっかかりだろうと思います。それは、関係を諦めない、おとぎ話を信じる力なのだと思います。

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