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February 22, 2010

ワインと日本酒と

いまニューヨークではいろんな分野の日本ブランドの紹介が盛んに行われています。この1カ月だけでも長芋やゆず酢や包丁、醤油やお香や磁器や牛肉などありとあらゆる日本産品が目白押しでした。中でも毎月のように行われているのが日本酒のプロモーションです。そんなところに顔を出すとよく、海外で日本酒をワインのように飲んでもらうにはどうしたらよいだろうかと相談されもします。

これはとても難しい問題です。というのも、じつは日本酒とワインとでは、飲食という文化の中で立ち位置がまったく違うからです。それは、やはりご飯とパンがまったく違うのと一緒なんです。

私たち日本人は基本的に「コメっ食い」なんですね。食事の中心にはご飯があるんです。極端なことを言えば、ご飯を食べるためにおかずがあるんですね。おかずを食べるためにご飯があるのではない。逆です。すべてはご飯のためです。「ごはんがススムくん」というネーミングの良さもまさにそこにツボがあるからです。みそ汁だってスープと違って全部一度に飲むものではないでしょ? その都度口内をさっぱり流して、「さてまたもう一回」とご飯(とおかず)に再度取り組むためのものですよね。つまりはこれもまたご飯のため。

対してパンは、これも極端を言えば、逆に前菜や主菜を食べるためのものなんです。パンを食べることを目的に前菜や主菜を食べるのでは(ほとんど)ない。あくまでも前菜や主菜がメインで、それをよりよく楽しむために、口直しにパンに中継ぎをさせるみたいな感じなのです。ソースをすくうときとかもね。

だから、「主食」っていう概念もよくわからないんです。私たちは学校で「日本人の主食はご飯です」って教わりましたが、でも、そういうのを英語でなんと言うのか、そもそもそういう叙述が有効なのか、どうもしっくり来ないんです。We, the Japanese, live on rice. なんですけど、この live on というのが英語で使うかというと、「アメリカではパンが主食です」ってふうに言えるのか、また、live on の次にくるのがパンなのか肉なのかもじつはよくわからない。少なくとも「ご飯」とか「お米」とかがすんなり出てくるようには常識にはなっていない感じです。

よく、「ひとはパンのみにて生きるにあらず」といいますが、聖書の時代はほかに大した食べ物もなかったんでしょうね。だからそのころはパンはまだ食事の中での主役だったのかもしれません。でもいまは食事をするという意味で「パンを食べたい」と言うひとはいないなあ。日本語だと「ああ、ご飯食べたい」って、「食事したい」という意味と「(パンや麺モノではなく)お米のご飯が食いたい」という2つの意味で常套句ですが。

ワインもそうです。マルゴーとかムートンとかのビッグ・ワインなら違うかもしれませんが、一般的なテーブルワインは前菜・主菜で疲れた味覚(パレット)を立ち直させるためにあります。マリアージュと言ってワインと料理の相性の良さでもっと美味しくするための出会いの演出もあります。いずれにしても基本的には、前菜・主菜を食べるためにワインが存在します。ワインはむしろ日本の食文化の中でのみそ汁と似ているかもしれませんね。

で、日本酒はそうじゃありません。お酒はみそ汁の立ち位置ではなく、ご飯と同じ位置なのです。つまり日本酒もご飯なのです。ご飯同様、日本酒を飲むときは日本酒が主役なのです。食事をするためにお酒を飲むのではなく、お酒を飲むために食事が要るのです。その食事を酒のサカナと言います。漢字で書けば「酒菜(さかな=さけのおかず)」です。なので、お酒のあるときはご飯は食べず、ご飯のときはお酒は飲まない。この2つは基本的に同じもの、「お米」だからです。お鮨とお酒をいっしょにする人もいますが、本当はお鮨にはお茶です。そうじゃないと米と米で重複しちゃう。リダンダンシーです。

ワインとパンにはそういう関係はありません。しかもこういう、ワインを中心にした飲食の仕方はワインではあまりしません。うーん、食事が済んだあとのチーズのコースのときがやや酒飲みの感覚というか、酒と酒菜の関係に似ている感じでしょうか。いや、スパインのタパスとか、日本の酒の飲み方に近いかもなあ。そうね、日本酒って、基本的に小皿料理をお供にするんだな。あと、イタリアのバールでも立ち飲みでいろいろ小皿を出してくれる。でも、日本の会席料理みたいに、本格的な料理がワインを軸として供されるということは、ワイン飲みの会みたいなイベント以外はあまりないように思います。

ですから、ニューヨークのレストランで日本酒をワインのように飲んでもらうには、という問い掛けには、チーズコースとは言いませんが、なにか、食事がメインのコースの後か先にでも、お酒に合う肴の小皿コースを供してもらわねばならないということになりますか。ちょうどお鮨にスイッチする前のお造りの段階のような、そんな新しいコンセプトのコースが必要になってくるのだと思うのです。しかもそのとき、お酒はワインのように右手奥にあるのではなく、食事の皿をも差し置いて、食べる人の直近の中央に位置しなくてはならない。なぜならそこが主役たるお酒の位置なのですから。

このところ、ワインのような大吟醸酒が増えています。これはこれでとても素晴らしいですが、悲しいかな、輸送費がかかって日本で飲む時の倍ほどの値段がします。しかも「ワインのような大吟醸」なら、同じ値段のワインを飲んだ方がよほど美味しいのです。

先日、ある和食のシェフが各界の名士を招待してのディナーイベントで腕を振るった際、日本人の招待客に「まるでフレンチのシェフみたいで格好いいわね」と言われて憤慨していました。

フレンチの方が格好よいというのではなく、和も仏もそれぞれの本来の立ち位置で堂々と存在できる、そういう時代にしていきたいものです。

February 14, 2010

寄ってたかっての背後にあるもの

ロック少年だったせいで、若いころからさんざん髪を切れ切れとうるさく言われ続けてきました。おまけに高校時代には当時あった制服着用規則に何ら合理性がないと、これまた七面倒くさい論理を考えだして生徒会で制服自由化を決めてしまったクチです。

なので、バンクーバー五輪のスノーボード出場の国母選手が、成田空港で日本選手団の公式ウエアのネクタイをゆるめ、シャツの裾を出し、ズボンは腰パンで登場して問題になったと聞いても、そんなことどうでもいいじゃないのというのが第一の反応でした。

ところが日本ではいっせいにこの国母選手へのバッシングが始まりました。なんでこんなやつを選んだんだという抗議の電話がスキー協会に殺到し、弱冠21歳の彼は選手村入村式への出席を取りやめる謹慎措置となった。さらに反省の会見で記者に攻められ「チッ」と舌打ち後「っるっせーな」とつぶやいちゃった。「反省してまーす」と言ったのも後の祭り。しかもこの反省も語尾を伸ばしたことでまたまた顰蹙を買い、今度は五輪開会式にも参加不可というお仕置きが待っていました。

そういや十代の私も「髪を切れ」といわれて「うるせえなあ」と言い返したことがあったかも。「反省してます」とは意地でもいわなかったですけど。

抗議の人たちは「五輪出場は日本の代表。税金を使って行ってるんだ。代表らしくちゃんと振る舞え」と言っています。まあ、その気持ちはわからぬでもありませんが、どうしてみんなそんなに怒りっぽいのでしょう? まるで沸騰社会みたい。

もっとも、今時の若者なドレッドヘアと鼻ピアスの国母君もそうした「着くずし」をべつに理論武装してやってるわけじゃないようで、なんとなくへなちょこな感じ。そこらへんがむかしの私らと違うところで、会見の様子からもどうして着崩しちゃダメなのか今ひとつ理解していない様子。だから反省の弁に気持ちがこもってないのは当然でしょう。てか、かつての大阪の吉兆の女将さんみたいに、YouTubeで見たらあれ、隣のコーチかなんかが反省してると言えって指示してますよね。まあ、あの会見でみんなピキッと来たんでしょう。

でも、スノボー一筋の21歳のこの子はきっと、自分たちのスノボー仲間以外の、外の社会というものを知らないで生きてきたんですよ(だからこそここまで、ってどこまでかよう知らんけど、五輪出場のすごい選手になったのかもしれません)。そりゃね、行儀のよいお利口さんやロールモデルをスポーツ選手に求めたくなるのもわかりますけど、それができるのは石川遼君という天才くらい。遼君はあれは、ほんと、儲け物なんです。普通はあり得ない。なのにあれをノームにしちゃダメでしょう。しかも国母君はスノボー。スノボー文化というとても狭量な環境の中では、行儀の良い子のいられる場所などそうはない(って勝手に思い込んでますけど)。外の社会を知らないできた国母君は、今回初めて五輪というとんでもない社会的行事にさらされてわけがわからないのだ、というくらいの話なんじゃないですか。しかもオリンピックは彼がぜんぶ自分の実績で勝ち取ったものです。勝手に国をしょわせられても困るってもんじゃないでしょうか。

それとね、スノボーってスキー連盟傘下だって今回初めて知ったけど、ここがふだんからスノボー界をちゃんとサポートしてたのかも疑問です。オリンピック競技だからって急ごしらえで対応してるだけなのに、そこの会長さんがまるでずっと面倒見てきた親父みたいに恩着せがましく激怒したっていうのも、なんだかなー、です。

いつも言っていることですが「寄ってたかって」というのがいちばん嫌いなもので、国母君へのこの寄ってたかっての大上段からの叱責合戦には異和感が先に立ちます。腰パンも裾出しシャツも日本じゃ街中に溢れてる。そいつらへの日ごろの鬱憤がまるで憂さ晴らしのように国母君に集中している感じ。そんなに怒りたいなら、渋谷に行って公道を占拠する若者たちを注意すればよいのに、それができないから代わりに国母君を吊るし上げてる、みたいな。

この国母問題、服装のことなどどうでもいいんじゃないと言うのは50代や60代に多いそうです。まあ、たしかにそういう時代に生きてきましたからね。でも、20代、30代には逆に「国の代表なのに」だとか「日本の恥」だとかを口にする人が多いらしい。そういえば朝青龍も「国技」の横綱にふさわしくないとさんざんでした。

「国」と言えば何でも正義になってしまうのは違うと思います。日本はそんな国家主義の反省から民主主義を担いだ。私はだから、“名言”とされる例のJ.F.ケネディの「国が何かをしてくれると期待するな。あなたが国に何ができるかを考えよ」も実は(米国のあの当時の時代背景を考慮せずに引用するのは)好きじゃありません。オリンピックも、80年代はたしかソ連のアフガニスタン侵攻やボイコット合戦の影響で「国を背負うんじゃなく純粋なスポーツの祭典として楽しもう」という空気がありました。なのに、それがいつのまにかまた「国の代表」です。で、それにふさわしくないと見るやまるで犯罪者扱い。例によって、マスメディアの煽りもありますけれどね。なんってたって、産経なんか国母君お記者会見の写真説明、「服装問題で開会式自粛を余儀なくされた国母だが、会見では座ったままで頭を下げた=12日午後、バンクーバーのジャパンハウス(鈴木健児撮影)」ですからね。これ、頭を下げるときは立ってやれ、って抗議するよう読者を煽ってる文章です。さらに共同が配信した記事じゃあ「バンクーバー市内のジャパンハウス(日本選手団の支援施設)で行われた会見。白と紺色の日本選手用のスポーツウエアを乱れなく着ていたが、トレードマークのドレッドヘアとひげはそのまま。」って、ヒゲまでダメですか? いやらしい書き方するなよなあ。

私としては、せめて「寄ってたかって」にはぜったいに加担しない、という意地を張り続けるしかないですな。

February 08, 2010

検察と報道の大罪

米国では刑事裁判で一審で無罪となった場合は、検察はそれが不服であってももう控訴できません。検察というのは国家権力という実に強力な捜査権で被疑者を訴追しています。そんな各種の強制権をもってしても有罪にできなかったのですから、これ以上個人を控訴審という二度目の危険にさらす過酷をおかしてはならないと決めているのです。「ダブル・ジェパーディ(二重の危険)」の回避と呼ばれるこの制度はつまり、検察にはそれだけの絶大な権力に伴う非常に厳しい責任があるのだということの表れです。

ところが民主党の小沢幹事長不起訴にあたっての日本の検察、東京地検特捜部の対応はまことに見苦しいものでした。「有罪を得られる十分な証拠はそろった」が、起訴には「十二分の証拠が必要」だったと語った(産経)り、「ある幹部は『心証は真っ黒だが、これが司法の限界』と振り返った」(毎日)りと、まるで未練たらたらの恨み節。新聞各紙までまるで検察の“無念”さを代弁する論調で、元特捜部長の宗像紀夫までテレビに出てきて「不起訴だが、限りなくグレーに近い」と援護射撃するんじゃあ、世論調査で「小沢幹事長は辞任すべきか?」と聞くのも「これは誘導尋問です」と言わないのが不思議なくらいの茶番じゃないですか?

しかもこれは冒頭で紹介した裁判の話ですらない。起訴もできない次元での話なのです。つい先日、足利事件の菅谷さんのえん罪判明で検察とメディアの責任が大きく問題となっていた最中のこの「何様?」の断罪口調。カラス頭もここに極まれり、です。

いや、小沢は怪しくないと言っているのではまったくありません。ただ、怪しいと推断するなら、ジャーナリストならまた独自取材を始めればよろしいのであって、報道が検察と心中するかのようにこうも恨みつらみを垂れ流すのは異常としか思えないと言っているのです。産経なんぞ「ほくそ笑むのはまだ早い」「“次の舞台”は検察審査会」ですからね、どこのチンピラの捨て台詞ですか? 他人事ながらこんなもんを書いた産経新聞社会部長近藤豊和の精神状態が心配です(あら、いまネットで検索したら、この「ほくそ笑む」の記事、産経のサイトから消えてるわ。でも魚拓がたくさんあるようで、検索できますね。すばらしい)。

いや、小沢は権力者だから金の出納は厳しく精査すべし、というのも一理あります。しかし小沢個人より、検察や報道機関が権力を持っているのは事実なのです。なぜなら、検察や報道は、その内部の匿名の個人が失敗してもそんなもんは簡単に入れ替わり立ち替わりして、組織としては常に権力を維持するものだからです。これは政治家と言えども個人なんかが戦える相手ではない。田中角栄しかり、ニクソンしかり、それは洋の東西を問いません。もちろん警察や検察、そして報道機関の正しくない社会はとても不幸です。だからまずは信じられるような彼らを育てることが健全な社会の第一の優先事項です。そうしていつしか、その両機関は、その(本当はあるはずもない)無謬性を信じる多くの大衆の信頼と善意に守られていることになる。

それは一義的には正しいでしょう。ただし、何者も無謬ではあり得ない。わたしたちはそんな無謬神話を批判しながら歴史を進めてきたのです。これはかつて宗教のことを書いたブログ「生きよ、墜ちよ」でも触れましたが、日本の検察もまたいま、やっと歴史の審判に面しているのかもしれません。脱構築の対象になっていなかった、最後のモダン的価値の牙城ですものね(古い)。

つまり私が言っているのは、だからこそ報道は個人への断罪機関ではないということを徹底しなければならない、検察は恣意的に法律をもてあそんではいけない、ということなのです。

なのに今回は、1年以上も捜査して西松事件でも陸山会事件でも結局「虚偽記載」などという“別件”の形式犯でしか起訴できなかった。これは特捜部の完全な敗北です。恣意的な捜査だったと言われても反論できないはずです。ですから、負け犬はギャーギャー吠えずに引き下がれ、なのです。臥薪嘗胆のそのときまで泣き言を漏らすな、なのです。なのにこのていたらく。

で、そんなことよりもっと重要なことを記しておきましょう。

一連の小沢問題で、あんなに面白かった政治ニュースが最近はさっぱり面白くなくなりました。こうして国民がまた政治に飽き、日本という国がよくなるかもしれない期待もしぼみ、政治家にも飽き民主党にも飽きて、だから民意に応えようとあんなに張り切っていた民主党の政治家たちもいまやなんだかすっかり鳴りを潜めている。

するといま、その一方で日本の官僚たちがホッと一息ついているのです。「政治主導」におびえた官僚機構が、また無駄ばかりの、予算ばかり取ってろくな仕事をしない、前の自民党政権時代と同じ体制に戻ろうとしているのです。

私は、特捜部の今回の失敗は、その力量の低下だけでなく日本の転換のモメンタムを破壊したという意味でも一番罪が重いと思います。もっとも、官僚たる彼らは、あるいは彼ら個々人ではなくそのシステムは(システムに思考があるかどうかはまた別にして)、そんな破壊をこそ狙っていたのかもしれませんが。報道の書き散しも含め、これは私たちにとっての、とんでもない悲劇です。

実は、関係ないようですがこうして民主党の支持率が下がってくると、アメリカが日本を見る目も変わってきます。オバマ政権が普天間の移設問題に関して妥協する姿勢を見せてきていたのも、鳩山政権に対する国民の支持が背景に見えたからです。ところがその支持がなくなれば、普天間の移設、沖縄からの基地撤去もまた遠ざかることになります。国民が望んでいない政権と真剣に交渉しても始まりませんからね。なんという悲劇か。

どうにかこの悲劇から、回復できないものでしょうか?
みんな、飽きやすいからなあ。