民主党を利用する
今週から1カ月余り日本に滞在します。一方で、そんなこんなのうちにオバマ政権がとうとうアメリカという国に国民健康保険制度めいたものを成立させてしまいました。オバマ人気の陰りが濃くなってきたころに、これは大きな歴史的転換となる出来事です。パブリック・オプションという選択を捨てての妥協案ではありますが、それはいかにアメリカという国が「社会主義」的政策にアレルギーを持っているかを示していることに他なりません。そう、国民皆保険制度というのは米国では「社会主義政策」と見なされているのです。
一方、日本の民主党・鳩山政権はオバマ政権同様、支持率はどんどん下がっています。そして3月内にも指針が表明されるという普天間基地移設問題ではまさにいま天王山。いったいどうなるのでしょうか。
「どうなるのでしょうか」という設問は、しかし私の意図するところではありません。これまでのコラムやブログなどの発言で、私が日本の民主党の支持者なのかどうかをよく聞かれます。旗色を鮮明にするためにここで表明すれば、私は民主党の支持者ではありません。というか、あれだけの(バラバラな)集団、そんな丸ごとぜんぶを支持してるとかどうとか、言えるわけないです。だいたい判断材料の成果を見るにもまだ時間が足りない。ただし言えることはただ、私は、民主党を使おうとしている、ということです。
私は日本の政治が、長い自民党政治でとんでもなく沈滞してしまったと考えています。優秀と言われた官僚たちはいつのまにか働かない集団となり、ろくな税金の使い方をしないようになりました。政治家の言葉は紋切り型のカスみたいなものになり、転換する世界の動きにまったく対応できなくなりました。このまま自民党にやらせていたら、私の考える理想のコミュニティ、理想の国家の形はさっぱり彼らには伝わらないし彼らも聞こうとはしないし、結果、形にもならない。そう諦めていたときに政権交代が行われたのです。
民主党は、それこそ海のものとも山のものとも知れない政党でしたが、政権交代には行政の無駄遣いの根絶や予算の組み替え、官僚制度の刷新や年金改革、沖縄の基地負担軽減などへの期待が託されていました。つまり、自民党政権では託しようのなかった思いを抱いていた人々が、やっと自分の思いを託そうと思えるモメンタムを得た、かのようだったのです。
それは「支持」というよりは「利用可能性」だったのだと思います。自民党時代には端から諦めていた自分たちの思いを具現するために、この政権を利用しようと思ったのです。それは日本の歴史で久しぶりの、民主党という新たな政体というのではなく、新たな(自民党支持の人々とは別の)民衆の積極的な政治意識の登場だったわけです。
自分たちの思いを具現するには、もちろん思いを託す政党そのものを育てなければなりません。おだて、なだめ、励まし、ときには威嚇しながらも、政治家たちを自分たちの思う方向に仕向けなければならない。「どうなるのでしょう」ではなく、そこでは「どうするのか」「どうしたいのか」がテーマです。
それはどんなに早くとも数年はかかる営みだと私は思っていました。50年以上も続いてきた政体を変えるわけですから、そのくらいじっくりと腰を据えなければできないでしょう。利用する側にもそんな覚悟が要た。
ところがそうする前に鳩山首相や小沢幹事長の政治資金問題が出てきました。そのときに私が考えたことは、それは果たしていかほどの大問題かということです。つまり、自分が利用しようとする政党の、利用するだけの気力が失せるほどのくだらなさなのかどうか、ということが判断基準となりました。
けっこう往生際が悪いというか、そのときに私が比較対象にしたのはやはり過去の自民党政治です。田中角栄の金権政治やリクルート事件に関してはここ最近いろいろと見直しが進んで、私もなんだかあのときそれを告発する側だったことの正当性が分からなくなってきていますが、鳩山・小沢問題は、これは自民党政府のあの失望させられ具合に比べたら、ぜんぜん屁でもなかったように感じました。国会では民主党による「あなた(自民党)にそういわれたくない」という反論が封印されてしまったようですが、いやいや私にはまさにそれこそがもう一つの判断基準でもあります。てか、どうしてそれがダメなの? って感じ。
ましてや小沢問題では、無謬性の権化の一つだったはずの検察=東京地検特捜部への疑問が噴出しました。別の一つであったメディアに対してもそうです。彼らは検察の思う筋書きに沿ったリークを喧伝し(リークじゃないとメディア企業は強弁していますが、取材者であった者から言わせれば、あれはどうしたってリークなんです。産経社会部長の言も読みましたが、片腹痛いとはこのこと。あの人、どういう畑だったのかしらね)、起訴するに足る事実がなかったにもかかわらず執拗にダーティーなイメージを糊塗し続けました。そうしていつのまにか私たちの間に民主党も自民党と同じかというニヒリズムが蔓延しているのです。
もちろん、私にはまだまだ自民党よりはぜんぜんマシなように思えているわけで、だからいまでも利用できると踏んでいるのですが、世間はどうもそうじゃないようです。でも、それは「支持するかどうか」という基準で考えているからではないでしょうか? そこを、「支持してないけど、使えるもんは使おう」と考えるともちょっと楽なんじゃないかと思います。各種世論調査も、そういう設問をすればまた変わった世相が見えてくるんじゃないか? 「あなたはいまも民主党を利用したいと思いますか?」ってね。
だって、今度の国家公安委員長の路上キスの問題だって、まったくなあ、と思いますが、ふと立ち止まって考えれば、ありゃそんなに騒ぐほどのものかなあとも思わないでもない。そりゃ脇が甘い、外国からのハニートラップの危険だってある、議員宿舎にテロリストがまぎれる危険もある、のは確かですが、私たちの関心というか非難の先はどうもプライベートな「30歳以上年下の女性とのキス」にあるようで、それ自体はべつに、独身の67男の、そうあれこれ取りざたすべき公の問題ではないのじゃないかとも思う。この問題は、そんな我々の興味の核心とは別に派生する問題が問題なのであって、それがまさに週刊誌ネタの週刊誌ネタである所以でしょう。まあ、人品のことで言えばここでもまた比較が出てくるんですが、宇野宗佑の小指騒動や森喜朗のえひめ丸ゴルフ場問題なんかを知っている身としては、ふうん、よくやるね、というところでまだ収まっている。ま、個人的な感想ですがね。
自民党政権と比べての相対評価というものがいかに危ういかは知っています。しかし悲しいかな、私たちにはいま民主党しか利用する道具がないのだとしたら、それを使うしかないじゃないか、って感じが強いのですね。
しかし私たちが利用しようとした民主党は、私たちが育てる前にへたりつつあるようです。あれだけ言っておきながら普天間の県外移設がかなわなかったら、それこそ政権は危機に陥りもするでしょう。以前にもここに書きましたが、アメリカと交渉するときにいちばん大切なのは、その政権がいかに国民の支持を得ているか、ということです。グアムへの全面移転だって、国民の支持が高ければアメリカだって譲歩せざるを得ない。しかしそれを知ってか知らずか、保守メディアは親米というねじれた構図を変えぬまま、いたづらに政権と国民との乖離を促進した。普天間問題はこれでアメリカの意に添うようにならざるを得なくなった。「国益、国益」と騒ぐメディアに限ってかえってこういうところで国益に反する属米路線を補強するようなことをしたのです。
日本の報道メディアはまた、政権発足後100日間の米メディアと政権との蜜月関係をさんざん紹介し報道しておきながら、その一方で100日以内の段階でも既に、何が足りない、何が問題だ、と騒ぎ立てていました。私も新聞社にいた経験からかなりメディア側に立って援護もしたいのですが、あのとき前口上のように説明していた米国メディアと政権との関係の話は、いったい、何の意図だったのか、その脈絡が私にはいまもさっぱりわからないままです。単なるネタ漁りだったのかもしれません。
いまの日本の民主党政権の危機は、自分の国を「どうしたいか」という主体的な思いを辛抱強く持ち続けていられないせっかちな私たちの危機であり、政党を育てるのではなく叩くことしかしないでいるマスメディアの危機でもあるのだと思います。私たちはいったいどこに行こうとしているのか?
いまのままでは私たちはそうして、利用すべき道具を、これは目立てが悪い、持ったときのバランスが悪い、ここが凹んでいる、ここが傷ついてる、と言って修理することもなく簡単に捨ててしまい、気づいたらいつか家を直すのに素手しかない、という状態になってしまうのではないかと恐れるのです。