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March 26, 2010

民主党を利用する

今週から1カ月余り日本に滞在します。一方で、そんなこんなのうちにオバマ政権がとうとうアメリカという国に国民健康保険制度めいたものを成立させてしまいました。オバマ人気の陰りが濃くなってきたころに、これは大きな歴史的転換となる出来事です。パブリック・オプションという選択を捨てての妥協案ではありますが、それはいかにアメリカという国が「社会主義」的政策にアレルギーを持っているかを示していることに他なりません。そう、国民皆保険制度というのは米国では「社会主義政策」と見なされているのです。

一方、日本の民主党・鳩山政権はオバマ政権同様、支持率はどんどん下がっています。そして3月内にも指針が表明されるという普天間基地移設問題ではまさにいま天王山。いったいどうなるのでしょうか。

「どうなるのでしょうか」という設問は、しかし私の意図するところではありません。これまでのコラムやブログなどの発言で、私が日本の民主党の支持者なのかどうかをよく聞かれます。旗色を鮮明にするためにここで表明すれば、私は民主党の支持者ではありません。というか、あれだけの(バラバラな)集団、そんな丸ごとぜんぶを支持してるとかどうとか、言えるわけないです。だいたい判断材料の成果を見るにもまだ時間が足りない。ただし言えることはただ、私は、民主党を使おうとしている、ということです。

私は日本の政治が、長い自民党政治でとんでもなく沈滞してしまったと考えています。優秀と言われた官僚たちはいつのまにか働かない集団となり、ろくな税金の使い方をしないようになりました。政治家の言葉は紋切り型のカスみたいなものになり、転換する世界の動きにまったく対応できなくなりました。このまま自民党にやらせていたら、私の考える理想のコミュニティ、理想の国家の形はさっぱり彼らには伝わらないし彼らも聞こうとはしないし、結果、形にもならない。そう諦めていたときに政権交代が行われたのです。

民主党は、それこそ海のものとも山のものとも知れない政党でしたが、政権交代には行政の無駄遣いの根絶や予算の組み替え、官僚制度の刷新や年金改革、沖縄の基地負担軽減などへの期待が託されていました。つまり、自民党政権では託しようのなかった思いを抱いていた人々が、やっと自分の思いを託そうと思えるモメンタムを得た、かのようだったのです。

それは「支持」というよりは「利用可能性」だったのだと思います。自民党時代には端から諦めていた自分たちの思いを具現するために、この政権を利用しようと思ったのです。それは日本の歴史で久しぶりの、民主党という新たな政体というのではなく、新たな(自民党支持の人々とは別の)民衆の積極的な政治意識の登場だったわけです。

自分たちの思いを具現するには、もちろん思いを託す政党そのものを育てなければなりません。おだて、なだめ、励まし、ときには威嚇しながらも、政治家たちを自分たちの思う方向に仕向けなければならない。「どうなるのでしょう」ではなく、そこでは「どうするのか」「どうしたいのか」がテーマです。

それはどんなに早くとも数年はかかる営みだと私は思っていました。50年以上も続いてきた政体を変えるわけですから、そのくらいじっくりと腰を据えなければできないでしょう。利用する側にもそんな覚悟が要た。

ところがそうする前に鳩山首相や小沢幹事長の政治資金問題が出てきました。そのときに私が考えたことは、それは果たしていかほどの大問題かということです。つまり、自分が利用しようとする政党の、利用するだけの気力が失せるほどのくだらなさなのかどうか、ということが判断基準となりました。

けっこう往生際が悪いというか、そのときに私が比較対象にしたのはやはり過去の自民党政治です。田中角栄の金権政治やリクルート事件に関してはここ最近いろいろと見直しが進んで、私もなんだかあのときそれを告発する側だったことの正当性が分からなくなってきていますが、鳩山・小沢問題は、これは自民党政府のあの失望させられ具合に比べたら、ぜんぜん屁でもなかったように感じました。国会では民主党による「あなた(自民党)にそういわれたくない」という反論が封印されてしまったようですが、いやいや私にはまさにそれこそがもう一つの判断基準でもあります。てか、どうしてそれがダメなの? って感じ。

ましてや小沢問題では、無謬性の権化の一つだったはずの検察=東京地検特捜部への疑問が噴出しました。別の一つであったメディアに対してもそうです。彼らは検察の思う筋書きに沿ったリークを喧伝し(リークじゃないとメディア企業は強弁していますが、取材者であった者から言わせれば、あれはどうしたってリークなんです。産経社会部長の言も読みましたが、片腹痛いとはこのこと。あの人、どういう畑だったのかしらね)、起訴するに足る事実がなかったにもかかわらず執拗にダーティーなイメージを糊塗し続けました。そうしていつのまにか私たちの間に民主党も自民党と同じかというニヒリズムが蔓延しているのです。

もちろん、私にはまだまだ自民党よりはぜんぜんマシなように思えているわけで、だからいまでも利用できると踏んでいるのですが、世間はどうもそうじゃないようです。でも、それは「支持するかどうか」という基準で考えているからではないでしょうか? そこを、「支持してないけど、使えるもんは使おう」と考えるともちょっと楽なんじゃないかと思います。各種世論調査も、そういう設問をすればまた変わった世相が見えてくるんじゃないか? 「あなたはいまも民主党を利用したいと思いますか?」ってね。

だって、今度の国家公安委員長の路上キスの問題だって、まったくなあ、と思いますが、ふと立ち止まって考えれば、ありゃそんなに騒ぐほどのものかなあとも思わないでもない。そりゃ脇が甘い、外国からのハニートラップの危険だってある、議員宿舎にテロリストがまぎれる危険もある、のは確かですが、私たちの関心というか非難の先はどうもプライベートな「30歳以上年下の女性とのキス」にあるようで、それ自体はべつに、独身の67男の、そうあれこれ取りざたすべき公の問題ではないのじゃないかとも思う。この問題は、そんな我々の興味の核心とは別に派生する問題が問題なのであって、それがまさに週刊誌ネタの週刊誌ネタである所以でしょう。まあ、人品のことで言えばここでもまた比較が出てくるんですが、宇野宗佑の小指騒動や森喜朗のえひめ丸ゴルフ場問題なんかを知っている身としては、ふうん、よくやるね、というところでまだ収まっている。ま、個人的な感想ですがね。

自民党政権と比べての相対評価というものがいかに危ういかは知っています。しかし悲しいかな、私たちにはいま民主党しか利用する道具がないのだとしたら、それを使うしかないじゃないか、って感じが強いのですね。

しかし私たちが利用しようとした民主党は、私たちが育てる前にへたりつつあるようです。あれだけ言っておきながら普天間の県外移設がかなわなかったら、それこそ政権は危機に陥りもするでしょう。以前にもここに書きましたが、アメリカと交渉するときにいちばん大切なのは、その政権がいかに国民の支持を得ているか、ということです。グアムへの全面移転だって、国民の支持が高ければアメリカだって譲歩せざるを得ない。しかしそれを知ってか知らずか、保守メディアは親米というねじれた構図を変えぬまま、いたづらに政権と国民との乖離を促進した。普天間問題はこれでアメリカの意に添うようにならざるを得なくなった。「国益、国益」と騒ぐメディアに限ってかえってこういうところで国益に反する属米路線を補強するようなことをしたのです。

日本の報道メディアはまた、政権発足後100日間の米メディアと政権との蜜月関係をさんざん紹介し報道しておきながら、その一方で100日以内の段階でも既に、何が足りない、何が問題だ、と騒ぎ立てていました。私も新聞社にいた経験からかなりメディア側に立って援護もしたいのですが、あのとき前口上のように説明していた米国メディアと政権との関係の話は、いったい、何の意図だったのか、その脈絡が私にはいまもさっぱりわからないままです。単なるネタ漁りだったのかもしれません。

いまの日本の民主党政権の危機は、自分の国を「どうしたいか」という主体的な思いを辛抱強く持ち続けていられないせっかちな私たちの危機であり、政党を育てるのではなく叩くことしかしないでいるマスメディアの危機でもあるのだと思います。私たちはいったいどこに行こうとしているのか?

いまのままでは私たちはそうして、利用すべき道具を、これは目立てが悪い、持ったときのバランスが悪い、ここが凹んでいる、ここが傷ついてる、と言って修理することもなく簡単に捨ててしまい、気づいたらいつか家を直すのに素手しかない、という状態になってしまうのではないかと恐れるのです。

March 18, 2010

恋する世代

日本産品の海外進出の柱の1つがスシや茶道を取り巻く食文化ですが、もう1つの柱がソニーやトヨタなどがコツコツと積み上げてきたまじめなモノ作りでした。ところが最近それらに元気がない。こないだ、アカデミー賞を見ていて気づいたんですが、トヨタは例のブレーキ問題で自粛したのかCMを1本しか出してなかった。で、それに代わって目立ったのが韓国の現代自動車です。「ヒュンデ」って発音するんですけどね、こっちでは。なんか、ソニーもパナソニックもいまやサムソンに追い越されそうになってるんだか追い越されたんだか、アメリカではそんな日韓の入れ替わりというかせめぎ合いが熾烈になってきています。

で、そんなモノ作りに代わって日本ブランドとして頭角を現して久しいのはキティちゃんや村上隆デザインの「可愛いグッズ」。これはまだ他に脅かされる分野ではない、独壇場です。なんといっても2年前でしたか、中国の観光客誘致で当時の自民党政権が親善観光大使に選んだのはそのキティちゃんでしたから、日本は国を挙げて(意識してかしないでか)そんな日本印の「子供っぽさ」を販促用のアイデンティティとして使ってるのです。

先日、東京で宮台真司や東浩紀らそうそうたる頭脳を集め、その村上隆らの描く「子供っぽい日本」についてのシンポジウムが行われました。そこにパネリストとして招かれたボストン大学で日本文学を教えるキース・ヴィンセントと事前にそのテーマで話をしていて、興味深い現象を知りました。いまアメリカの大学で日本のことを勉強しようとしている若者たちは、80年代のいわゆるバブル経済期とは違って、日本を勉強することが今後の自分の職業人生にとって有利に働くからとかというのではあまりないそうです。そういうオトナの動機を持つ学生たちが専攻しているのはいまや日本ではなくて中国であるらしい。

ただし一方で、日本の経済がこうしてデフレ・スパイラルのとんでもないことになっていても、日本に興味を持つ学生たちの数というのはそんなに減ってはいないそうです。ではどんな学生たちが来るのかというと、その多くはアニメやマンガといった日本の大衆文化のファンたちだというんですね。ま、それは予想に難くない。

そのせいか、日本学科の学生たちというのは、たとえばフランス語や中国語を勉強したいという学生たちとはなんだかすごく違うらしいんですよ。日本留学を希望している学生たちは面接などで日本の、例えば食べ物が好きだ、ファッションが好きだ、ポップカルチャーが好きだとかと言いつつ、ほとんど必ず「日本自体を愛している」と口にするらしいのです。で、しばしばその「愛」は、子供時代からずっと続いているのだと打ち明けてくるんだそう。

そこで、この子たちが「日本を愛してる」と口にするそのなにか強迫観念的な、オタクっぽい感じには何が潜んでいるのか、キースは考えました。

結論は、彼らにとっての日本は単に「どこかもう1つの別の国」ではなく、他には存在しない「どこか違う、約束の地」なんじゃないかということだったそうです。

中国学科の学生たちは中国の経済発展の凄まじさに魅了されている。ロシア学科の学生たちは新興財閥とヤミ経済に好奇心を抱いている。その文化や言語を大人になるために必要な勉強としてとらえているのですね。アメリカのフランス語専攻の学生たちの夢というのもまあ大人っぽさへの憧れでもあって、いまでも例えばパリに住んでセーヌの左岸のカフェでワインを飲んでカミュを読んで、という感じなんだといいます。

ところがいまの日本学科の学生たちは、全部とはもちろん言いませんが、頭までズッポリと日本に恋しちゃってる。そしてこの恋愛感情の奇妙な強烈さは、おそらく彼らが日本文化を自分の子供時代に結びつけていることと関係しているのではないか。というのも、彼らの記憶の最初期は必ずポケモンやセーラームーンを通して日本とつながっていて、それでどこか無意識のレベルで、日本で勉強したら自分のあの幸せな子供時代をもう一度追体験できる、みたいな、そんなふうに想像しているようなフシがあると言うのですね。

今回のこの話に残念ながらオチはありません。その学生たちが今後、日米の双方の社会でどのような役割を果たしていくのかは、まだだれにもわからないからです。いったい、どういう新しい日米関係が彼らの世代を通して出来上がっていくのでしょうね。なんだかすごく興味があります。

March 10, 2010

敢てイルカ殺しの汚名を着て

アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞に日本のイルカ漁を扱う「ザ・コーヴ」が選ばれ、案の定日本国内からは「食文化の違いを理解していない」「牛や豚の屠殺とどう違うんだ」「アメリカ人による独善の極み」と怒りの反応が出ています。あるいは「アカデミー賞も地に墜ちた」とか。

まあ、賞なんてもんは芥川賞だって日本レコード大賞だってトニー賞だってノーベル平和賞まで、そもそも販売促進、プロモーションから始まったもので、それにいかに客観性を持たせるかで権威が出てくるのですが、ときどき先祖返りしてお里が知れることもなきにしもあらずですから、まあここは怒ってもしょうがない。ヒステリックになるとあのシーシェパードと同じで、それじゃけんかにはなるが解決にはなりません。というか、このコーヴ、日本じゃ東京映画祭とかなんとかで上映したくらいでしょ? ほとんどのひとが見ていないはず。見ているひとは数千人じゃないのでしょうか? あるいは多く見積もっても数万人? うーむ、いや、そんな多くはないか……。

「ザ・コーヴ」は毎年9月から3月までイルカ漁を行う和歌山県太地町をリポートした映画です。とはいえ、イルカの屠殺現場は凄惨なので、これがどう描かれるか心配した地元側が撮影隊をブロックしました。そこで一行は世界中からその道のプロを集めて太地町を隠し撮りしたのです。

隠し撮りの手法というのは、ジャーナリスティックな意義がある場合は認めて然るべきものだと私は思います。でも、それ以外は米国ではじつはものすごく厳しい倫理規定があって、一般人を映画に撮影する場合は、道路を行く名もなき人々なんかの場合以外はかならずその映画のプロデューサー側がその人に、「編集権には口を挟まない」かつ「上映を承諾する」、という旨の書類にサインをもらうことになっています。そうじゃなきゃ、この映画気に食わない、といって自分が映っていることで上映差し止めを求める訴訟を起こされたりすることもあり得ますから。

で、このコーヴは、これは告発ドキュメンタリーだと位置づけているのでしょう。だから太地町の人たちにはサインを求めなかった。そしてドキュメンタリーだから映っている人たちの顔にボカシも入れなかった。この辺はなんでもボカシャいいと思ってる日本の制作サイドとは違います。ところが映画の作りはそれはもう大変なサスペンス仕立てで、太地町vs撮影隊、というこの対立構図がとてもうまく構成されているんですね。撮影クルーはなにしろ世界記録を持つ素もぐりダイバー夫婦だとか水中録音のプロだとか航空電子工学士だとかまで招集して、まるで「スパイ大作戦」に登場するような精鋭たち。隠しカメラを仕込んだ「岩」や「木」はあの「スターウォーズ」のジョージ・ルーカスの特撮工房が作り上げた模型です。それらを設置する真夜中の模様も暗視カメラで記録されて、まるで戦場映画のようなハラハラドキドキ感。なにせ町中の人間が彼らを監視し、警察までが「グル」なのですから、こんな演出が面白くないはずがない。

しかしそれは最後のシーンで衝撃に変わります。そこには、入り江(コーヴ)に追いやられた大勢のイルカたちが漁民たちのモリでズボズボと突かれ、もがきのたうつ彼らの血で海が真っ赤に染まるようすが映っているのです。これはサカナ漁ではない映像です。これは屠殺です。

じつは今回のオスカーにはもう1作「フード・インク」という、食品産業をめぐるおぞましいドキュメンタリーも候補に上っていました。こちらは米国の食ビジネスの大量生産工業化とそのぞっとする裏面を取り上げたもので、米国人の日常生活の根幹を揺るがすショッキングな食の事実が満載です。でもこれに賞をあげたら食関連のスポンサーがいっせいに退くだろうなあ、と思っていたらやっぱり取れなかった。もっとも、映画としてはコーヴの方が確かに面白いのですが。

「イルカの屠殺現場は凄惨なので」と最初に書きました。でも思えばすべての動物の屠殺現場はすべて凄惨です。はっきり言えば私たちはそんなものは見たくない。

コーヴの不快の本質はそこにあります。それは、生き物は他の生き物を殺して食べるしか生きられないという現実を、私たちがどこかで忌避しているからです。みんなそれをやってるが、だれもそれを語りたくない。その結果、近代社会では屠殺の現場をどんどん分業化し、工業化し、近代設備の清潔さの装いの向こう側に囲い込んで見えなくしていったのです。それは、生活の快適さ(のみ)を求める近代化の当然の帰結でした。私たちは牛や豚や鶏の屠殺の現場すら知らない。でもそれは言わない約束だったでしょ? でも、どうしてイルカだけ、こうして「言っちゃう」わけ? しかも「告発」されちゃうわけ? コーヴでは、こうしてそこに制作者側への「自分たちのことは棚に上げて」感という「目には目を」の反発が加わり、より大きな反感が生まれたわけです。そっちがそういうつもりなら、こっちにも考えがあるぞ、です。戦争って、国民の意識レベルでは往々にしてそうやって始まるんです。

そういうときに「日本人は食べ物を粗末にしない。いただきます、と感謝して食べている」という反論は効き目がない。しかもそれ、ウソですから。食品ゴミの量は人口差をならすと日米でほぼ変わりなく、両国とも世界で最も食べ物を粗末にする国なのです。日本じゃ毎年2200万トンの食品ゴミが出てるんですよ。カロリー換算だと食べ物の30%近くが捨てられている。また、「食文化の差」という反論もこれだけ欧米化している時代にそう説得力を持たない。「日本食」の3大人気メニューはカレーにハンバーグにスパゲティでしょ? 古い? あるいは牛丼、ホルモン、回転寿しか? いずれもイルカやクジラではないわけで、そういう中途半端な反駁はすぐにディベートの猛者であるアメリカ人に突っ込まれてグーの音も出なくなります。

もっとも、彼らの振り回す、よくある「イルカは知能が高いから殺すな」という論理には簡単に対抗できます。それはナチスの優生学のそれ(劣った人種は駆逐されるべき)と同じものだ、きみはナチスと同じことを言っているのだ、と言えばいいんです。これはナチス嫌いのアメリカ人への反駁の論理としてはとても有効です。

なんとなく整理されてきました。だとすると、この映画が提起する問題で本当に重要なのは、「イルカの肉に含まれる水銀量は恐ろしく多く、それを知らされずに食べている消費者がいる」という点だけ、だということです。

ところが、私の知る限り、これに対し日本のどこも反論のデータを教えてくれていない。

それは、怒り過ぎているからか、それとも怒りを煙幕に事実隠しをしているからか?

私にはそれだけが問題です。それに対して「水銀量は多くない」というデータで反証できれば、この「ザ・コーヴ」は、敢てイルカ殺しの汚名を着ても、なに後ろ暗いことなく、いや生きることにいままでどおりすこしは悲しい気持ちで、しかしそうではあっても別段これを機に気に病むこともなく、そしてなおかつそうカッカと怒らずでもよい映画である、と明言(ちょっとくどいけど)できるのですが。