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April 28, 2010

性急な、あまりに性急な

日本の民主党政権の人気浮揚策となるのか、あの事業仕分けの第2弾が始まってます。で、朝昼のワイドショーのニュース談義を見ていて気づいたことがあります。日本ではいろいろな職種の人たちがコメンテイターとしてスタジオに座っています。その人たちが、どうも予定調和的にある一方向のコメントを発する傾向があるのですね。

例えば、仕分け対象になった「独立行政法人都市再生機構」を論じた際にある局では慶応の先生が「本来なら独法は全廃してそこから必要なものだけを再生させるのがスジ」と言えば、隣の政治評論家が「民主党のマニフェストも本来はそれを約束していた」と言葉を継ぐ。そうしてスタジオ全体がそうだそうだという雰囲気になってくる。そこには全廃した際に解雇される膨大な人々の雇用問題をどうするかとか、実際に機能しているプロジェクトの継続をどうするかといった現実的なステップがすっ飛んでしまっています。

こういうのをコメンテイター同士のピア・プレッシャーというんでしょうか。ピア・プレッシャーというのは「仲間の圧力」という意味で、みんなと一緒でなければいけないと、周囲からそういう暗黙の圧力があるように思い込んでしまっていることなんですが、まさに「空気」というやつです。「空気を読めよ」っていうやつ。それが無意識のうちに働いてしまっているようで、どうにもそのスタジオ内では出演者同士の論争を避けているふうな印象を受けるのです。それでなんとなくいまは予定調和的に政権批判の論調に落ち着く。この辺は世論調査の内核支持率とも連動していて、政権発足時の支持率7割のときは賞賛論調でまとまることも多かった。

いやそこは手だれのコメンテイターたち、ときには異論を唱えるのが見事な人たちもいます。でもそれはそこでは論争にはならない。なんとなく司会者やキャスターが引き取って、「それにしても〜〜ですよね」で、うんうん、とまとまっちゃうようなことが多い、そんな印象。もっとも、放送ではコメントする時間はあっても論争する時間はないのが普通ですから無理もないのかもしれませんが、周囲の「空気」を読んでまとまっちゃうこの感じ、これはすごく日本的だなあと思いました。

米国の報道番組ではCNNはじめほとんど必ず論者を対峙させる作りになっています。Foxですらコメンテイターを呼んでモノを言わせるときはスタジオのキャスターとの論争の形を取る。出演依頼したみんなで同じことを言い合って「そうだ、そうだ」ということはまずありません。必ず反対論者が用意されていて、違う視点をぶつけ合い、それで視聴者は視聴者で自分でどうなのか判断するという流れ。「朝まで生テレビ」のミニチュア版が常に行われている、と言ったらわかりやすいかも。医療保険改革案にしても賛成・反対・公的オプション派などが相手の「空気」などお構いなく、侃々諤々か喧々囂々なのか、とにかくあちこちでかまびすしい議論が展開していました。

私はいまでも日本の政権交代は意義があったと思っています。何といっても民主党になっていろいろ隠れていた政治・行政の過程が見えるようになった。事業仕分け然り、揉めている高速道路の無料化公約と実質値上げの新料金制度との問題だって、小沢さんのオトナ気ない前原さんイジメを除けば、米国のニュース番組みたいに賛否両論がなんと政権政党内から提示されて実に興味深い。普天間の問題だってメディアの誤報まで含めてまるで見世物です。だいたい沖縄のことに、それこそ主婦まで含めてみんながこんなに注目したのも初めてのことではないでしょうか?

自民党時代にはそんなゴタゴタはなかったとしてこれらを民主党政権の「迷走」ととるのは簡単です。が、自民党時代の、国民に伝えられるときも国会でも「すでに自民党内で決まったことで決定」という既決感はあまりに空しかった。

鳩山政権の支持率はすでに20%台。でも政権発足8カ月というのは、客観的に言って成果が出せるような期間じゃありません。いくら何でもこの判断は性急すぎるんじゃないのかしらって思うんですよね。だって55年間つづいた自民党独裁の垢落としですよ、そんな簡単に成果が出るわきゃあない。独法全廃、議員定数削減、沖縄基地問題の解決、年金改革、財政均衡……そろって大問題です。「みんなの党」に期待をかけてる人たち、その期待は昨年の選挙前に民主党にかかっていた期待と同じものなんでしょうけど、もし同じように性急ならばその期待は同じように裏切られます。

子供の育て方と同じ。ダメだダメだ、ではなく、この場合は、頑張れ、もう少し頑張れ、うん、そこはいい、ではないのかなあ。

とは言えまあ問題は、民主党下でじゃあこれからどんな成果が出てくるのか、なのですが、その成果創出も、検察審査会の「小沢一郎起訴相当」決定でまた逆風下です。

でもねえ、この検察審査会にしても、いったいどういうひとがやっているのかいっさい謎。米国の陪審員というのは当該事件に関していかに予断を持っていないか、それまでの報道など不確定な“事実”にいかに汚染されていないか、対象案件と利害関係はないか、などをじつに厳しく精査されて選出されるんですが、日本では陪審員制度に似ている裁判員制度ですらあまりそこらは厳密には追及されないようですし、ましてや検察審査員というのはそこら辺、だいじょうぶなんでしょうか?

検察審査会が有効な時というのは、検察が起訴したくなかったやつを案の定起訴しなかったときに、「そうじゃないだろう!」と突き返す時です。たとえば同じ検察官だとか警察官だとかへの、身内かばいの起訴猶予や不起訴が往々にしてあるでしょう? そういうときに市民感覚で、「それは違うだろう、身内に甘いのは許さん!」というのは正しい。でも、起訴したくてしたくてしょうがないのにできなかった場合、小沢の場合はこれに相当しますが、それを起訴しろっていうのは、それこそ証拠がないのに締め上げろって、まさに冤罪の捏造と同じではないのか? それって、検察審査会の役目じゃないような気がします。しかも、「起訴相当」案件が不動産の取得時期と代金支払いの時期との2カ月余りの「期ズレ」に関してだというから、そんなの政治資金規正法上、立件するようなものなんでしょうか。

メディアでみんな同じ方向で論じているのであえて言いますが、「起訴相当」が一般の人たちの感情、という論調も、その詳細をすっ飛ばして小沢は西松から不正資金を受け取っているに違いないという雰囲気を後押しにしています。それは「ポピュリズム」を批判してきた新聞の言うことではないだろうという気がします。それこそ「悪しきポピュリズム」って、民主党発足時にさんざん批判してきた新聞社は、どう整合性を持たせるつもりでしょうか。そのあたり、じつにいい加減。論説室にそういうこと気づくひといないのかしら? それともこれもピア・プレッシャー?

小沢断罪の各紙の今朝の社説はほんと横並びでひどいものでした。言論機関といえどもどう考えても論拠がない。「起訴相当」は「起訴」ですらないのに、そして「起訴相当」対象は期ズレという形式的な問題だというのに、この人たちはよっぽどひとを裁判なしで裁きたいらしい。それが自らにも返ってくる諸刃の論理だということを知らぬはずもないのに。

いや、この体たらく、明るい未来は一筋縄ではいかないもんです。

April 14, 2010

リタイアという美学

「たちあがれ日本」という平沼・与謝野新党に関して、日本ではまずは反射的に平均年齢69.6歳という高齢を揶揄する論調が多勢を占めました。いわく「立ち上がれ日本、杖なしで」とか「立ち枯れ日本」とか。

これに対し「いや年寄りだからダメということはない。すばらしい高齢者はたくさんいる」という一見「正論」がそれを押し戻した形になっています。たしかにそうです。でもこれは、果たしてそういう問題なのでしょうか?

この妙竹林な党名の命名者である77歳の石原慎太郎は結党会見で「年寄り年寄りとバカにするな。君らが持ってない危機感を我々年寄りは持ってるんだ」と妙に本気で気色ばんでおりました。こういうのを見るにつけ、政治とは理念ではなく情念で動くもんなんだなあと思ってしまいます。

で、この石原を入れれば優に平均年齢70歳を超えるこの彼らの情念とはいったい何なのか? 会見での石原の顔は、なんだかとても怯えているようでした。悲しそうですらあった。それは私の目には、日本の未来への危機感というよりも、自分が用無しの年寄りに成り果てることへの危機感のように映りました。いわば、権力への妄執。力を失って老いさらばえることへの恐れです。それが彼を叫ばせていた。(素人の読心術ですがね)

自民党が70歳定年制を敷いているので、平沼新党の自民党離党者たちはいずれにしても次は公認をもらえなかった。そのためのロートル議員の受け皿党だという口さがないひともいます。しかし私には、問題はそういうことではないと思えます。

私は、どんなにすばらしい高齢者でも、10年後、20年後に責任をもてないひとは政治権力の中枢にいるべきではないと思っています。つまり10年後、20年後に生きていないひとが、10年後、20年後の社会を作ってはいけないと思うのです。

10年後、20年後の社会を憂うなというのではありません。おおいに憂えてもいただきたいが、それは在野からの、そのひと個人の影響力として物申すべきだ。なぜなら、実際に権力を行使して10年後の社会を作るひとは、10年後にそれが失敗したときに責めを負えるひとであるべきだと思うからです。だってその10年後の社会は良くも悪しくも、その10年後にも生きているひとたちのものなのですから。
 
にもかかわらずどうしていまも日本社会の権力中枢には、政界に限らずどこぞの新聞社のドンとか、老醜、老害としか見えないひとたちが居座っているのでしょう。さんざん権力を行使してきていまもまだ社会に危機感を抱いているというのは、とりもなおさず彼らのこれまでの試みのすべてが失敗してきたという証左に他なりません。ならばあっさりと失敗を認めて、引き下がればよいものをまだ自分で何かをしたいと思う。その意気や壮としても、それは在野で個人的にやってもらいたい。そのときこそそのひと個人のそれまでの生き方が評価されます。またそうしてくれないといつまでも若い世代が責任を負って仕事をしません。それこそが次世代への彼らの危機感の原因であるにもかかわらず、その原因の素こそが彼らなのです。

冒頭の言に戻れば、すばらしい高齢者はもちろんたくさんいます。しかし問題はシルバー新党の諸氏がどうすばらしい年寄りなのかということであって、自動的に彼らがすばらしい高齢者だというわけではない。むしろ石原やナベツネのように「オレがオレが」と吠えるひとほど、すばらしいというよりもみすぼらしく映るわけですが、前述したように、すばらしい高齢者であればあるほど、後進に道を譲る道こそが社会の正しいあり方だと知っているはずなのです。それでも国を憂うるならば、身1つで老成した文学者か哲学者のように根気よく発言し続けるか、あるいは不満爺となって憤死するかの2つに1つしか道はないのです。

そう考えてくると、問題は「リタイアの美学」を育ててこなかった日本の社会文化にもあるのかもしれませんね。まあ、それだけ精神的に余裕のない、貧しい国だったということでしょう。それに、年寄りも大事にしてこなかった社会だものなあ。でも、石原なんて若い頃から年寄り攻撃してきた張本人だし、ナベツネだって先達を媚び諂いおもねる道具か唾棄するバカかとしてしか見てこなかった類いの男です。老いて権力を失うことへの強迫的な恐怖は、自業自得といいますか、むしろ彼らの生き方そのものが自ら作り出してきた彼らの人生の亡霊みたいなものなんでしょう。くわばらくわばら。