リタイアという美学
「たちあがれ日本」という平沼・与謝野新党に関して、日本ではまずは反射的に平均年齢69.6歳という高齢を揶揄する論調が多勢を占めました。いわく「立ち上がれ日本、杖なしで」とか「立ち枯れ日本」とか。
これに対し「いや年寄りだからダメということはない。すばらしい高齢者はたくさんいる」という一見「正論」がそれを押し戻した形になっています。たしかにそうです。でもこれは、果たしてそういう問題なのでしょうか?
この妙竹林な党名の命名者である77歳の石原慎太郎は結党会見で「年寄り年寄りとバカにするな。君らが持ってない危機感を我々年寄りは持ってるんだ」と妙に本気で気色ばんでおりました。こういうのを見るにつけ、政治とは理念ではなく情念で動くもんなんだなあと思ってしまいます。
で、この石原を入れれば優に平均年齢70歳を超えるこの彼らの情念とはいったい何なのか? 会見での石原の顔は、なんだかとても怯えているようでした。悲しそうですらあった。それは私の目には、日本の未来への危機感というよりも、自分が用無しの年寄りに成り果てることへの危機感のように映りました。いわば、権力への妄執。力を失って老いさらばえることへの恐れです。それが彼を叫ばせていた。(素人の読心術ですがね)
自民党が70歳定年制を敷いているので、平沼新党の自民党離党者たちはいずれにしても次は公認をもらえなかった。そのためのロートル議員の受け皿党だという口さがないひともいます。しかし私には、問題はそういうことではないと思えます。
私は、どんなにすばらしい高齢者でも、10年後、20年後に責任をもてないひとは政治権力の中枢にいるべきではないと思っています。つまり10年後、20年後に生きていないひとが、10年後、20年後の社会を作ってはいけないと思うのです。
10年後、20年後の社会を憂うなというのではありません。おおいに憂えてもいただきたいが、それは在野からの、そのひと個人の影響力として物申すべきだ。なぜなら、実際に権力を行使して10年後の社会を作るひとは、10年後にそれが失敗したときに責めを負えるひとであるべきだと思うからです。だってその10年後の社会は良くも悪しくも、その10年後にも生きているひとたちのものなのですから。
にもかかわらずどうしていまも日本社会の権力中枢には、政界に限らずどこぞの新聞社のドンとか、老醜、老害としか見えないひとたちが居座っているのでしょう。さんざん権力を行使してきていまもまだ社会に危機感を抱いているというのは、とりもなおさず彼らのこれまでの試みのすべてが失敗してきたという証左に他なりません。ならばあっさりと失敗を認めて、引き下がればよいものをまだ自分で何かをしたいと思う。その意気や壮としても、それは在野で個人的にやってもらいたい。そのときこそそのひと個人のそれまでの生き方が評価されます。またそうしてくれないといつまでも若い世代が責任を負って仕事をしません。それこそが次世代への彼らの危機感の原因であるにもかかわらず、その原因の素こそが彼らなのです。
冒頭の言に戻れば、すばらしい高齢者はもちろんたくさんいます。しかし問題はシルバー新党の諸氏がどうすばらしい年寄りなのかということであって、自動的に彼らがすばらしい高齢者だというわけではない。むしろ石原やナベツネのように「オレがオレが」と吠えるひとほど、すばらしいというよりもみすぼらしく映るわけですが、前述したように、すばらしい高齢者であればあるほど、後進に道を譲る道こそが社会の正しいあり方だと知っているはずなのです。それでも国を憂うるならば、身1つで老成した文学者か哲学者のように根気よく発言し続けるか、あるいは不満爺となって憤死するかの2つに1つしか道はないのです。
そう考えてくると、問題は「リタイアの美学」を育ててこなかった日本の社会文化にもあるのかもしれませんね。まあ、それだけ精神的に余裕のない、貧しい国だったということでしょう。それに、年寄りも大事にしてこなかった社会だものなあ。でも、石原なんて若い頃から年寄り攻撃してきた張本人だし、ナベツネだって先達を媚び諂いおもねる道具か唾棄するバカかとしてしか見てこなかった類いの男です。老いて権力を失うことへの強迫的な恐怖は、自業自得といいますか、むしろ彼らの生き方そのものが自ら作り出してきた彼らの人生の亡霊みたいなものなんでしょう。くわばらくわばら。