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May 29, 2010

普天間日米共同声明

日本での動きのあまりの速さに、この隔数日刊ではとても対処できないんですけど、でもここは書き留めておかねばならないでしょう。

外務省のサイトで日米共同声明の日本語の仮訳と英語版を見比べてみます。と書きながら、これ、不思議じゃありませんか? 日本語は「仮訳」なんです。つまり、これはまず英語で書かれていて、それをもとに日本語に訳しているんですね。ふうん、アメリカとの外交文書、共同声明ってのは、英語ベースなんだ。沖縄のことを書いているのに、日本語じゃない。なんとなく腑に落ちませんが、アメリカ側は日本語、わからんからね、……などと思ってはいけません。日本と外交交渉をするアメリカ側の役人はふつう日本語ぺらぺらです。でもってしかし、交渉では日本語は話さない。日本側に英語を話させたり、あるいは通訳を使って交渉します。でも英語ベースであるというそういうところからしてもう交渉のイニシアチヴは握られています。これはとても象徴的なことです。

その仮訳で、6段落めにこうあります。

両政府は,オーバーランを含み,護岸を除いて1800mの長さの滑走路を持つ代替の施設をキャンプ・シュワブ辺野古崎地区及びこれに隣接する水域に設置する意図を確認した。

英語ではこうです。

Both sides confirmed the intention to locate the replacement facility at the Camp Schwab Henoko-saki area and adjacent waters, with the runway portion(s) of the facility to be 1,800 meters long, inclusive of overruns, exclusive of seawalls.

日本語では「1800mの長さの滑走路」とある部分が英語では「the runway portion(s) of the facility to be 1,800 meters long」と、runway portion(滑走路部分)(s)となっています。つまり、複数形にもなり得ると書き置いているわけです。これはつまり、2006年の「現行案」と同じV字型滑走路に含みを持たせる表現でしょう。いったん土俵を割るとどこまでもずるずると下がってしまう、日本外交の粘りのなさがここにも現れてしまうのでしょうか。

そうやって英語で話が進められたとはいえ、しかし米国ではこの問題は大きな事案として報じられてはいません。これが「原案」回帰という辺野古移設じゃなければ大きなニュースになっていたんでしょうが、いまはアメリカでは例のメキシコ湾の原油流出と同性愛者の従軍解禁がトップニュースで、すべてそっちに目がいっています。おまけに軍の展開に関してはとても複雑で専門的な話が絡んで来るので、日本でもそうでしょうが一般のアメリカ人が関心があるかというと普通はそうじゃないでしょう。そして事はなにごともなかったかのように進んでゆく。NYタイムズのマーティン・ファックラーが23日の沖縄の抗議集会を伝えた記事で、「とどのつまり、辺野古移設をうたった2006年合意を尊重しろというワシントンの主張が勝利したのだ(won out)」と書いてるんですけど、そういうことだったのです。

昨年の時点から言っていますが、アメリカはいま(というか前から)沖縄のことで煩っているヒマはない。というか、すべてのシステムというのは、とにかくこれまでのとおりに事が進むことを至上の目標としています。これまでどおりなんだから過ちや危険や破綻は起きないはずなのです。それが保守主義。その中で、しかし世界情勢はそうは上手くは問屋がおろさない。韓国もフィリピンもあんなに従順だった時代を経ていつしかアメリカに反旗みたいなのを翻すようになって基地が要らないなんて言い出して、けっきょくは縮小されてしまった。その度に東アジア極東の軍事再編です。面倒臭いことこの上ない。そして唯一日本だけがそういう懸念から自由な安全パイだったわけです。

ところがその日本が変なことを言い出した、のが昨年の政権交代でした。しかしアメリカとしては実にまずい時期に言ってくれた。なにせこちらも政権交代の発足間もないオバマ政権が、アフガン、イラクの戦争でにっちもさっちもいかなくなっている。おまけに日本がやってくれていたインド洋の給油だってやめるとか言うわけです。これは困ったことです。

しかし、一方でオバマ政権もまた当時は、政権交代という同じダイナミズムを経験した日本の民主党政権と、新たな安全保障を築き上げる構えはあったのだと思います。当時、日本の保守メディアでさんざん紹介された旧政権、米共和党と日本の自民党の間で禄を食んでいたジャパン・ハンドラーの人たちとは違い、ジョセフ・ナイを始めとする米民主党の知日派たちは日本の民主党の、これまでの対米従属とは異なる自主防衛の芽を模索するかのような動きに注目していたのでした。そこから10年後20年後の新たな極東安全保障体制が出来上がるかもしれない期待を込めて。なにせ、長い沈滞の政治を経て、日本国民の70%もが支持した政権が発足したのです。この民意をアメリカ政府は恐れた。それこそがかつて韓国、フィリピンから米軍を追い出したものだったからです。

ところが、日本は思いもかけなかった動きを見せました。ここの国民たちは、沖縄の基地移転問題で、そもそもの原因であるアメリカを責めるのではなく、時の政権の不明瞭な態度を責め立てたのでした。

28日付けのNYタイムズは、A-7面という地味な位置取りの東京電で、「これで長引いた外交的論争は解決したが、鳩山首相にとっては新たな国内問題の表出となる」と書き始め、いみじくも次のようなフレーズで記事を〆ました。

Despite the contention over the base, most anger has been directed at Mr. Hatoyama’s flip-flopping on the issue, not the United States. Opinion polls suggest most Japanese back their nation’s security alliance with the United States.
(米軍基地をめぐる論議にも関わらず、怒りの向きはほとんどが米国ではなく、言を左右した鳩山首相へと向かっていた。世論調査ではほとんどの日本人が米国との安全保障同盟を支持している)

これはアメリカにとって僥倖というか、おそらくなんでなのかよくわからない日本人のねじれです。しかしこの間の日本メディアの報じ方を知っているわれわれにはそう驚くことでもありません。なぜなら、メディアのほとんどは、ワイドショーのコメンテイターも含めて、「米軍のプレゼンスが日本を守る抑止力である」ということを大前提にして論を進めていたからです。その部分への疑義は、最後の最後になるまでほとんど触れられさえしませんでした。

しかも精査してみれば、「米軍のプレゼンス」はいつのまにか「米海兵隊のプレゼンス」になり、まるで海兵隊が日本を守ってくれるような論調にもなった。そしてそのウソに、ほとんどのTVコメンテイターや社員ジャーナリストたちは気づかないか、気づかないフリをしたのです。

12000人のその海兵隊の8000人がグアムに移転するとき、海兵隊は分散配置できない、というウソが露呈しました。残るは4000〜5000人、という海兵隊のプレゼンスの減少は問題とされませんでした。しかも、海兵隊は第一波攻撃隊というかつての戦争のやり方がもはや通用しないにもかかわらず、いまもそれこそが抑止力なのだと信じる人たちが自明のことのように論を進めたのです。

イラクでもアフガンでも、攻撃の第一陣は圧倒的な空爆です。そこでぐうの音も出ないほどに敵を叩き、さらにはドローン無人攻撃機でより緻密に掃討する。そこからしか地上軍は進攻しない。それはもうあの湾岸戦争以来何度も見てきたことではなかったか。

では海兵隊はなにをするのか? 海兵隊は進攻しません。海兵隊は前線のこちら側で、もっぱら第一にアメリカ人の救出に当たるのです。アメリカ人を助け上げた後は場所にもよりますがまず英国人やカナダ人です。次に欧州の同盟国人です。日本人はその次あたりでしょうか。

この救出劇のために海兵隊は「現場」の近くにいなくてはならないのです。
で、これは抑止力ですか? 違います。日本を守る戦力ですか? それも違うでしょう。

いったい、鳩山さんが勉強してわかったという「抑止力」とは、どう海兵隊と関係しているのか? それがわからないのです。昨日の記者会見でその点を質す記者がいるかと思ったがいませんでした。

これに対する、ゆいいつ私の深くうなづいた回答というか推論は、うんざりするほど頭の良い内田樹先生のブログ5月28日付《「それ」の抑止力》にありますが、それはまた別に論じなくてはならないでしょうね。もし「それ」が本当ならば、すべての論拠はフィクションであり、フィクションであるべきだということになってしまうのですから。

それはさて置き、というふうにしか進めないのですが、もう1つ、この問題でのメディアの対応のある傾向に気づきました。じつは昨日、日本時間の夜の11時くらいから某ラジオに電話出演し、日米共同声明のアメリカでの報じられ方に関して話をしました。そのときにそこにその局の政治部記者も加わって、少ししゃべったんですね。その記者さんの話し方を聞いていて、ああ、懐かしい感じ、と思った。聞きながら、なんだかこういうの、むかし、聞いたことがあるな、と頭の隅のほうで思っていたのです。

彼は盛んに政権の不手際を指摘するのですが、なんというのでしょう、その、いちいちもっともなその口調、その領域内ではまったくもって反論できない話し方、それ、そういえばずいぶんとむかし、国会の記者クラブで他社や自社の記者仲間を相手に、いちばん反論の来ない論理の筋道を、どうにかなぞって得意な顔をしていた、かつての自分のしゃべり方になんだか似てる、と気づいたんです。

記者クラブでつるんでいるとなんとなくその場の雰囲気というか、記者同士の最大公約数みたいな話の筋道が見えてくる。それでまあ、各社とも政治部とか、自民党担当の主みたいな記者がいて、下手なこと言ったり青臭いこと言ったりしたらバカにされるんですよ。それでみんな、バカにされないようにいっちょまえの口を利こうとする。そうするときにいちばん手っ取り早く有効な話は、「あいつはバカだよ」ということになるのです。自分がバカだと言われないように、先にバカだというヤツを用意しちゃう。褒めたりはしない。なんか、自分がいちばん通な、オトナな、あるいは擦れ切った、という立ち位置に立つわけですね。そうしているうちに、それこそが最強のコメントだと思い込むようになる。そしてその記者クラブ的最大公約数以外の論の道筋が見えなくなってくるんです。というか、相手にしなくなってくる。

一昨日にテレ朝の「やじうま」とかいう番組に江川紹子さんが出ていたときもその感じでした。スタジオが鳩山の普天間迷走を責める論調になったときに、彼女が1人で「そうは言っても自分の国の首相が何かをしようとしているときに後ろから鉄砲を撃つようなことをしていたメディアの責任も問われるべき」みたいなことを言ったんですね。そうしたら、隣のテレ朝政治部の三反園某と経済評論家の伊藤某が、まるで彼女が何を言ってるのかわからないといった呆れ顔で(ほんとうにそんな顔をしたんです。信じられない!って感じの)いっせいに反論をわめきました。そのときもきっとそうだったです。彼らの反応を見る限り、彼らにはほんとうに、彼女が指摘したような「足を引っぱっていた」という意識はなかった。それは思いも寄らなかった批判だったのだと思います。そういう意見があるということすら、彼らは知らないのかもしれない。

したがって、日本のテレビに登場してくる各社の記者たちのコメントが多く一様にそういう利いた風な感じなのは、きっと記者クラブのせいなんだと、不覚にもいま思い至りました。これもピアプレッシャーというか、プレッシャーとすら感じられなくなった、システムとしては理想的な保守装置です。

うー、何を書いてるのかわからなくなってきたぞ。あはは。

あ、そうそう、で、ラジオで話していて、そのときもはたしてここは論争の場にしていいのか、それともどこか予定調和的にうなづいて終わるようにすべきか、私も日本人ですね、ちょいと逡巡しているあいだに10分間が過ぎて話は終わったのですが。

結論を言えば、鳩山政権のこの問題への取り組みは誠に不首尾だったと言わざるを得ません。
しかし、不首尾は政権だけではないし、民主党だけでもない。
自民党だって不首尾であり続けてきたし、言論機関だってそうだった。

そして、沖縄問題はたしかにいままさにこの不首尾から始まったのです。

May 18, 2010

相互依存便宜供与的身内社会の官房機密費(長い!)

例の、政治評論家やジャーナリストたちに渡った官房機密費(官邸報償費)問題ですが、大手メディアの中で週刊ポストと東京新聞の特報部がこれを報じ始めました。が、その他の大手新聞やTVはやはり反応が鈍いようです。とはいえ、NYにいるんで東京新聞もポストもまだ読めてません(汗)。特報部のサイト、ウェブから見ようとしたんですがあれは携帯からしか見られないのでしょうか? 月100円ちょっとと安いからいいなと思ってるんですけど。

そもそも、東京新聞というのは中日新聞社の東京本社の出している新聞なのですが、中日新聞とは別の紙面作りをしています。中日は名古屋で7割とかの圧倒的なシェアを持つ新聞ですが、その紙面は実におとなしく堅実で東京的にはあまり面白くない。それで東京新聞は名古屋の中日と関係なく紙面作りをするわけ。しかもかなり他社から引き抜いた記者も多く、中日プロパーのラインの記者もわりと独自色を出そうと気骨のある記事を書きます。とくに特報部はそれが存在理由なんで、けっこうさいきんも頑張って他紙の書かないことをやっているようです。

さてこの機密費問題の追及をほぼ孤軍奮闘で続けようとしているのは20代のときに鳩山邦夫の公設第一秘書だった上杉隆さんという人で、つぎにNYタイムズの東京取材記者となり、さらにフリーランスになって、さいきんはテレビの露出も多いようですね。鳩山邦夫との関連がきっかけだったのかしら。私も4月だったか、東京にいたときにTOKYOFMに出演依頼されてスタジオまで出かけたんですが、それもじつはオーガスタ取材で不在だった上杉氏のコーナーの代役出演でした(笑)。

閑話休題。で、彼はNYタイムズにいたせいもあってか日本の既存メディアや記者クラブのあり方を批判しているんですね。彼の立場は明確です。官房機密費は政府として必要だが、それをマスメディア関係者や評論家たちに渡すのはジャーナリズムと民主制度の根底を揺るがす大問題だ、というものです。

その上杉さんが先日、大阪読売テレビの「たかじんのそこまで言って委員会」という番組で機密費受領疑惑の毎日新聞出身御用政治評論家である三宅久之と対峙しました。YouTubeに出てたのをすかさず見つけて見たんですけど、いまそれは削除されてます。ほかの「委員会」の映像はそのまま放置されてるんですが、その回のは読売テレビからの要請で削除、ってなってますわ。どうしてでしょうかね? まあ、いずれにしても記憶を辿ると、そこで三宅さんは、自民党政治家が出席できなくなった講演会に代理で講演してくれと頼まれ、その講演料はもらったことがあると明かしてました。だれだったかなあ、藤波官房長官だったか? でも、機密費なんか「もらってない」と、言ったような……。ポケットマネーだった、とか(でもそんなのわからんわね)。それから領収書は書いてないみたいですね。

なるほど、「盆暮れに500万」という現金ならば機密費もあからさまですが、それが講演や政治勉強会名目で招聘され、一般相場より割のいい講演料やお車代をもらうとしたら政治評論家もジャーナリストもじつに「もらいやすい」だろうな、と思い至りました。

三宅某は自分の供与された金銭を不労所得の現金ではなく労働実体のある講演料だ、と名目上の具体に誘導し、避難・言い逃れるしているわけです。しかしそれでも講演料は法外ではなかったのか、領収書書いてないなら税金は申告してないでしょ! という問題は強く残ります。

だがその番組、辛坊というアナウンサーがやたらうるさくて、上杉氏のそれ以上の追及を邪魔するんですね。辛坊は「私の知ってる限り、機密費をもらった人など1人もいないですよ!」って見栄を切るんだけど、それに何の意味があるんでしょう。取材調査もしないオマエになんかにゃ聞いとりゃせんわ、ボケ、です。で、野中から「唯一機密費を断った人」とされた田原総一朗もそこに出演して座ってはいたんですが、彼もこの件ではムニャムニャと歯切れ悪いこと甚だしく、何なんでしょうね。同業者をかばう日本的な思いやり? それとも自身もまだなにか話してないことがある?

上杉氏も指摘していましたが、NYタイムズなど米国のメディアには取材対象から金銭的な供与を一切受けてはならないという社内規定があります。たとえばスターバックスのコーヒー1杯程度ならよいが、2ドル相当を越えたら解雇される、というほどの厳しいものです。

ところが日本の新聞社やテレビの報道部局にはそういう明確な規定はありません。というか、記者クラブの便宜供与もそうなのですが、その辺、わりと大雑把なんです。政治部では政治家に食い込めば食い込むほど彼らとの会食やゴルフなんかの機会も出てくる。そのときにきっかりと自分の分の代金を払っているのかどうかははなはだ心もとないところだし、経済部だって企業の商品発表の記者会見などではその商品そのものなどお土産がたくさん。ま、原資は税金じゃないからこちらはまだいいでしょうが、おもらい体質はそうやって培われていくんでしょう。

社会部の事件担当記者にはそういう金銭の絡む関係というのはあまりないですが、しかし情報のおもらい体質というのは存在します。警察や検察からの情報を「もらう」ことに、どんな政治的な作為があるのか、その辺に無自覚にそちらからの情報だけで書いてしまう恐ろしさというのは、昨今の東京地検特捜部のあからさまな情報操作リークでも明らかになってきたところでしょう。

そうしてふと気づくのは、このおもらい体質というのはそもそも日本社会全体が中元・歳暮に限らず、かなりな身内志向的相互便宜供与社会だということと通底しているんじゃないか、ということです。

こないだの大阪の講演でも言ったことですが、例の「身内社会」の成立要件が、この付き合い方なのです。つまり、このわたしたちの社会って、なんらかの付き合いがあれば赤の他人だった人同士でも身内にしようとする、なろうとするように動く社会なんですね、わが日本は。そんな中で贈り物が、挨拶として日常茶飯に行われてきました。それが渡る世間というものなのです。

旅に行くと、出張でもそうですけど、とにかくみなさんその旅先でお土産を買って帰るでしょ。そして同僚・上司やご近所に配る。そんなの、アメリカではあんまり見かけません。贈り物はあくまで個人の領域ですることで、公的な場面ではそれは賄賂や買収です。ですからすでに親しくなった人たちにはするけど、これから親しくなろうとする人を対象にするのは、好きな人に花を贈るときくらいで、そのほかはその意図があからさまに透けて(恋人候補には、逆にその意図が透けないとダメだからいいんですけど)、さもしく映るんです。それは格好わるいから。

さらに日本ではそこに上下関係も出てきます。メシをおごると言われているのに割り勘を主張するのは可愛くないヤツです。それが続けばさらになんとイケ好かないヤツだということになります。メシをおごるのは太っ腹な上司の器量の見せ所なんであって、そういうのを便宜供与だとは意識しない。上司と部下の仲、あるいは利害関係のある仲でも(身内同然の)オレとオマエの仲じゃないか、とうのが理想とされる付き合いなのですからそこに向けて限りなく引っ張られていくのですね。

ふむ、「社会」と「世間」が、日本じゃ実に巧妙に入り組んでるんですな。

ただ、ジャーナリストはそれでは絶対にいけない。ジャーナリストはときに付き合いの悪い、空気の読めない、嫌なヤツだと思われることを恐れてはいけないのです。「社会」と「世間」を混同してはならない。あくまで社会に生きねばならない。そうじゃないと対象の不正を暴けないですからね。

そういう覚悟ができているか? それとも、基本的に世間的な「いい人」でありたいのか?

先に書いたように、メディアでもの申す人物に機密費が渡るときに「盆暮れに500万」という現金ならこれはもうど真ん中で追及しやすいですが、名目上、講演料や車代などのなんらかの「実体」のある対価として渡る場合には、たとえその意図が見え透いていても日本の世間的には批判が和らぐのを、どう論破するのか予防的に考えておいた方がよいと思います。だって、それならおそらくいろんなひとがカネ、もらってる。舛添なんて政治家になる前は自民党関連の勉強会で引っ張りだこでしたしね。それに、新聞記者やTV報道記者もかなりそういうのでは引っかかってきます。だから、なかなかキャンペーンを張れない。東京新聞特報部はまだ若手の一匹狼的記者がピアプレッシャーの主体だから書けたんでしょうけどね。

いみじくも「言って委員会」で三宅が言っていましたが、「会社員は給料もらってるからダメだが、私なんぞはフリーでそういうのでカネを稼いでるんだ。それをダメだと言われたらたまらん」(私の記憶からの書き起こしできっと不正確)みたいなこともある。彼なんぞはとくにもうジャーナリストじゃないし、たんなる政界の政局的内情通でしかないわけで、御用コメンテイターとして雇われてんだ、その何が悪い、と開き直りかねません。そのときに、なんと断罪するか? それもそれは彼を切るだけが目的なのではなく、先に触れた相互便宜供与で成り立っている日本のこの世間が納得する話の筋でなければならないのです。

うーむ、難しい。

そこらへんすっ飛ばして、官房機密費、10年後もしくは20年後(あるいは関係者の死後)に公表します、ってやっちゃえばいいんでしょうね。そうしたら自ずから、もらう方が判断しますよ。しかも歴史の重層が明らかになるし。

そうだ、そうだ、そうしちゃえ、というのが本日の結論であります。ふう。

May 11, 2010

このグッタリ感の理由

続報を期待しているのにさっぱり出て来ないニュースがあります。98〜99年に小渕内閣で官房長官だった野中広務が最近、官房機密費(官邸報償費)を当時「毎月5000万〜7000万円くらいは使っていた」と暴露した件です。使途については▼総理の部屋に月1000万円▼自民党の衆院国対委員長と参院幹事長に月500万円▼政界を引退した歴代首相には盆と暮れに200万円ずつ▼外遊する議員に50万〜100万円▼政治評論をしておられる方々に盆と暮れに500万円ずつ──などとし、「言論活動で立派な評論をしている人たちのところに(おカネを)届けることのむなしさ。秘書に持って行かせるが『ああ、ご苦労』と言って受け取られる」とも話しました。

この話はじつは以前にも細川内閣の武村元官房長官も明かしていますから、その人たちの名簿は歴代の官房長官に慣例として引き継がれていたらしい。領収書や使途明細の記録を残してはいけないというこの官房機密費は、93〜94年の細川政権時代は月4000〜5000万円だったらしいですが、自公政権の末期にはほぼ毎月1億円国庫から引き出されていたそう。しかも政権交代直前には当時の河村建夫官房長官が通常の2.5倍もの2億5000万円を引き出したことがわかっています。平野官房長官が、金庫は空っぽだったと言ってますからね。

これらの正当性に関する論及を探しているのですが、日本から帰ってきてしまったせいかマスメディア上で探してもなかなか出て来ない。ネット上の未確認情報では、野中から機密費を受け取った政治評論家は渡部昇一、俵孝太郎、細川隆一郎、早坂茂三、竹村健一らだとされており、これら“過去の人”のほかにも最近では三宅久之や宮崎哲弥、河上和雄、岸井成格、岩見隆夫、後藤謙次、星浩、果てはテリー伊藤や北野たけしといった人たちの名前まで取りざたされていて、いやはやホンマかいなの状態。しかもテレビや新聞がそれらの真偽をまったく追及しないのもじつはメディア幹部に内閣からこのカネが流れているからだなんて話まであって、身を以て真偽が知れる「幹部」になる前に新聞社を辞めた自分の不明を悔いています(笑)。

しかし事は冗談で済む話ではない。いったい世論の何が操作され、何が操作されていないのか? テレビでかまびすしく持論を垂れるあれらの顔のどれが本物でどれがヒモ付きなのか? これはジャーナリズムの根幹に関わる問題であり、民主主義の土台を揺るがす大事件です。このことがうやむやなまま検証されなければ、政治評論家の存在自体が政治アパシーを加速させ、全体主義の台頭をゆるしかねない。ただそれら名前の挙がった人たちに事実の有無を訊いて回ればよいだけなのに、「噂の段階で聞くのは失礼」という奥ゆかしい日本的配慮なのかさっぱり埒が明きません。おまけに鳩山政権が機密費開示に消極的なのは野党時代にそこから巨額のカネを受け取っていたからだという話もあながちウソではないでしょうから余計タチが悪い。

政権交代とは、こうした旧体制の旧弊を白日にさらす重大な契機になります。そして、鳩山政権の支持率の急落理由は、世論操作?はさておき、こうした旧弊がせっかく明らかになってきているのに、それらのヘドロをぜんぜん処理できないことにあります。

沖縄基地問題の矛盾、高速料金の不思議、独立行政法人のムダ、天下りの甘い汁、年金行政のデタラメ……結果、毎日ヘドロを見ざるを得ない私たちはなんだかひどく疲弊しちゃうのです。

このグッタリ感は、参院選に向けての見え見えな人寄せパンダ候補者の発表でさらに募ります。とにかく初心に戻って、このヘドロ処理の行程表をとにかくいま一度示してくれるのでない限り、ヤワラちゃんだってイスタンブール歌手だってまるで逆効果でしかないですわね。もっとも、相手方も三原順子とか杉村太蔵とか元野球選手だとか、なんだかわけわかんないですけど。

May 04, 2010

突破力と粘着力

鳩山の沖縄・普天間基地の県外移設断念で、内閣支持率はきっと10%台あるいはそれ以下に急落しているに違いありません。政権交代というモメンタムを以てしてもこの政権に「突破力」がなかったことはこれで確実にわかりました。

ただ問題は、普天間がこの腰折れで終わり、「公約」違反の鳩山退陣で片をつけたら、続く政権は今後何年も沖縄を鬼門としてなんら基地問題を解決するような公約すら出さずにお茶を濁すだけでスルーしようとするのではないかという心配です。それはどう考えたってまずいでしょう。じゃあ、どうするのがいいのか? この政権にまだ問題解決の「執着力」や「粘着力」(っていうんでしたっけ?)を求めてなお期待をつなぐのか、それとも見限るのか?

じつはこの数週間でパラオやテニアン島の議会が米議会に対し普天間の海兵隊4000人の移設先に立候補しています。

アメリカの自治領であるテニアン島には60年以上前に4万人規模の米軍基地が建設されていました。島の面積の2/3がいまもその基地機能の再開を念頭に米国防総省に100年契約で貸与されているのです。テニアンにしてもパラオにしても、もちろん今回の基地誘致の議会決議は雇用創出やその他の経済的利益を見越してのことです。

そういう経済の思惑は両島に限りません。日本側だって辺野古への杭打ち移設で日本企業に流れる8600億円ともいわれる利権がある。それが、すでに滑走路が3本もあるテニアンなら一銭にもならない「恐れ」があります。

一方、アメリカ政府にしても普天間の移設先として「グアムとテニアンが最適」というドラフトを用意しながら(鳩山も沖縄訪問で「将来的にはグアム、テニアンが最適」と発言していました)、アフガンやイラクでの戦費がかさんでいるのとリーマン・ショック後の歳入不安で、そんなときに大規模な基地移転なんかでカネを使いたくないという事情も見えてきました。まあ、沖縄にいるかぎり例の思いやり予算で米側の負担はずいぶんとラクチンなのですから。

こうしたカネの事情をすっ飛ばして「5月末決着」を打ち出した鳩山の政治的ナイーブさが現在の彼の政権の苦境を生み出しているわけですが、このままでは県内移設反対の社民党がいつ政権を離脱してもおかしくない。それを見越して永田町は一気に政局へと傾くかもしれません。以前から言っていますが、「現状維持」を旨とする官僚システム内にはこれでほくそ笑んでいる向きも多々あるはず。じつはこの辺も普天間県外移設の、最大の影の抵抗勢力だったかもしれません。特に北沢防衛大臣など、いかにも面倒臭いことはしたくない官僚任せ閣僚の風情ですしね。

それにしても相変わらず新聞論調はダメですな。例によって読売は「だが、米側は、他の海兵隊部隊の駐留する沖縄から遠い徳之島への移転に難色を示す。杭打ち桟橋方式にも安全面などの理由から同意するかどうかは不透明だ」。産経も「米側は日本国内の動向を注視している。首相の腰が定まらなければ、日米協議も進展しまい」と、まるでいまでも米国の代弁者。沖縄の負担を軽減するための言論機関としての提案はぜんぜんやってこなかった。日米新時代への言論機関としての気概はまるでないんだから。

この政権に「突破力」がなかった、と冒頭に書きましたが、いまさらながらこうしたすべての事情が沖縄問題の「壁」であったわけで、それらを一気に「突破」するのは容易なもんじゃないと改めて思います。

それでも沖縄問題は続きます。私たちが鳩山政権を見限っても、冷戦構造崩壊後も残る沖縄の「異状」は存在し続けます。求められているのは政権の突破力や問題解決の粘着力ではあるんですが、じつは私たち国民の突破力と粘着力もまた必要なわけで、簡単に匙を投げる我々を沖縄の人たちはさてどう見てるんでしょうか。

May 02, 2010

「私」から「公」へのカム・アウト──エイズと新型インフルエンザで考える

2009年12月12日、大阪のJASE関西性教育セミナー講演会で話したことを要約しまとめたものを(財)日本性教育協会が『現代性教育研究月報』4月号で採録、さらにその原稿をこのブログ用に加筆したものを「Still Wanna Say」のページにアップしました。

ご興味ある方はどうぞ。

「私」から「公」へのカム・アウト──エイズと新型インフルエンザで考える