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July 26, 2010

英語しゃーない公用語論

ニューヨークの駐在には、日本の会社から必ずしも英語の堪能な人が派遣されてくるわけではありません。それでもやはりある程度は英語が必要でしょう?と聞かれたりしますが、多くの企業で、選任のポイントは「英語」ではなくて「仕事」の出来る人なのです。英語は、その仕事のための1要素でしかなく、まったく英語がダメな人もけっこう来ます。

日本でユニクロや楽天が社内公用語を英語にすると発表して話題になっています。今後ビジネス(事業)をグローバル(世界的)にエクスパンド(拡大)させるにはイングリッシュ・スピーキング(英語圏)のマーケット(市場)に……というわけなんでしょうが、じつはビジネス上の英語は決まった言い回しや単語が多く、会議で交わされる事業戦略や業務報告なども関連の用語さえ押さえればけっこうかんたんに通じてしまうものなので、日本で思われるほどそう大変なことではないかもしれません。ユニクロや楽天の英語公用語化がどういう展望の下で行われるのか報道だけでは今ひとつわかりませんが、日本語なら曖昧に端折ったりしてごまかせることが英語では不可能なので、むしろすべてを具体的に話すという英語特有の思考回路の開拓のためにはこの策は有効かもしれません。
 
では難しいのは何かというと、じつは日常会話がいちばん難しい。どのくらい英語が話せるかという質問によく「日常会話程度」と答える人がいますが、その人たちの思い描く日常会話とは「お名前は?」「これいくら?」「どこにあります?」という、会話というより挨拶みたいな定型文でしかありません。そう、その意味ではこれは前述のビジネス英語と同じようなもんで、想定の範囲外の単語は出てこないという前提があるのでしょう。
 
でも、本当の日常会話とは「調子どう?」と聞いたときに「アイ・アム・ファイン、サンキュー」ではなくて「いや、五十肩でまいっちゃってさ」とか「リストラに遭いそう」とか、頻繁に予想外のことが返ってくるアドリブ能力の試合場のことです。つまりそのときにどんな引き出しをいくつ持っているかがカギなのだということは、ふだん日本語をしゃべっている経験からだってわかっているはずです。よく海外では政治と宗教の話はタブーだとか言われますが、アメリカ人はなにごとにも一家言を持っているので、政治や宗教の話だって普通に話します。もしそんな話をされたことがないなら、それは自分が相手に政治や宗教の話をしても面白くないヤツと思われているというだけのことかもしれません。

要は、日常会話でも政治談義でも話の内容です。いかにその人なりの中身があるかどうか。それは英語と仕事の関係にも似ています。いくらうまく英語を操れても、肝心の仕事の発想がつまらなければ何にもならない。

英語の社内公用語化も、英語だけ出来て仕事の出来ない人が重用されるようなしゃーない倒錯が起きなければいいんですが、きっとそういう勘違いは少なからず社会のあちこちで起きるでしょうね。

July 25, 2010

ashes to ashes

ちょいと間が空きました。
NYの長年の友人が手術後の吐血で亡くなってしまって、手術するとなんだかみんな死んでしまいます。まあ、手術しないと生きてられなかったのも確かなんですが。

彼のお葬式にはNY仏教会としては前代未聞の100の花と延べ800人もの人が集まって、「香典袋がどこでも売り切れてしまってて……」と普通の封筒で恐縮しながらお香典を差し出す人も多かったです。NYの日本スーパーや紀伊国屋で売っている香典袋の合計数なんて知れていますが、それでも改めて彼の生前の付き合いの範囲の大きさに感心しました。

式後、初めてブロンクスにある霊園に行って遺体を荼毘に伏しました。ヴァン・コートランド公園の横にあるこれまた大きなウッドローン墓地。きれいなところでした。でも、日本の火葬と違って、返ってくる遺骨は「お骨」というよりも「灰」だそうです。そういや、お骨って、英語では ashes であって borns じゃないんですものね。形の残るお骨はなんだか勝手に舞台裏で捨てられて、さらさらの灰だけが骨壺に入って返ってくるそうです。うちの義経が死んだときもそうでした。ちっちゃなブリキの缶に、さらさらの灰が入ってました。ashes to ashes という言葉もありますし。

合掌。