小沢一郎という政治家はよほど嫌われているんでしょう。検察審査会の2回もの議決で強制起訴が決まり、それでも議員辞職も離党もしないと言うので、各紙の世論調査によると6割とか7割の人たちがけしからんと思っているようです。
じつは公務員の場合、刑事事件で起訴された時点で「通常な勤務が不可能になる」「公務につくことに疑惑や疑念が生じる」ために休職扱いとなります。ただしそこで被告人本人が罪を認めている場合は、本人に確認した上で懲戒免職の処分が下されたりします。でも本人が罪状を否認している場合はあくまでも「推定無罪」の原則で免職にしたりはできません。
ところが日本では、逮捕されたら即、犯人という印象が強いですよね。だから起訴の段階で会社を辞めさせられたりすることもあるかもしれません。あるいは世間的にそういうふうに思い込んでいる人も多いでしょうね。これはひとえに優秀な日本の警察への信頼があって、さらにそれに乗っかった上でメディアの報道があるからです。新聞記者もテレビ記者も、事件や事故の場合は日常的にほとんどが捜査当局の情報が主たる第一次情報なので、自ずと視点はまずは捜査当局のものと同じになります。
捜査当局の視点とは、事件においては、あくまでも容疑者を捜し出し、そいつは有罪だと思って邁進するという視線です。メディアも推定無罪原則はいったん棚に上げ、とりあえずは手っ取り早く手に入るそうした容疑者情報を基にすることになります。それが同時に、読者に読まれるような(事件が解決してよかった、いったいどんなやつが犯人なんだ?的な)記事を提供するということにつながる。それが期待されるニュースなのですね。
新聞もテレビも商売です。推定無罪を掲げて容疑者の人物像や事件の背景を伝えなかったら(それはまだ捜査当局の思い描く「筋読み」の物語でしかないのですが)だれも買っても見てもくれません。せめてバランスをとって容疑者側の言い分を伝えようにも、勾留期間中は弁護士以外は接見禁止だったりして直接取材ができないので、警察や検察経由の供述内容を伝聞報道するしかないのです。記者による独自の調査報道というのもありますが、よほどの大きな事件でないと徹底取材は難しい。それだっていわゆる世間の関心を見諮りながらやるわけだし、強制捜査件があるわけではない新聞社には人材や労力も限られています。
かろうじて事実に近いものが明らかになるのが裁判ですが、そんなころにはみんな当の事件の内容すら忘れています。とてもそれまで待てません。じつは裁判原稿はきちんと追うとかなり興味深いものがあるのですが、なにしろ事件から時間が経っている上に公判も小間切れで、1回1回の間隔が長い(最近の裁判官裁判は違いますが)。自ずから読者も限られてきます。
かくしてジャーナリズムは、いまも瓦版時代の一時的・短期的なセンセーショナリズムから脱却しきれない。まあ、日本の検察の起訴有罪率は99%以上ですから、そこに乗っかって記事を書いてもあまりハズレはないわけですが。
しかし今回、厚労省局長だった村木さんの裁判で恐ろしいことが発覚しました。前回のコラムで書いたように、検察は自分たちの有罪物語に合わせて証拠を捏造することもあるのかもしれないという重大な疑義が生まれたのです。そのことに世間が気づいた。じつはこれに合わせて新聞報道やテレビ報道というのもじつはすごく危ないのではないかということもわかったのですが、これは当の新聞やテレビが触れないのであまり話題になっていませんよね。
でも、こんなのがありました。
朝日新聞社の今年の会社案内です。まずは9月初め時点でウェブサイトなどで宣伝されていたこの紙面を見てください。
そしてこれが10月になって掲載されている同じ、というか改訂された宣伝文です。
どう変わったかわかりますか?
改訂前は、この郵便不正が局長逮捕にまで及んだ大事件で、それを「朝日新聞は、特捜部のこうした捜査の動向や、事件の構図なども検察担当の記者たちがスクープ」と自慢していたのですが、改訂後には「一方、(中略)厚生労働省の局長が逮捕・起訴されましたが、大阪地裁で2010年9月、無罪判決が出されました。朝日新聞は、逮捕の前後から局長の主張を丹念に紙面化すると同時に、特捜部の捜査の問題点を明らかにする報道も続けました」となって、掲載した新聞紙面の写真も、真ん中のが村木さんの写真まで付けた「厚労省局長を逮捕」の紙面から差し障りのないものにすげ替えられているのです。
村木さんが逮捕・起訴されたときのメディアの報じ方は、やはり前述した「犯人扱い」でした。なんだか女性の出世頭であることが悪いことかのように、まるで(言葉は悪いけど端的に言えば)「やり手ババア」みたいな書き方をしていたんですよ。そのことにホッカムリして、しれっとこれはないでしょう、という気がします。ま、朝日に限りませんが。
村木さんだけではありません。今年は足利事件の菅家さんの再審無罪もありました。そんな大げさな事件でなくとも、たとえば痴漢の事件などでかなりの無罪判決が出ています。これは07年に公開された「それでもボクはやってない」という映画でも描かれていたパタンです。
そういうときはみんな「無実なのに有罪にされるなんて、怖いなあ」と思うのですが、でもやはり誰か容疑者がつかまるとどうしても懲罰心理が働いてしまう。「赦せない」「懲らしめてやれ」という感情がその人に集中します。その心理を煽るようにまたメディアもそうした流れに添った情報を売るのです。
話を最初に戻しましょう。小沢一郎に対するこの検察審査会による「起訴」は、そんな「一般」の「市民」の「感情」を背景にしているのでしょう。朝日は社説で「知らぬ存ぜぬで正面突破しようとした小沢氏の思惑は、まさに『世の中』の代表である審査員によって退けられた」と書きました。他紙も異口同音です。本当にそうなのでしょうか?
ここまでを踏まえた上で、次に検察審査会の問題に触れたいと思います。
**(以下、10月18日に加筆です)
さて、幸せなことに私たちは警察や検察、さらには裁判所というものを概ね信じられる社会に生きています。ところがその日本の検察になんだか最近「暴走」が目立つ。無理やり世間受けする犯罪を作り上げているのではないかという疑義が生じている。それがこのブログ前段の主旨でした。
長年、同じ体制が続くと必ず惰性と怠慢と傲慢が顔をのぞかせます。自民党体制はそうやって政権交代を余儀なくされました。同じ目がいま、官僚機構に向けられています。その1つが検察に対する「一般の国民の目線を持つ」検察審査会だと思われました。
ところが今回の小沢一郎強制起訴につながる第五検審の議決の結論は、要するに「検察官だけの判断で起訴しないのは不当」で「国民は裁判所に、本当に無罪なのか有罪なのかを判断してもらう権利がある」ということでした。よって「起訴すべきである」としたのです。
これはじつにもっともな意見です。ただし、ここで見逃していけないことは、逮捕・起訴の時点で、その人の社会的な名誉はほぼ確実に失われるという現実があるということです。「推定無罪」の原則は世間的には働かない。
菅家さんの、村木さんの冤罪などがあって、わたしもちょうど過敏になっているせいかもしれません。でも、小沢一郎は検察が起訴したくてしたくてたまらなかったのに出来なかったのです。それを無理に起訴して裁判にして無罪にでもなったら、これは無謀な起訴、暴走検察とのそしりを免れない、と検察は判断したわけですよね。そうなったら無実の者を陥れようとしたと批判される。大変だ、と。
でも、それじゃダメだと第5検審は結論した。とにかく裁判で白黒つけろと。検察の密室内だけで判断するんじゃなく、白日の下で国民に納得がいくようにしろ、と。
でも、ここで疑問です。強制起訴して、そして裁判で無罪となったら、これ、誰が責任取るんでしょう? 無謀な第5検審? 暴走検審? そんな話になるんでしょうか?
検審は一般市民から選ばれます。でも、それが誰なのか、どういう議論でそういう議決になったのかも明らかにされません。議事録もないのです。もちろんそんな名もなく力もない一般市民に「誤り」の責任を押し付けるわけにもいきません。
しかし検察審査会というものがものすごい力を持っているものだと改めて気づかされたのがこの小沢強制起訴です。国会では離党だ議員辞職だと迫られ、これで議員辞職ともなれば検審システムは国会議員の問責決議以上の権力を持つことになります。いや、選挙で落選させる以上の力にもなります。それって検審のメンバー11人が担え切れる責任なんでしょうか?
権力には、それに見合うだけの責任が必要です。検察は、冤罪を起こせば何らかの形で責任を取るでしょう。菅家さんの担当検事は無罪となっても一言の謝罪をも拒否しましたが、村木裁判では責任者が辞職する流れになっているようですね。そうしてその責任の反映が、起訴有罪率99%以上という事態につながっている。もちろん、この重責が、何がなんでも有罪にしなくちゃならん、という調書の作文につながってもいるのですが。
しかし一方、検察審査会には責任の取りようがありません。白か黒かわからんからとりあえず起訴して裁判だ、あるいは、黒に限りなく近い灰色に見えるから裁判だ、となって、この検審による起訴が検察による起訴と同等に扱うことには、それは無理があるのではないか?
なぜなら、検審は捜査権を持っていないからです。そんな検審が「全部裁判で」と起訴を乱発していったら、起訴有罪率はずいぶんと低下してくるはずです。そうなっても、起訴=有罪を前提にした社会的制裁は正義でいられるのでしょうか? 検審の起訴議決は検察の起訴と同じなんでしょうか?
検審と検察はどうしたって違うでしょう。なぜなら、検審は自分たちで捜査して「限りなく灰色」と判断するのではないからです。検審は、それまでに警察や検察が捜査した手許の資料を読み込むことで「限りなく灰色」と判断するのです。というか、判断材料は手許の資料しかない。
このときに、検審のメンバーが検察の判断を明らかに覆せるのは、その同じ捜査資料を基に、検察が明らかに容疑対象者に手心を加えた、恣意的に手ぬるい処分で済ませた、というのが見えたときだけではないでしょうか? つまり、身内に甘い措置とか、身内かばいの起訴猶予とか。
先ほども書いたように、小沢一郎は検察が起訴したくても出来なかった案件です。手心を加えたのではない、庇ったのでもありません。検察はこのとき、むしろ権力の横暴を自制したのです。というか、諦めた。お手上げになったのです。ところが第5検審はそこを、進め、と言った。これは、検察が傍若無人に身内かばいをして不起訴にしたものを検察審査会が正す、という形の、通常の拮抗関係とは逆の形なのです。私はむしろ、右翼の営業妨害を恐れて日教組大会の開催をキャンセルしたプリンスホテルに対する検察の不起訴を、検察審査会がそれでいいと認めた議決の方(9月30日)こそ、「起訴相当」とすべきだったと信じているのですが、ほんと、おかしいよなあ。正義がどこにあるのか、これじゃ右翼の街宣活動による社会生活の妨害を間接的に是認したことになるじゃありませんかね。他にだってあります。三井環元検事による検察の裏金告発問題、高知白バイ事件の冤罪の可能性と警察ぐるみの隠蔽……。
閑話休題。
「判断材料は手許の資料しかない」とも書きましたが、その点でもこの第5検審はおかしなことをしています。
この場合の「手許の資料」とは、「告発された内容」のことです。ところが第5検審は、どういうミスかその告発内容以外の、「土地の購入資金に充てた4億円についても収支報告書にうその記載をした」という、新たな容疑を犯罪事実として追加しているのです。つまり、手元にある資料以外のものをも独自に捜査しちゃったことになる。まあ、それを新たに告発するのはいいのですが、でもその場合も法的というか論理的には「2度の議決を経て強制起訴となる」のですから、その件についてはもう1回議決しなくちゃならないことになるわけです。
さらに、この第5検審、ほんとにちゃんと審査をしたのかも疑問な部分があるのです。このメンバーが第1回の審査会を開いたのが9月7日。陸山会事件の関係資料は厚さが20cmで2000ページに及ぶというんですが、それを9月14日の第2回審査会で議決にこぎ着けるわけです。これ、どうなんでしょう? みんな、ちゃんと資料に当たったなんて、信じられます? なんか、予断があって簡単に議決しちゃったんじゃないのって、思っちゃいますよね、ふつう。
今回の「小沢起訴議決」は、村木訴追における前田検事のフロッピー改ざんが明るみに出る前の判断でした。つまり「起訴」の持つ責任の重みが改めて問いかけられる前の議決だった。マスコミは「政治とカネ」のワンフレーズ報道の大合唱で、国民世論は嫌疑を検証する必要もなく熱くなっていました。検審の審査員たちはそんな空気に影響されていなかったのか? 予断とはそのことを言います。
米国の陪審裁判では、陪審員はものすごく厳しく選出されます。当該事件のことをマスメディアの報道で知っているか? 関係者と利害関係がないか? 事件に主観的な先入観を持っていないか? そうやって弁護人、検事双方からふるいにかけられ、「十二人の怒れる男」たちが、いや女たちも、時には数日もかけて選ばれるわけです。でも、日本では裁判員もこの検察審査員も、そんなに厳格には選ばれていないようです。そしてまあ、前にも書いたように、議事録もない(!)わけで、彼らに予断があったかどうかという私の疑義は事実上検証不能なんですが。
ただね、おかしいのはそれだけじゃないんです。例の平均年齢問題。あまりに密室審査なので検審事務局が世論に押される形で審査メンバー11人の平均年齢を出してきました。それが最初は30.9歳。でも、おいおい、これはいくらなんでも日本人社会の年齢構成から言っても若すぎるんじゃないかと疑問が出た。そしたら1人足し忘れがあったとして、33.91歳と訂正された。で、足し忘れた審査員の年齢は37歳だって説明したわけです。でも、計算合わないでしょ。37歳だった場合は平均で34.27歳になりますから。でも新聞もそのまま記事にしちゃったんですよね。そしたらまたそれじゃ変だろ、って声がわき起こった。当然です。でまた訂正と相成った。で、結果的には34.8歳だった、と。まあ、これでもずいぶんと日本人社会の構成から言って不思議に若すぎますがね。
ま、そんなのは本来は枝葉末節な話なんですが、でも検審が変だと思い始めたらそんなことまでじつに気になるのです。だって、検審事務局は、この年齢問題を「足し忘れ以外の10人として計上した数字自体に誤りがある。この数字(30.9歳)はお忘れ頂いた方がよい」「基礎とした数字が間違っていた」と言ってるんです。で、しかも11人の審査員の年令公表は「具体的には特定にも繋がる恐れがありますので、お答えしておりません」ときた。年齢から個人が特定されるなんてことだったら警察の犯人捜査ももっと容易になるはずですが、まあそれをさておいても、じゃあ、1人だけ公表されちゃった37歳の人の個人特定の「恐れ」はどうなるんでしょうかね? その人は人身御供ですか?
不信は続きます。ないのは議事録だけじゃなく、審査会がどこで開かれたのかその会議室名も「公表できない」審査会を何回開催したかも「言えない」って言うわけです。おかしくね? どこの国ですか、ここは?
検察審査会の責任と権力のアンバランスが、いまになってとても不気味だと感じています。なぜなら、責任を取らない権力は独裁であり、その力の行使は暗闇から手を出して逃げ去るリンチと同じ構造を持っているからです。検審には、つまり、リンチが可能なのです。それは恐ろしい発見です。
とどのつまり、私たちは、何人たりとも犯罪者はぜったいに見逃さないというがっちりした120%の安全社会を欲しているのか、それとも、絶対に無実の者を陥れることのない、ゆったりした80%の安心社会を目指すのか、の選択なのかもしれません。前者は必ずや冤罪を生むでしょうし、後者は犯罪者を逃しもするでしょう。もちろん両者の兼ね合いが望ましいのですが、その両方に振れながら社会は進んでいくのでしょう。そして、そのとき自分は、この命題の主語の位置にいるのか、目的語の位置にいるのか。両者の選択は、その違いかもしれません。それはつまり、権力をどれだけ信用できる社会なのか、ということでもあるのですが。
さ、ここまでで検察、検察審査会のおかしさをまとめてみました。でももう1つ、おかしなものが浮き彫りになっています。この蘭の前段で触れた、マスメディアの奇怪さです。朝日の社説は、ここ最近でもまれに見るひどさでした。検察のおかしさ、それに追随した自分たちのおかしさ、そしてそれを上塗りする検審=正義説に則った社説や論説。
ネット上にはこれまで表に出てこなかったミニメディアの言説が渦巻いています。わたしはマスコミを「マスゴミ」と書くような輩の文章は端から捨てていますが、時には自分も「こりゃあゴミだ」と思うような新聞記事に出くわすことがままあります。日本のマスメディアのいびつさ。そこを指摘し続ける最近の日本の独立系のフリーランスジャーナリストたちの言説がとても新鮮で力強い。マスコミの無謬神話なんぞとっくに破綻しているのですが、その破綻具合を言語化する強いメディアがこれまではありませんでした。しかし、いま、ネット上のミニメディアというべきストリーム映像による個人放送やブログ、ツイッターなどが連携し始めています。ミニコミからマスコミの間に、そういうメディアが育ち始めています。
おそらくそのメディアによって、検察の無謬神話の次には、マスコミの無謬神話がこれから目に見える形で崩壊すると思います。