自由と平等との衝突
米中間選挙はいままだ開票が続いていますが、下院は共和党が56議席ほどを上積みするという歴史的大勝を遂げました。上院は民主党がかろうじて多数派を維持するようですが、象徴的なのはこれで上院に黒人議員が1人もいなくなるということです。黒人の3候補がいずれも敗北、残る1人の黒人議員も引退するからです。
2年前のオバマ選挙のあの熱気はどこに行ったのか、というと、オバマを支持していた学生たちはいま就職できなくて選挙ボランティアどころではないわけで、先日のワシントンDCでのRestore the Sanity(正気を取り戻そう)キャンペーン集会でも2年前とはぜんぜん若者たちの動員率が違いました。
その2年前の熱気はあのティーパーティー運動の方に移ってしまっていたようです。いろいろ日本でも解説されているでしょうが、いまひとつ新しい視点でこの運動を見てみると、これは「平等」政策に対する「自由」派の反対運動でした。日本人の私たちには「自由」と「平等」とが対立する概念なのだということはなかなかわかりにくいのですが、今回の選挙戦で台風の目となったティーパーティー運動は一言で言うとすべての権力からの「自由」を標榜して運動を全米に広め、そして一定の勝利を収めたのです。
「自由」というと日本ではなんだかお題目的で、雰囲気だけはなんとなく革新のモットーみたいですがアメリカではちょっと違います。これはもっと実践的かつ具体的に、連邦政府によるすべての口出しからの自由を指します。つまり税金からの自由、銃規制からの自由、教育カリキュラムからの自由、エリート政治からの自由、エスタブリッシュメント(既得権益層)からの自由…等々。これは同じフリーでも「シュガーフリー」などの「フリー」、「〜なしの」の「フリー」の意味です。
どうしてそんなことが起きるのかというとそれはアメリカの建国の歴史と関係しています。ヨーロッパから渡ってきたプロテスタントの白人たちは自助と自立の精神で西へ西へと進みその地を自らの手で開拓してきました。そこにはこの地は自分たちの土地だ、自分たちの町だ、自分たちの国だ、という自負があります。後からできた連邦政府などに(しかも南北戦争以来、それはそもそも北軍の政府なのです)四の五の言われたくない。そういう人たちがアメリカの中西部、南部を築いてきたのです。その伝統はいまももちろん生きています。
米国ではこういう層を右派と呼びます。日本のように国家主義や国粋主義の右翼とは違い、米国の右翼は「連邦政府(国)は黙ってろ」「おれたちの好きにさせろ」という個人主義に結びつくわけです。それはつまりさっき言った白人プロテスタントの自助精神なのですね。それが彼らの「自由」なのです。
対して「平等」とは、社会格差をなくしてなるたけ多くの人が等しく幸せになれる社会基盤を作ることを旨とします。そのためには少数者差別をなくし社会弱者の優遇措置をとったり健康保険制度を作ったり突出や特権を規制したりするなど、政府がいろいろと手を出す必要があります。つまり税金もかかる大きな政府になるわけです。これが米国の左派=リベラル派です。
政府から「自由」にやりたいティーパーティー運動は、こうしたリベラル政策を攻撃して大きくなりました。きっかけはオバマ政権による金融企業の公的資金による救済や、住宅ローン破綻者の救済でした。公的資金を入れてでもこれらを救わない限りアメリカ全部が大変なことになる、との判断から行われたのがこの政策ですが、しかもそれらの元凶はそもそもブッシュ前政権だったのですが、MSNBCのクリス・マシューズによれば「すべてはブッシュ時代に始まったのだが、アメリカ人は現在の症状しか見ない、なにが悪いのかの診断をしない」ので、いまではすっかりオバマがすべて悪いことになってしまっているわけです。
そんな中、今年1月、2月に煽動右翼のラジオホストのラッシュ・リンボーがティーパーティーの原型となるばらまき型景気刺激策への反対運動をけしかけた。さらにCNBCの経済評論家リック・サンテリも「失敗した住宅ローンを自分が代わりに払ってやろうという御仁がいったい何人いるのか?」と呼びかけました。当初はたんなる単発的なキャンペーンだったのですが、それが長引く不況の中でさまざまな形の鬱憤を吸収して拡大していきました。彼らの論理では、国民皆保険制度も公的資金による救済もすべて社会主義的な悪しき平等だということになりました。そういう論理が言葉となって人口に膾炙し始めたわけです。
かくしてオバマはティーパーティー運動のプラカードでは社会主義者(アメリカではこの言葉は極悪人と同義なのです)になり、ヒトラーに模され(ヒトラーも国家社会主義者でした)、バットマンのジョーカー(ヒース・レッジャー版)の化粧を施されました。
従来も、こうした右派を吸収してきたのは共和党です。ところがティーパーティー運動は前のブッシュ政権を支えた宗教右派=福音派ともやや違います。今回のティーパーティーの選挙戦に教会は介在せず、自然発生的に個人が運動に参加した。だからなかなか実体のつかめない集団として、「〜派」というより「運動」という流動的な名称で呼ぶのでしょう。
これまでは共和党も民主党も小さい政府と大きい政府というおおざっぱな目標の違いこそあれそれぞれに現実的な妥協点を見つけてきました。しかし現在の景気の沈滞と失業率の高さはどんどんと社会への不満を募らせた。そんな状況では誰が大統領をやっても合格点は難しいのは当然なのですが、オバマ政治は、変革への期待が高かった分だけ余計に拙速に見えたのです。それは支持層の若者や社会的少数者たちからさえ改革の後退、妥協に映り、だから投票者すら2年で急速に減らしてしまった。それが今回の中間選挙の結果です。
さてティーパーティー運動はこれからの米国政治を左右するのでしょうか? 同運動でかなり目立ったサラ・ペイリンがまた2年後の大統領選挙に出てくるのでしょうか? オバマの再選は危うくなるのでしょうか?
ティーパーティー運動が今後、共和党の本流になるのかは微妙です。が、今回の結果は、直截の民意の現れとしてややもするとあの健康保険制度の見直しにつながるかもしれません。同時に、彼らが槍玉に上げていた中国の“不当な人民元レート”の切り上げを迫る強硬論が急激に台頭してくるはずです。でもその後でどうなるか? じつはティーパーティー運動は直近の怒りだけで動いてきたのであって、「その後」が用意されていないのです。外交政策だってなにもわかっていない。アラスカからロシアが見えると言ったサラ・ペイリンに象徴されるように、外国のことなど知らない、じつに内向きな運動なのです。
ただし、不気味さは残ります。なぜなら同運動を支える「白人プロテスタントの自助精神」の極端な形は、じつは白人至上主義やミリシア(極右武装集団)、さらにキリスト教原理主義に通底しているからです。大げさに言えば95年にオクラホマ連邦庁舎ビル爆破事件を起こしたティモシー・マクベイにも連なる。
「自由」とはこの場合、人種差別の自由や天地創造の聖書教育の自由でもあります。誰もはっきり言いませんが、それは黒人のリベラルな知的エリートであるオバマ大統領の誕生に触発された、伝統的な非・知的白人層の反動運動でもあるのです。あの2年前の白人中間層の屈辱が、米国の主人公であったはずの白人男性のなんとはなしの胸クソ悪さが、ティーパーティーの名を借りて形を表してきた、ということでもあるのです。冒頭で、上院で黒人議員が1人もいなくなるという事実が象徴的だと言ったのも、そのせいです。中間選挙では史上最高額となった計40億ドルもの選挙資金で、右翼・反オバマ派は親オバマ派の2倍ものおカネを投入していたのです。ティーパーティー運動を草の根保守運動と呼ぶ向きもありますが、いったいそんなカネ、「草の根」から出てくるようなものでしょうか? この金額は、いかにオバマへの拒否反応が渦巻いているかを示しているのです。そしてそれを支える者たちがどこにいるのかをも。
これでも2年後のオバマ再選はあるのか? それはまだだれにもわかりません。現時点では、なにも決まっていないのです。オバマのこれからの政策もまた。日本の菅政権の混迷は惨憺たるものですが、オバマ政権がどういう手を打てるのか、下手をすると一国の惨憺だけでは済まないのがアメリカの大統領職の恐ろしいところです。