「表現の自由って言われてもねえ……」を考える
過激な性描写のある漫画やアニメを18歳未満に販売するのを規制する石原都政の「青少年健全育成条例改正案」が可決の見通しとなりました。規制されるのは「刑罰法規に触れる性行為や近親相姦などを不当に賛美・誇張」して描写した漫画やアニメだそうです。
この条例に対して反対意見が渦巻く理由が一見よくわかりません。「表現の自由」と言いますが、子供に違法なポルノまがいを売る自由なんてないはずですし……じゃあ、どうして問題なのでしょう?
一般の人にとって、表現の自由ってのは常日ごろ自分を思う存分表現できている自由人たちの特権だと思われているようです。そんなもの一般人には無縁だしまして不健全なポルノを表現の自由を盾に擁護しようと言うのはまったくもって理解できない──そういう思いがこの条例に反対しない、つまりは問題なしと見なす背景なのでしょう。
それは置いておいて、ところで自分や自分の仲間たちのことを思い出すと、十代のころ、ぼくらはどんなに規制されていても「過激な性描写があるもの」を必ず探し出してきました(笑)。その中にはヒエーッてもんもゲロゲロッてもんもありました。どんなに規制したってそれは無駄でした。でどうなったか? そのうちに飽きてきたか、1日のうちの、重要だけれどある一部に成り下がった(あるいは成り上がった?)。
そうやってくだらんもんは淘汰されてきたのです。臭いものに蓋をして、ないかのごとく振る舞われていたらもっと鬱々と延命していたでしょうが、むしろ青年期のすべての葛藤は良きにつけ悪しきにつけそうした性衝動から生まれるものだと開き直った方がずっと「健全」でした。
くだらんものを淘汰する唯一の方法は、じつはくだらんものを排除することではなかったのです。よりくだらなくないもの、そんなものよりもっとかっこいいもの、すごいもの、面白いものがあると気づくことでした。それによってのみわたしの青少年はその澱みを振り返ることができたのです。
この改正案が無駄どころか有害なのは、くだらんものに対峙させるべき素晴らしいものを青少年たちに提示するという最も重要な発想を阻害し、くだらんものもない代わりにくだるものもない社会しか青少年たちに与えられないからです。
聞いてみるといいでしょう、賛成派のPTAとか政治家たちに、あなたはどれだけ人を感動させる物語を知っているのかと。どうせ陳腐な小話や交通標語みたいな常套句しか返ってこないはずです。そこにはボードレールもランボーもロートレアモンもいない。
ここに至って初めて「表現の自由」の重要さが見えてきます。くだらんものがあって初めてくだるものがある。くだらんものを表現できる社会にのみ、それに見合うくだるものが対抗的に存在しうるのです。あるいはそこでは、くだらんもの自体もくだるものに変容しうるのです。それこそが人生の核心なのです。
そういう逆説を理解できない凡庸な知能が、なんとも愚かしく目先の規制に走ってすべての青少年の遥かな可能性を殺すのです。
いや、この改正案が成立しても有能な表現者たちは書き続けるでしょう。そうした「特権」的な才能は大丈夫。しかし問題は、まだ特権的ではない才能たちが、この条例で自粛し、あるいは自粛する表現メディアの検閲によって多く斃れるかもしれないことです。表現の自由が、かくして既成の、特権的な才能に限られることになることが問題なのです。
いみじくも石原は言いました。「連中が果たして芸術家かどうかは知らないけど、そんなことで描きたいものが描けなくなるなら作家じゃないよ」。つまり彼は、彼のような特権的な人間のみが表現の自由を享受できるのだと言っているのです。これが石原という権力装置とこの条例の正体です。それは、ひいては一般人という民主制度の基幹構成概念が、言葉を持たずともよいというファシズムなのです。